第10話 決行前夜
昼休みの屋上は風の通り道で、湯呑の茶が思ったより早く冷めた。
国見さんはフェンス際のベンチにいて、膝の上の書類の角を風に取られないよう片手で押さえていた。私の足音に顔を上げ、少しだけ端に寄る。座れ、という意味らしい。
「五分だけ、よろしいですか。私事です」
「十分どうぞ。決算期ではないので」
こういう冗談の言い方をする人だ。私は湯呑を渡し、隣に座って、用意してきた順番のとおりに話した。
「婚約者に、結婚前から続いている相手がいます。領収書、指輪の購入記録、旅行の写真、本人たちの音声。証拠は揃えて、弁護士にも相談してあります。婚約の解消と慰謝料は、常識的な線で収まるだろうと言われました」
数字の報告をするときと同じ声が出た。
「式は、予定どおり挙げます。当日、親族の揃った場で、事実だけを読み上げて終わらせます」
国見さんは黙って聞いていた。湯呑から湯気が消えるくらいの間、風の音だけがした。
「……軽蔑しますか」
聞くつもりのなかった言葉が出た。手が冷たかった。湯呑を持っているのに。
「晴れの日を選んで、式をぶち壊す花嫁です。趣味が悪いって、自分でも思います」
国見さんは湯呑を一口飲んでから、ベンチの背にもたれた。
「ぶち壊すのは、先方がとっくに済ませています。早瀬さんがやるのは棚卸しでしょう。実際にあるものを、あるとおりに数える」
「……棚卸し」
「経理がいちばん強い仕事だ」
風が書類の角をめくって、国見さんはまたそれを押さえた。
「僕が何か手伝うことは」
「ありません。これは私の帳簿なので、私が締めます」
「でしょうね」と国見さんは言った。悔しそうでも心配そうでもなく、当然の決裁に判を押すときの顔に見えた。「君が何を壊すかより、何を守るかを見てる。ひとつだけ。月曜の朝、あなたの席はいつもどおりあります。伝票も溜めておきます。それだけは保証します」
鼓動が、ひとつ分だけ大きく鳴った。寒いはずの指先が、湯呑のせいにできない温度になっていた。
この項目にどんな名前をつけるかは、まだ決めない。仕訳は、全部締めてからでいい。
「……ありがとうございます。月曜は、定時に出社します」
「伝票が喜びます」
国見さんが短く笑って、その昼休みは終わった。
*
夜、アパートの小さなテーブルは、この数ヶ月の私の几帳面さで埋まっていた。
接待費の領収書の写し。二月十四日の購入証明が二通——七号のピンクゴールドは、私の指のサイズではない。箱根の投稿の保存と日付。金銭消費貸借契約書の写し。そして、居酒屋の喧噪ごと録られた音声。番号を振って、封筒は三部。原本の在り処は、ここではない別の場所に決めてある。
「点呼、終わり?」
葵が、コンビニの菓子の袋を破りながら言った。
「終わり。葵の役目は、明日、列席して、何もしないこと」
「何も?」
「何も。データの控えを持って、ただ見てて。私が読み間違えたら、あとで笑っていいから」
「読み間違えたことないでしょ、あんた」葵は麦茶を注いだ。「弁護士さんは何て?」
「事実を事実のまま、余計な形容詞をつけずに、って。慰謝料は相場の範囲で、たぶん話し合いで済むって。おばあちゃんの土地には、誰も手を出せない」
「完璧じゃん」
「完璧じゃないよ」私は封筒の口を閉じた。「明日の私は、たぶん膝が震えてる」
葵はしばらく黙って、チョコレートを一粒、私の手のひらに置いた。
「震えてても読めるように、番号振ったんでしょ」
私は一粒を口に入れて、甘さで返事の代わりにした。
*
式当日の朝は、晴れた。
あの日と同じ晴れ方だった。支度室の窓から見える空に、雲が三つ。介添えの方が席を外して、白いドレスの私と、鏡だけが残った。
スマホが鳴る。
『今日は晴れてよかった! 愛してるよ』
一言一句、覚えているとおりだった。文面どころか、感嘆符の位置まで。
『私も。楽しみにしてるね』
あの日と同じ返信を打つ。中身が違うだけで。
鏡の中に、花嫁がいた。同じ衣装、同じ髪型、同じ晴天。あの日の花嫁は、幸せそうな顔の作り方を必死に思い出しながら笑っていた。今日の花嫁は、思い出す必要がなかった。まっすぐ、笑っていた。
裾を持ち上げて、私は鏡に小さく頭を下げた。
「行ってきます。私の人生を取り返しに」




