第11話 誓いの代わりに、証拠を
司会者の白い手袋が、ゆっくりとこちらへ向けられた。
「それでは、お二人より、誓いの言葉をいただきます」
大広間のシャンデリアが、磨かれた床に光の輪を落としている。右手には親族席。左手には職場関係者の席。祖母は親族席の最前列で、膝の上に両手を重ねて座っていた。葵は左の後方、通路側。膝の上のクラッチバッグには、指一本触れていない。
この光の下で同じ言葉を誓ったら、その先がどうなるか。私はもう知っている。だから今日は、誓いの代わりに持ってきたものがある。
隣で貴文が囁いた。
「千夏、顔が固いよ。ほら、笑って」
砂糖の声。
私は介添えの方から白い封筒を受け取った。進行表の上では、両親への手紙が入っていることになっている封筒だ。中身は少し違う。
マイクの前に立つ。ドレスの裾が床を擦る音まで聞こえるほど、大広間は静かだった。
「誓いの言葉の代わりに、ご列席の皆さまへ、ご報告がございます」
貴文が半歩、寄る気配がした。構わず続ける。
「この結婚は、本日、この場で取りやめにいたします」
一拍おいて、ざわめきが波のように後ろの席まで届いた。貴文の手が私の腕を掴む。強くはない。人前だからだ。
「千夏? 何言ってるの。緊張してるんだよね、そうだよね。大丈夫、僕がついてるから」
「理由は三つございます。順にご説明します」
封筒から、番号を振った紙の束を出した。手は震えていない。毎月末の支払処理と同じだ。上から順に、読むだけ。
「一つ目。沢渡貴文さんは、婚約の前から、職場の後輩の女性と交際を続けています。お手元の一番から四番までが、その記録です。取引がすでに終わっている会社の名義で切られた、同じ店の二名分の接待費の領収書。同じ夜の、恵比寿から出たタクシーの領収書。二月十四日付の、指輪の購入証明が二通。購入者はどちらも同じ方です。一方は、いま私の薬指にあるもの。もう一方は、号数も色も違います。それから、旅行の投稿の保存。日付は、貴文さんの大阪出張と同じ日程でした」
職場関係者の席が、目に見えて硬くなった。誰かが隣と目を見交わし、誰かが手元の式次第に視線を落とす。
「最後に、音声がございます。日付と取得の経緯は書面に添えてあります」
スマートフォンをマイクに近づけた。
居酒屋の喧騒。グラスの音。それから、聞き慣れた声。
『式さえ終わっちゃえば、あいつの給料もローンも、全部こっちのもんだって』
『たかくん、ほんと悪い顔してるー』
甘い語尾が、大広間の高い天井に反響した。職場の席の一角で、薄桃色のドレスが立ち上がるのが見えた。梨花さんは小さく会釈をして、壁際を通って扉へ向かった。退席の作法だけは綺麗だった。誰も引き止めなかったし、私も止めなかった。
「消せ! 消せよ、そんなの……編集だ、編集に決まってるだろ!」
マイクを掴もうと伸びた手を、司会者が反射のように押さえる。貴文は親族席と職場の席へ向き直り、両手を広げた。
「皆さん、騙されないでくれ、彼女は病気なんだ! 前から疲れが溜まってて、その、思い込みが激しくて――なあ千夏、そうだよな? 僕はずっと心配してたんだ」
「ご心配ありがとうございます。健康診断の結果も、ご入用でしたら写しをお渡しします」
次の紙をめくった。
「二つ目。この式場の申込書です。控えと突き合わせていただければ分かりますが、費用の支払名義と提携ローンの申込人が、途中から私に付け替えられていました。本人の署名がなければ成立しないことは式場に確認済みで、私は署名しておりません。署名欄は、今も空欄です」
扉の近くに立っていた式場の支配人らしい方が、小さく頷くのが見えた。仕事が早い。
「三つ目」
紙をめくる音だけが響いた。
「沢渡郁恵さんは、式の費用の名目で、私の祖母の土地を担保にした借入の書類を持って、祖母を直接訪ねました。その金銭消費貸借契約書の写しがこちらです。祖母は判を押しておりません。……そして貴文さんには、ご自身の名義の借入が別にあります。式を前倒ししてまで急いだ理由は、愛情ではなく、残高でした」
椅子の倒れる音がした。
「おやめなさい! おやめなさいっ、皆さま、お聞きになりませんように! これは家の中のことでございます、家の中で――」
郁恵さんが通路まで出てきていた。留袖の帯の上で、扇子を握った手が白くなっている。
「千夏さん、あなたのためを思って言っているのよ。今なら、今ならまだ、なかったことに……ご祝儀だって、お返しすれば済むことで――違うの、皆さま、違うんです、うちの息子は、うちは、ちゃんとした家で……」
言葉が、階段を踏み外すように崩れていく。郁恵さんは私の手から契約書の写しを奪おうとして束の端を掴み、紙が数枚、床に散った。拾おうと屈んだ拍子に帯が椅子に引っかかり、脇の花のスタンドが大きく揺れて、スタッフが二人駆け寄った。親族席の後ろの方から、抑えた声が聞こえた。
「法事のときと、おんなじだねえ」
郁恵さんの動きが止まった。振り向いた先の親族席は、誰も目を合わせなかった。
「慰謝料をはじめとする今後のことは、代理人を通じてご連絡いたします」
私は封筒を閉じ、列席の皆さまへ向き直った。
「本日はお運びいただきながら、このようなご報告となり、申し訳ございません。お食事のご用意はそのままと伺っておりますので、どうぞ召し上がっていってください」
深く一礼して、マイクの前を離れた。ブーケは祭壇の脇の台に置いた。持って歩くには、もう用のない小道具だ。
バージンロードを、入ってきたときと逆の向きに歩く。一歩ごとに、ざわめきが左右へ割れていった。祖母の前を過ぎるとき、膝の上に重ねられた手が、ほんの少しだけ持ち上がって、また戻った。葵はまっすぐ前を見たままだった。クラッチバッグは膝の上で、開かれた形跡もない。
扉まであと数歩というところで、背中に低い声が落ちた。
「……お前、どうして全部知ってたんだ」
振り返ると、貴文は祭壇の前に膝をついて、散らばった紙を一枚握り締めたまま、こちらを見上げていた。
私は答えなかった。ただ、微笑んだ。
係の方が扉を内側から開く。ロビーの光が、ドレスの裾を白く照らした。
自分の歩幅で、私はそこを歩いて出た。




