第12話 花嫁のいない披露宴のあとで
婚約解消の合意書は、金曜の夜に書留で届いた。
食卓で封を切って、まず判子を見た。「沢渡」の三文判は枠から半分はみ出して、朱肉が濃すぎた。急いで押した判はこうなる。据えて押した判は、縁まで均等に色が乗るものだ。毎月何百枚も伝票を見ていると、こういうどうでもいい目利きばかり増えていく。
慰謝料の欄の数字は、弁護士が最初に見立てた範囲の、いちばん真ん中に収まっていた。桁がひとつ増える夢物語もなく、踏み倒される悪夢もない。一括払い、振込期日は月末、特記事項の欄は空白。きれいな書類だった。きれいすぎて、これを取るためにかけた数ヶ月のほうが、かえって嘘みたいに見えた。
「あちらのお母様からは、その後も何度かお電話をいただいていますが」
昼間、弁護士は電話でそう言って、書類の決着と人の納得は別物ですから、と付け加えた。「全部こちらで承ります。早瀬さんはもう、お出にならなくて結構です」
郁恵さんが電話で何を言っているのかは、聞かなかった。聞かなくても再生できる。話が違う。息子は騙された。あの女は──。言葉は毎回違っても、あの人の主張は結局ぜんぶ同じ科目に仕訳できる。自分宛ての損失、という科目に。
貴文が会社を休み続けているらしいことは、前の会社の経理の後輩がメッセージで教えてくれた。ついでに、月曜の朝礼で部長が「契約書は、署名する前に読みなさい」とだけ言って席に戻ったことも。文末には拍手の絵文字が三つ並んでいて、私は返信に迷った末、お疲れさまです、とだけ返した。
親族の風向きは、八重子さんの電話で知った。法事の席のあれこれから、あちらの一族の評判は坂を転がっているらしい。千夏ちゃんは何も悪くないって、皆言ってるよ、と八重子さんは言った。その同じ声が、少し前には「いいご縁なんだから大事にしなさい」と言っていたのを、私は覚えている。風見鶏は回るのが仕事だ。回ってくれるだけ、実害はない。
土曜の朝、例のノートと封筒の束を出して、合意書の写しをいちばん後ろに綴じた。領収書の写し。購入証明が二通。投稿の保存。契約書の写し。音声の控え。番号はもう振り直さない。最後のページに日付を入れて、線を一本引いた。
締めた帳簿は、それ以上動かない。
ファイルを棚に戻すと、部屋が急に静かになった。カーテンも、テーブルも、湯呑みもひとつ。式のために買わされかけたものは、この部屋に何もない。換気扇の低い音だけが残って、私はしばらく、棚の前から動けなかった。
壊すことは、できた。
でも、それで一周目に勝ったと言えるのだろうか。あの病室で目を閉じた私が欲しかったのは、判子のはみ出した合意書だったのか。通帳の数字をどれだけ眺めても、そこには「これから」を書く欄がない。数字は過去しか記録しない。それを一番よく知っているのが経理だ。
夕方、支度をして部屋を出た。祖母の家の夕飯に呼ばれていた。葵も来る。
引き戸を開けると、上がり框の先にこはくが座っていた。尾がゆっくり一往復して、額が私の足首に押し当てられる。抱き上げると、喉の低い音が掌に伝わってきた。この家の検問は、いつも一瞬で通れる。数ヶ月かけて書類を積み上げた人間としては、少し複雑な速さだった。
台所では葵がエプロンをつけて、祖母の隣で里芋の皮を剥いていた。
「遅い」
「五時って言ったのはそっちでしょう。まだ五時十分」
「十分は十分」
「ちょうどいいよ」と祖母が笑った。「煮物が今、味の染みる頃合いだから」
膳は三人分と、こはくの皿がひとつ。鰆の塩焼きと、里芋と人参の煮物と、ぬか漬けと、豆腐の味噌汁。祖母の家の献立は、いつ来ても定価で、掛け値がない。
「よく食べるようになったねえ」
茶碗を差し出した私に、祖母がおかわりをよそいながら言った。
「そう?」
「顔つきも変わったよ。憑き物が落ちたっていうのは、こういう顔のことを言うんだね」
こはくが座卓の脇で腹を見せて転がり、葵が箸を持ったまま笑った。祖母はそれ以上続けず、味噌汁の豆腐の切り方の話をした。
「着物はねえ」
と、その椀を置いて、祖母がぽつりと言った。
「ほどいて、洗って張り直せば、別の一枚に縫えるんだよ。糸目のいい反物ならね」
それだけ言って、ぬか漬けに箸を伸ばす。
「あんたのは、糸目がいいよ」
私は返事の代わりに、おかわりの茶碗を両手で受け取った。葵が「私は?」と割り込んで、「葵ちゃんは柄がいい」と返されて、不満そうな顔のまま里芋を口に入れた。こはくが葵の膝に前脚をかけて、鰆の皿までの距離を測っていた。
この食卓を建て直すために、戻ってきたのかもしれない。壊すためじゃなく。
そう思いかけたとき、湯呑みの横で携帯が震えた。前の会社の後輩からだった。
『桐生さん、辞めたそうです。先週からずっと無断欠勤で、そのまま退職扱いになったって。寮も引き払ってて、携帯も解約されてるみたいで、誰も連絡が取れません』
祖母が急須に湯を足しに台所へ立った隙に、画面を葵へ向けた。葵は一度読んで、眉を動かさずに私を見た。
「逃げたね」
「身軽な人だから」
「行き先の心当たりは」
「ない。……あるとしたら、私の知らない誰かの隣」
言い終わらないうちに、掌の中で携帯がもう一度震えた。今度はメッセージではなく着信で、画面には国見奏の名前があった。土曜の夜にかけてくる人ではない。私は葵に目で断って、縁側に出た。こはくが音もなくついてきて、足元で香箱を組んだ。
「夜分にすみません」と国見さんは言った。「早めに耳に入れておきたいことがあって」
「はい」
「会社に、投書が届きました。差出人の名前はありません。……内容、読み上げてもいいですか」
「お願いします」
紙をめくる音がひとつ。
「『御社の早瀬千夏は、婚約者を陥れた危険な女である。金銭を扱う部署に置くべきではない』──要旨はこの二文です。総務から、私のところで止めてあります」
庭の暗がりで、物干し竿が風に鳴った。
「手書きですか」
「いえ、印字です。消印は都内、投函は木曜」
「そうですか」
自分の声が、思ったより平らに出た。
「早瀬さん。私は事実を知っている側なので、心配はしていません。ただ、この種のものは一通で終わらないことがある。会社としては事実確認の手順を踏むだけですが、それも含めて、先に本人へ伝えておきたかった」
「ありがとうございます。月曜、出社したら総務にご挨拶に伺います。事実確認でしたら、記録は全部ありますから」
電話の向こうで、短く息を吐く音がした。笑ったのだと、少し遅れて分かった。
「そういう返事をする人だと思っていました。……夜分に失礼しました。ゆっくり休んでください」
通話が切れて、暗くなった画面に自分の顔が映った。
消えた女と、名乗らない手紙。同じ晩に届いた二つを「偶然」の科目に入れるには、私は経理を長くやりすぎている。
こはくが立ち上がって、私の脛に体を擦りつけた。それから先に立って、明かりのほうへ歩いていく。尾は、その方角へ傾いていた。
居間に戻ると、祖母が入れ直した茶を私の前に置いた。
「電話、長かったね」
「仕事の話。月曜からちょっと忙しくなりそう」
嘘ではない。祖母は「そうかい」とだけ言って、こはくの皿に鰆の身をほぐした。葵だけが湯呑み越しにこちらを見ていて、私はあとで話す、と目で返した。
壊す仕事の帳簿は締めた。ここから先は、建てながら守る仕事になる。綴じる伝票は、まだ増えるらしい。
私は湯呑みを取って、まだ十分に熱いお茶をひと口飲んだ。




