第13話 投書より、実績
月曜の朝、始業二十分前。小会議室のドアを開ける前に、私は自分の指先がファイルの角を白く潰しているのに気づいて、息をひとつついた。
喉の奥がまだ固まっている。ファイルを胸の前で持ち直し、口を開く前にもう一度だけ角を揃えた。
国見さんは窓際の席にいて、机の上にあの封筒があった。白い長形封筒。消印は都内、木曜。
「おはようございます」
「おはようございます。……座りますか」
「お時間は十分だけで結構です」
私は机を挟んで立ったまま、持ってきたファイルを置いた。
「金曜のお電話の件です。あの投書、国見さんの手元で止めたままにしないでください。総務へお戻しください。この資料を付けて」
国見さんはすぐには手を伸ばさなかった。
「戻せば、総務が読みます。読む範囲は絞るにしても、人は増える」
「読まれて困る嘘は書かれていません。困るのは、止めていただいたという事実のほうです。それが後から出てきたら、私は『上司に握り潰させた女』になります」
ファイルを、国見さんの手元へ置いた。国見さんは、すぐには触れない。その間に、私は一番上から紙を開いた。
「読ませていただいても」
国見さんが封筒を滑らせてよこした。中身は一枚、印字。──貴社経理部の早瀬千夏は、婚約者を罠にかけて破滅させた危険な女である。社内に置けば必ず災いをなす──。
読むのに三十秒もかからなかった。よくできている、と思った。帳簿の数字より先に、印象だけが残る紙だった。
「ご覧の通り、事実の記載がありません。ですから、こちらは事実だけで返します」
ファイルを開く。時系列の一枚。婚約解消合意書の写し──先方の署名捺印と、解決済みの文言。弁護士の連絡先。
「原本は弁護士の事務所にあります。照会が必要なら、いつでも繋ぎます。疑う方には、隠さず全部見せてください」
差し出した手が、一瞬だけ止まった。
国見さんの目が私を見た。この目が今日から変わるかもしれないと、金曜の夜からずっと考えていた。
「言っておきますが」と国見さんは言った。「庇いませんよ」
「はい」
「庇えば、早瀬さんの仕事まで一緒に疑われる。だから私は事実を見ます。総務にもそうしてもらいます。──それから、これも事実として付けておきましょう」
机の端に積んだ帳簿の束を、指の背で軽く叩いた。
「早瀬さんの起票がひと月分、ここにある。紙一枚とひと月の仕事なら、私は仕事のほうを信じます」
それは上司としてですか、と聞きそうになって、やめた。まだ聞かない。今日の議題は、それではない。
昼前、総務の矢部課長に同じファイルを渡して、聞かれたことにだけ答えた。矢部課長は老眼鏡の奥で合意書の写しをしばらく眺めてから、顔を上げた。
「先方の署名入りですか」
「はい」
「……早瀬さん、うちに来てひと月でしたか。売掛の消し込み、助かったと経理の皆が言ってますよ」
午後は、必要な人が必要な範囲で紙を確認し、私は聞かれたことだけ答えた。それだけだった。
夕方、国見さんに呼ばれた。机の上に、新しい封筒があった。
「二通目です。今度は止めずに、最初から早瀬さんに見せると決めていました」
「ありがとうございます」
中身は同じ印字だった。同じ文面、同じ紙。ただ、封筒の宛名だけが手書きだった。
社名。経理部。早瀬千夏様。
指先が止まった。
「瀬」のさんずいが右に流れて、旁の横棒が一本足りない。「千」の一画目に、小さな引っかかりが付く。ボールペンを強く押しつけて、線の終わりが必ず太る。
見覚えのある癖だった。
郁恵さんの字なら知っている。四角い楷書で、はねまで律儀な字だ。祖母の家に置いていかれた借入書類の付箋で見た。これは違う。
誕生日のカードの「千夏へ」。合意書の署名欄。何年も受け取ってきた字。
──郁恵さんじゃない。貴文の字だ。式の場で残した「どうして知ってた」が、匿名の「罠にかけて破滅させた」へ形を変えて戻ってきた。
空調の音が、急に大きく聞こえた。私はノートを開いて、日付と時刻、「二通目・宛名のみ手書き」と書いた。ペン先が一度だけ滑った。
「早瀬さん?」
「……差出人の見当がつきました」
「誰です」
「確証を取ってから申し上げます。封筒をお借りして、弁護士に相談します」
国見さんは頷いて、それから付け足した。
「一つだけ。次は、見当の段階で言ってください。事実になる前のほうが、打てる手は多い」
「はい」
素直に返事が出たことに、自分で少し驚いた。
封筒を鞄にしまう。宛名は手書きで、裏に凹みが透けるほど強く書かれていた。
ノートの次の行に、開示する、とだけ書く。
◇
借りた二通目の封筒を鞄から出して机に置く。ペン先が紙にめり込むほどの筆圧で、宛名は私の勤め先の社名から始まっている。破れて書き直したような掠れが残っている。宛名の社名、破れ、強い筆圧。机の上にあるのは、それだけだ。転落して梨花に捨てられた貴文だ。壊れた男の矛先は、明確に私へ向き始めている。




