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第14話 あなたはもう、怖くない

三通目の投書は、月曜の朝に届いた。


宛名の字は前の二通と同じ。総務で止めて写しを取る流れは先週のうちに決めてあったから、私の手元に来たのは封筒の表裏のコピーだけだった。手帳に日付と消印を書き足す。これで三行になった。並べてみると、投函はぜんぶ木曜の夜。几帳面なのか、木曜にしか勇気が出ないのか。どちらでも、記録の役には立つ。


昼前に、受付から内線が入った。

「早瀬さん宛てに、沢渡様とおっしゃる方がお見えです。お約束はないそうですが」

「お会いできません、とだけお伝えください。理由は言わなくて大丈夫です」

受話器を置いて、時刻を書く。十一時四十分。先週の金曜は夕方だったから、会社の入口に現れたのはこれで二回目。数えられるようにしておけば、怯える代わりに数えていられる。


国見さんは昼休みに、コーヒーを一つ余分に買ってきて私の机に置いた。

「受付には対応を統一してもらった。会わせない、取り次がない、来たら時刻を控える」

「すみません、会社にまで」

「謝る場面じゃないな。うちは事実を見るだけだ」

それだけ言って自分の席に戻っていく。ありがたさを言葉にすると長くなりそうだったので、私はコーヒーの礼だけを言った。


夕方、半休をもらって、弁護士の先生に整えてもらった時系列の写しを鞄に入れ、警察署へ行った。相談の窓口は建物の一階、入ってすぐの案内板に小さく出ていた。入口で深呼吸を一つ。一周目の私なら、ここへ来る前に「大ごとにしたら悪いから」と引き返していたと思う。悪いのは大ごとの方ではなく、大ごとにさせた側だ。それだけ確かめて、中に入った。


出てきたとき、鞄の中には控えが一枚増えていた。話は聞いてもらえたし、記録は残った。今の私に必要なのは、それで全部だった。


駅前に貴文が立っていたのは、その帰りだった。


改札を出た人の流れの先、ロータリーの街灯の下。三週間ぶりに見る彼は、輪郭がゆるんでいた。よれたシャツ。伸びた無精髭。それでも私を見つけた瞬間の笑顔だけは、砂糖をまぶしたように甘かった。

「千夏。よかった、やっと会えた」

名前を呼ばれた瞬間、胃の底が冷えた。


一周目の台所を思い出した。同じ声で「千夏のためを思って言ってるんだよ」と言われるたび、財布から、時間から、言い返す気力から、少しずつ削られていったこと。あの削られていく感覚が指先まで戻ってきて、足が止まりそうになった。


止まったら、たぶん同じだ。二周目でも、恐怖に飲まれた場所から先は、一周目と同じ道になる。


私は手帳の三行を思い出した。受付の対応。鞄の中の控え。電話一本で動いてくれる人たちの名前。一周目の記憶は、ここでは一つも役に立たない。あの人生で、彼は駅前に立ちはだかったりしなかったから。今夜の私を支えているのは、記憶じゃなくて、この三ヶ月で私が自分の手で積んだ紙の束だ。


足は、止まらなかった。


「お話しすることはありません。ご用があれば代理人を通してください」

「そういう言い方、やめようよ。俺たち、結婚するはずだったんだよ?」

声はまだ甘い。でも歩幅が大きい。私は駅員室の灯りと交番の位置を目の端で確かめて、二歩ぶんの距離を保った。

「会社にもいらっしゃいましたね。今日で二回目です。一回目は先週の金曜」

「……見張ってるのかよ」

「記録しているだけです。あなたが来るからです」

甘さが剥がれるのは早かった。

「なんだよそれ。お前のせいで、俺は会社クビになったんだよ。梨花もいない。母さんは毎日おかしいし、全部、全部お前が」

「今日は警察にも相談してきました。会社に届いた手紙のことも」

「……俺じゃない」

「あなただとは、言っていません」

彼の口が開いて、閉じた。


「お前……お前、昔からそうやって」

言葉より先に、手が出た。私の腕を掴もうとして、伸びてくる。

私は一歩引いた。それだけで届かなかった。指が空を掴んで、体勢が崩れる。

「お客様、どうされました」

制帽の駅員さんが二人、人の流れを割って近づいてくる。客待ちのタクシーの運転手さんも窓を開けてこちらを見ていた。帰宅の人波が、遠巻きにゆっくりになる。

「うるさい、関係ないだろ! こいつが、こいつが俺の人生を」

夜の駅前に、彼の声だけが大きかった。視界の端で、スマホを持ち上げる人が一人、二人。貴文もそれに気づいたのだと思う。振り上げた声の行き場がなくなって、腕が下がって、急に小さくなった。

「……なんだよ」

交番から制服の警察官がゆっくり歩いてくるのが見えた。私は駅員さんに短く事情を伝え、鞄の控えをいつでも出せるよう手をかけた。結局、出すまでもなかった。貴文は肩に手を添えられただけで、抵抗もせずに植え込みの脇へ促されていった。


街灯の下でうつむく姿を、私は少し離れて見ていた。よれたシャツの背中は、記憶の中で私を削っていた男と、もう重ならなかった。怖い相手ではなく、もう知らない人だった。怖い、という言葉を胸の中で探してみて、見つからないことを確かめた。あったのは、雨に濡れた段ボールを見たときのような気持ちだけだった。


やがて解放された彼は、ロータリーの向こうへ歩き出した。誰も追わない背中は薄く、猫背で、一度もこちらを振り返らなかった。人波がまた、普通の速さで流れ始めた。


見送りながら、お腹が空いていることに気がついた。ちゃんと空腹を感じられる夜だった。私は駅前のスーパーで半額になった鮭の切り身を買って帰った。


アパートで味噌汁を火にかけたところで、携帯が鳴った。おばあちゃんだった。

「千夏? 夜にごめんね」

「ううん。どうしたの」

「うん……」

言葉を選ぶ間があった。私は台所の火を止めた。

「郁恵さんがね、変な書類を持ってきたの。うちの土地、もう売る約束をしてるとか言って」

鍋の湯気が、まっすぐ立ちのぼって消えた。

「約束なんて、してないよね」

「するわけないよ。判子も押してない」

短い言い方に、職人だった祖父に似た芯があった。

「その書類は? 置いていった?」

「テーブルの上。触ってないよ、前にあんたに言われた通り」

「そのままにしておいて。明日、朝一番で行くから」


電話を切って、私は手帳を開いた。新しいページの一行目に今日の日付を書き、その横に、沢渡郁恵、と書いた。

ペン先は、少しも震えなかった。

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