第15話 土地は、家族のもとへ
法事でもないのに、祖母の家の座敷にこれだけ親族が揃うのは久しぶりだった。座卓の真ん中には、茶菓子の代わりに書類がひと綴り置かれている。
最初に変わったのは、郁恵さんの指先だった。座卓の向こう側で、書類の角を何度も揃えている。曲がってもいない角を、何度も。
「ですからね、皆さん」郁恵さんは座敷をゆっくり見回して、膝の上のハンカチを畳み直した。「これはもう、お約束の済んだお話なんです。富貴子さんご本人が、この土地をお譲りになるとおっしゃった。ここに、ちゃんとお名前も判子もございます。私はただ、皆さんが揉めないようにと思って、間に立って差し上げただけで」
「間に立って」私は静かに繰り返した。「どなたと、どなたの間でしょう」
「それは……先方様と、富貴子さんの」
「その先方様のお名前が、この書類のどこにも見当たらないんです。買主の欄、空欄のままですよね」
郁恵さんの指が、一瞬だけ止まった。
「細かいことをおっしゃるのね。これから清書する予定だったんですよ。千夏さん、あなたのためを思って言いますけれど、こういう席で年長者を問い詰めるものじゃありませんよ」
「押してない」
祖母だった。湯呑みを置いて、それだけ言った。
「あたしはその紙に判子を押してないし、名前も書いてない」
「まあ、富貴子さん。お歳ですもの、お忘れになることだって……」
「郁恵さん」祖母の声が半音、低くなった。「あたしは六十年、針を持って食べてきた人間だよ。その紙はね、継ぎの当て方が雑だ。遠目にはそれらしくても、縫い目を見りゃ分かる」
私は鞄から封筒を出し、順番どおりに座卓へ並べた。番号を振るのは、もう癖になっている。
「一つずつ、確認させてください。まず、祖母の実印は祖母名義の貸金庫に入っています。今朝、祖母と一緒に銀行へ行って、開閉の記録を出してもらいました。この半年、貸金庫の扉は一度も開いていません。中にある判子が、外の紙に押されることはありません」
「次に、日付です。ここには先月の十七日とありますが――八重子さん」
「はいよ」八重子さんが手帳を開いた。「その日は、あたしが富貴子さんを病院へ連れてった日だ。診察券もある、手帳にも書いてある。帰りに二人でお蕎麦を食べたんだから。あんたと土地の話をしてる暇なんか、どこを探してもないね」
「葵さん」
「その日、私もいました」葵さんが短く言った。「千夏さんは来ていません。判を押す場面も、土地の話も、見ていません」
「三つ目です。先日、郁恵さんがこの書類を置いて帰られた翌朝、私は国見さんと二人でここへ来て、書類を一枚ずつ写真に撮りました。日付の入った状態で保存してありますし、立ち会った国見さんの署名がある確認書も、いまこの座敷に出します」
プリントを、書類の横に一枚ずつ並べていく。座敷の何人かが首を伸ばした。
「あの朝、署名の欄は白紙でした」
誰かが小さく息を呑んだ。郁恵さんの指は、もう角を揃えていなかった。
「そんな写真、いくらでも細工が……だいたい、千夏さん、あなたはご存じのはずでしょう。お話の席にはあなたもいらしたじゃありませんか。ご自分で頷いておいて、今さら」
「四つ目がそれです」私は最後の封筒を開いた。「その『お話の席』があったとされる日、私は終日、会社におりました。勤め先の在席の証明と、上司の一筆です。必要でしたら、どうぞ回覧してください」
座卓の上を、紙が静かに一周した。誰も何も言わなかった。湯呑みが畳に戻る音だけが、いくつか続いた。
郁恵さんはハンカチを目元に当てた。
「……ひどい。私は、私はただ、家族のためを思って。貴文もあんなことになって、誰かがこの家のことをまとめて差し上げないと、って。それを、寄ってたかって、こんな、まるで罪人みたいに」
肩が震えている。一周目の私なら、ここで膝を進めて、ごめんなさいと言っていたと思う。お茶を淹れ直して、座布団を勧めて、書類のことは曖昧なまま。
私は動かなかった。座敷の誰も、動かなかった。
その静けさで足りたのだろう。ハンカチが膝に叩きつけられた。
「……何なんですか、あなたたち! 私が何をしたって言うんです! 息子は仕事を失くして、家はめちゃくちゃで、私がどんな思いで……全部、全部その人ですよ!」
指が、まっすぐ私に向いた。
「その女は普通じゃないんです! 権利証も、お金の話も、何もかも先回りして……こっちが考えてることを、先に、全部! まるで、未来が見えてるみたいだった……!」
座敷がしんとした。
私は膝の上で手を組んだまま、動かなかった。
「……とうとう、言うことまでおかしくなったねえ」
八重子さんが呆れたように呟いて、それから立ち上がった。
「お帰りよ、郁恵さん。あんたはもう、この家の敷居はまたげない。早瀬の親戚は、今日ここにいる全員が見てた。沢渡さんの方のご親戚にもね、今日のことはこちらからそのまま伝えるから」
「この書類は、お返ししません」私は綴りを封筒へ戻した。「弁護士に預けます。この先のことは、私たちが決めることではありませんので」
郁恵さんは口を開き、座敷を見回して、閉じた。どの顔も、彼女の方を向いていなかった。立ち上がるとき、膝が座卓に当たって、湯呑みがいくつか揺れた。誰も支えなかった。
廊下に出ていく背中を、私は座ったまま見送った。階段の下にこはくがいた。体を低くして、尻尾を太くして、耳を伏せたまま、通り過ぎる足元をじっと見ている。玄関の引き戸が閉まる音がして、少し経ってから、尻尾が元の細さに戻った。
親族が三々五々帰っていったあと、祖母は座敷の畳を眺めて言った。
「広くなったね、ここも」
それだけだった。
梨花は辞めた会社からも連絡のつく場所からも消えて、残ったのは噂の尻尾だけだった。貴文は人前で崩れたあと、呼ばれる席をなくし、郁恵は親族の名が並ぶ場所から外された。座敷だけが、一段と広く感じられた。
夜には国見さんが来た。書面のお礼を直接言いたいと祖母が譲らなかったからで、夕方から呼び出された国見さんは、祖母の煮物を三回おかわりする羽目になった。断り方を知らない人ではないはずだから、あれはたぶん本心だ。
台所から水音が聞こえる。手伝いますと言ったら、客と孫は座ってな、と追い払われた。
縁側に座ると、こはくが当然のような顔で膝に乗ってきた。撫でると、ころりと腹を見せる。喉の奥で、小さくエンジンのような音が鳴り始めた。
「終わりましたね」
隣で湯呑みを持ったまま、国見さんが言った。庭の暗がりを見たままだった。
「はい。終わりました」
指先が少し手持ち無沙汰で、だからこはくを撫でる手は止めないでおいた。
「早瀬さん」
国見さんが湯呑みを縁側に置いた。陶器と木の、こつんという音。
「戦いが終わったなら——聞いてほしい話がある」
こはくの喉の音が、膝の上で続いている。台所の水音が、止まった。
私は、湯呑みを置いた。




