第16話 幸せになる資格
祖母の家を辞したのは、九時を少し回った頃だった。
「駅まで送ります」
国見さんはそう言って、来た道とは少し違う方へ歩き出した。遠回りだと気づいたのは、小さな公園の前に差しかかったときだ。街灯が二本、塗装の剥げたベンチ、誰もいないブランコ。彼はその入口で足を止めた。
「少しだけ、いいですか」
縁側で「聞いてほしい話があります」と言ったきり、彼は祖母の家では続きを口にしなかった。湯呑みのお茶を二杯おかわりして、こはくに指先の匂いを確かめさせて、帰り支度の間もずっと普段どおりだった。ただ、普段どおりでいようとする人の普段どおりは、少しだけ姿勢がよくなる。同じ職場で伝票を挟んで向かい合っていれば、それくらいは分かる。
街灯の下で、国見さんはこちらを向いた。私との距離は、机ひとつ分。会議室でいつも空いている距離だった。
「順番に話します。僕はそういう話し方しかできないので」
「はい」
「早瀬さんのことを、僕は最初、数字で信用しました。起票が正確で、照合が速くて、嘘の混じりそうな場所が先に全部潰してある。そういう帳簿を作る人だと」
「……恐縮です」
「途中から、数字じゃないところを見るようになりました」
彼の右手がコートのポケットから出て、行き場を探すように一度泳いで、結局そのまま体の横に下りた。
「好きです。上司としてではなく。——返事は、今でなくていいんです。それを言うために、会社でもおばあさまの家でもない場所を選びました」
ブランコの鎖が、風もないのに一度だけ小さく鳴った。
返事が、出てこなかった。
驚きではなかった。屋上で「棚卸し」という言葉をもらった日から、この鼓動に名前の候補があることくらい、自分でも承知していた。それなのに、体の中でひとつも仕訳が起きない。科目の分からない伝票を持たされたときと同じだ——と考えてから、こんな夜まで経理の頭で動く自分に、少しだけ呆れた。
「……すぐにお答えできると、思っていました。ずるい言い方をすれば、嬉しい、が先に立つはずだと」
正直に言った。この人の前でだけは、穏やかな外向きの顔のまま済ませたくなかった。
「でも、出てこないんです。国見さんが信用してくださった私は、たぶん、私の全部ではないので」
「全部を知ってから好きになる人は、いませんよ」
「そうですね。でも——」
言葉を、いったん手元で確かめる。どこまで出していいか。どこからが、出してはいけない棚か。
「私は、国見さんが思っておられるほど、強い人間ではありません。それから、まだお話しできていないことが、ひとつあります。嘘みたいな話で、領収書も録音も出せない種類の。それを黙って抱えたままお返事をするのは……数字の合っていない決算書に判を押すみたいで、嫌なんです」
死に戻り。口の中でだけ、その言葉を転がす。一度死んで、式の三か月前に戻ってきた女です——声に出す場面を想像しただけで、式場の貴文の声が耳の奥で再生される。騙されないでくれ、彼女は病気なんだ。親族の前で自壊した郁恵の、未来が見えてるみたいだった、という叫びも。証拠の出せない話は、話した人間のほうを壊す。私はそれを、人で二度見ている。
国見さんは、急かさなかった。街灯の光の輪の中で、ゆっくり一度うなずいた。
「わかりました」
それだけかと思ったら、少し間を置いて続けた。
「僕は庇わずに事実を見る側の人間ですが、待つのは、それより得意です。督促はしません。期日も切りません」
「……取引条件としては、破格ですね」
「うちは回収を急がない社風なので」
真顔でそう言うので、笑ってしまった。笑えたことに、自分で少し驚いた。
「話せる日が来たら、順番に聞かせてください。僕はそういう聞き方しかできないので」
「はい。……必ず」
駅までの残りの道を、私たちは仕事の話をして歩いた。月曜の監査対応と、新しい取引先の締め日の話。改札で国見さんは「では、月曜に」といつもの角度で頭を下げ、いつもの歩幅で帰っていった。振り返らないところまで、いつもどおりだった。
アパートに帰り着いて、電気をつけて、やかんを火にかけた。
湯が沸くのを待つ間、鞄から手帳を出す。この二周目を一緒に戦ってきた、角の丸くなった手帳だ。ページを繰れば、戦績は全部ここにある。領収書の写しの番号。投書の消印の日付。相談窓口の控え。弁護士預かりになった偽の契約書のこと。沢渡の家との勘定は、どの科目も残高ゼロで締まっている。
未処理が、ひとつだけ残っていた。
相手の欄に書く名前が、もう私しかない。
一周目の私は、いい人でいることに逃げて、削られて死んだ。二周目の私は、清算のために自分を組み立て直した。証拠を集める手も、公開の場で読み上げる声も、全部その目的に合わせて設計してある。その工事が終わった今、図面の先が白紙だった。復讐のために生きてきた人間は、復讐が終わった朝に何を食べればいいのか、誰も教えてくれない。
国見さんが好きになってくれたのは、二周目の私だ。そして二周目の私は、一周目の私が死んだ場所の上に建っている。それを言わずに隣に立つのは、たぶん、ずるい。言う勇気は、まだ棚の奥だ。
やかんが鳴る前に、手帳のカレンダーのページを開いた。
その月のある日付に、小さな印がついている。丸でも花でもない、ただの短い横線。私以外の誰が見ても意味の分からない印。二周目が始まった夜に、私が最初に書き込んだものだ。
一周目の私が、死んだ日付。
ページの升目の上で、今日からの距離を指で数える。数えられてしまう近さまで、その日はもう来ていた。
この日を、今度の私は生きて越える。仕事をして、祖母に電話をして、葵と笑って、こはくを撫でて、なんでもない一日として通過する。それができたら——できた朝に、私は初めて、あの人への返事を起票できる気がする。
督促はしません、と言った人の顔を思い浮かべる。期日なら、こちらで勝手に決めた。
この印の日を越えるまで、返事はできない。越えたら、必ず。
私はその日付を、もう一度だけ指でなぞって、手帳を閉じた。




