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第17話 一周目の命日に

湯呑みを持つ指先が、朝から冷たかった。


祖母の家の台所は、窓を開けると潮の匂いがする。流しで朝食の茶碗を洗いながら、私は蛇口の湯を少しだけ熱くした。理屈の上では、今日は何でもない日だ。カレンダーの数字がひとつ進むだけ。帳簿でいえば、繰越しの行が一行増えるだけの日。


それでも伏せた湯呑みが、かちりと小さく鳴った。置いた手が揺れていたせいだった。


今日は、一周目の私が死んだ日だった。


日付は間違えようがない。何度も数え直して、手帳の隅に小さな印をつけて、この日が来るのをずっと待っていた。昨日の夕方に有給を取ってこの家へ来て、国見さんには「祖母のところへ行ってきます」とだけ伝えた。国見さんは「いってらっしゃい」と言って、理由を訊かなかった。


何も起きないはずだ、ということは分かっている。あのとき私を終わらせたのは、呪いでも祟りでもない。断れなかった残業と、抜いた食事と、「病院は今度でいい」を何年も積み上げた、その帳尻だ。そして今の私の帳簿に、その項目は残っていない。


残業は断れるようになった。給料は私の口座にある。春には健診にも行って、結果の紙はファイルに綴じた。よく食べて、よく眠っている。数字は合っている。どこから見られても合っている。


——それでも、監査の朝は緊張する。きっと、そういうことなのだと思う。


「千夏。そっちの端、持っとくれ」


縁側で祖母と布団を干した。パン、と祖母が布団叩きをふるうたび、綿の匂いが日なたに散る。物干し竿に手を伸ばした拍子に、心臓がふいに速くなって、私は竿を握ったまま息を三つ数えた。海がいつも通りに光っている。こはくが庭の敷石の上で腹を出して寝ている。世界のどこにも、今日を特別扱いしている気配はなかった。


午前のうちは、それでよかった。


昼は素麺を茹でて、祖母の胡瓜もみと、作り置きの南瓜の煮物を出してもらった。ちゃんと食べられる。おかわりもできる。一周目の私は、この家に来る回数さえ減らしていた。食べる時間も眠る時間も、いつも誰かのために先に削っていて、削っていることにすら気づいていなかった。あれは記憶だ。今日の素麺の氷が鳴る音のほうが、ずっと近くにある。


午後は縁側で繕い物をした。祖母の割烹着の、ほつれた脇を縫う。


「針目が泳いでるよ」


隣で祖母が言った。手元を見ると、たしかに三針ぶんほど、縫い目が波を打っていた。


「……ちょっと、考えごとをしてました」


「ほどいて、やり直せばいいさ」祖母は自分の針を進めながら、こともなげに言った。「縫い直したところはね、元より丈夫になるんだよ。糸が新しいから」


私は三針ぶんをほどいて、縫い直した。祖母はそれ以上何も訊かなかった。この人は昔から、判子を押す前の書類みたいに人の顔をじっと見るくせに、押せとも押すなとも言わない。


日が傾いてきた頃から、指先の冷たさが戻ってきた。


一周目のあの日、時刻までは覚えていない。覚えているのは、窓の外が暗かったことだけだ。だから勝手に、日が落ちてからが本番だと決めていた。ばかばかしいと自分でも思う。合っている数字を、何度も検算するようなものだ。それでも検算せずにいられないから、私は今日、この家に来たのだった。


夕食は鰺の南蛮漬けと、昼の残りの煮物だった。煮物を三回おかわりした。


「国見さんは、達者かい」


「はい。相変わらず、細かいところによく気がつく上司です」


「そう」


祖母はそれだけ言って、箸の先で少し笑った。


食後の茶を淹れ、柱時計が八時を打ち、九時を打った。祖母が相撲の録画を見終えて、丁寧に画面を消した。こはくが私の膝に上がってきて、丸くなった。膝の上の重みと温かさのぶんだけ、時間はゆっくり進んだ。


十時。十一時。


何も起きなかった。


胸が苦しくなることも、指先から力が抜けることもない。あるのは、こはくの寝息と、遠くの波の音と、湯呑みの底に残った茶柱だけだった。


「よく食べて、よく寝る。それでたいがいの憑き物は落ちるんだよ」


祖母は立ち上がって、私の膝からこはくをひょいと抱き上げた。「布団、敷いてあるからね。今夜はもう休みなさい」


「うん。……おばあちゃん」


「なんだい」


「煮物、美味しかった」


「鍋ごと持っておいき」


襖の向こうに祖母の足音が消えてから、私は手帳を開いた。隅に印をつけた今日の日付を、しばらく眺めた。消さなかった。消さずに、そのままにしておくことにした。過ぎた日付の欄に、印はもう一つの記録として収まっている。それでいい。


代わりに、先のページに予定を書いた。来週、葵と映画。月末、月次の締め。土用が明けたら、祖母の梅の干し直しを手伝いに来る。書き終えて読み返すと、どれも締切ではなくて約束だった。ペンを置く頃には、印のある日付は、手帳の中でただの過ぎた一日になっていた。


縁側に出ると、夜の海は見えなくて、波の音だけが続いていた。


私は国見さんに電話をかけた。二回目の呼び出し音の途中で、彼は出た。


「早瀬さん」


「夜分にすみません。……いま、少しいいですか」


「はい」


深呼吸をひとつ。潮の匂いが肺の底まで届いた。


「前に言った、嘘みたいな話です。聞いてもらえますか」


「聞きます」


「私、昔——一度、死にかけたことがあるんです」


波の音が、ひと呼吸ぶんの間を埋めた。国見さんは何も言わずに待っていた。


「働きすぎて、食べなくて、病院にも行かないで。気がついたら、自分の人生がまるごと他人の都合になっていて。……それで、助かってから決めたんです。人生を、最初からやり直すつもりで生きようって。それからの私は、ずっとそのつもりでやってきました」


「……はい」


「婚約を解消したのも、転職したのも、ぜんぶその続きです。今日はその、区切りの日でした。ちゃんと越えられたので、お話ししました。——これで全部です」


電話の向こうに、息を整えるような短い間があった。


「いまは、ちゃんと食べてますか」


「食べてます。今日は祖母の煮物を三回おかわりしました」


「三回」小さく笑う気配がした。「安心しました」


それから、少しの間があった。波が二度寄せて、二度引いた。


「早瀬さん。返事を急かすつもりは、今もありません。ただ、一つだけ言わせてください」


「はい」


「なら、これからの人生の隣は——俺に立候補させてくれ」


敬語の外れた声は、電話越しなのに、すぐそこで聞こえた。


冷たかったはずの指先が、湯呑みも持っていないのに、あたたかかった。


「……選考は」と私は言った。「厳正に行います。もっとも、他に応募がありませんので」


電話の向こうで、国見さんが声を出して笑った。戻ってきたこはくが膝に乗って、迷惑そうに耳だけ動かした。波の音は、まだ続いている。

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