第18話 二周目の花嫁は、私の意思で
約束の土曜日は、よく晴れた。
駅の改札で待っていた国見さんは、見慣れない紙袋を提げていた。中身は聞かなくても見当がつく。祖母の好きな酒屋の包み紙だ。先週の電話で私が一度だけ口にした銘柄を、この人は覚えていたらしい。
「重くないですか」
「軽い手土産のほうが、持っていて不安になる性分なので」
真顔で言うから、笑ってしまった。
祖母の家までは、駅から歩いて十二分。この道を、私は今日、初めて誰かと並んで歩く。一周目の彼は「遠い」と言って車で乗りつけ、仏壇に手も合わせずに帰る人だった。比べるのはやめよう、と思ってから、照合が済む前に帳簿を閉じる経理がどこにいる、と思い直した。最後まで突き合わせて、それから閉じればいい。
信号が赤に変わって、二人並んで止まった。隣の袖と私の袖のあいだには、拳ひとつ分の隙間がある。この隙間の扱いを決める言葉を、私はこれから言う。そう思った途端、指先がすっと冷えた。
怖い、のだと思う。ただ、知っている怖さとは手触りが違う。一周目、誰かと人生を重ねることは、通帳と印鑑を差し出すことと同じ意味だった。差し出して、目減りして、気づいたときには残高だけでなく体重まで減っていた。あの怖さは、慣らされて、だんだん感じなくなっていく類のものだった。
いまのこれは、麻痺しない。心臓が、うるさいくらいちゃんと打っている。
信号が青になった。祖母の家の角を曲がる手前で、私は立ち止まった。
「国見さん。この間の、お返事です」
国見さんは紙袋を提げたまま、姿勢を正した。大事な契約書に署名する人の顔だった。
「私、また誰かと人生を重ねるのが、少し怖いです」
「はい」
「前は、重ねているつもりで、上書きされていただけだったので。……でも、怖いままで、あなたの隣を歩きたいです。だから――はい、です。よろしくお願いします」
我ながら、決算報告みたいな返事だと思う。国見さんは書類を受け取るみたいに丁寧に頭を下げて、それから顔を上げた。初めて見る種類の笑い方だった。
「こちらこそ。……ああ、駄目だな。三日かけて用意した言葉が、全部飛びました」
「三日も準備してたんですか」
「四日目からは開き直りました」
歩き出すと、袖と袖の隙間が、さっきより数センチ狭くなっていた。その数センチは、私が自分で選んだ距離だ。
玄関の引き戸を開ける前から、出汁の匂いがした。
「おばあちゃん、着いたよ」
「はいはい」
廊下の奥から祖母が出てくる。エプロンで手を拭きながら国見さんの手土産を受け取り、それから私の顔を見た。
「いらっしゃい。……千夏、いい顔だね」
「そう?」
「うん」
それだけ言って、祖母は台所へ引っ込んだ。長く語らないのは昔からだ。ありがたい。
座敷では葵が先に来ていて、座卓でさやえんどうの筋を取る係をやらされていた。私たちを見るなり、にやにや笑いを隠しもしない。
「おっそーい。……ふうん? ふうーん?」
「葵、手が止まってる」
「はいはい、働きますよーだ。……よかったね、千夏」
最後のひと言だけ、少し湿った声だった。聞こえなかったふりをして、私は座布団を一枚増やした。
こはくは最初、襖の陰から国見さんを検分していた。耳が半分こちらへ向いて、尾の先だけが揺れている。国見さんが畳に腰を下ろしたまま動かずにいると、こはくはゆっくり近づいて、スラックスの裾の匂いを嗅ぎ、ひと呼吸おいてから、ごろりと畳に転がって腹を見せた。
「合格ですって」と葵が言う。
「光栄です」
国見さんは真顔で答えて、指一本で顎の下を掻いた。喉の鳴る音が、座卓の下から聞こえた。
食卓には筑前煮と、揚げたての天ぷらと、炊き込みご飯が並んだ。祖母は国見さんの茶碗が空く前から、二杯目の支度をしていた。
「若い人は食べないと」
「いただきます。……このお出汁、何か特別なことをされていますか」
「何も。毎日引いてるだけ」
「それが一番むずかしいやつです」
祖母はふん、と鼻を鳴らして、でも口元は緩んでいた。うちの職人は、褒めどころの分かる客に弱い。
箸が動いて、湯気が上がって、葵がくだらない質問で国見さんを質問攻めにして、こはくが座卓の下で誰かの足に体重を預けている。私は途中で一度だけ箸を置いて、その全部を眺めた。
一周目の私が最後に見た病室の天井を、まだ覚えている。あの部屋には、誰の箸の音もしなかった。
経理の言い方をするなら、壊した分は、損失の穴埋めにしかならない。次の期に繰り越せるのは、増えた分だけだ。この食卓は、繰越の欄に載る。
「千夏、ぼんやりしない。天ぷらが冷める」
「食べてます」
海老は尻尾まで食べた。祖母が満足そうに急須を傾けた。
帰りは私が駅まで送ると言ったら、祖母と葵が「ごゆっくり」と声を揃えた。たぶん、示し合わせてあったのだと思う。玄関先では、こはくが敷石の上に座り、尾を前足に巻きつけて、私たちが門を出るまで動かなかった。
夜の道は涼しかった。門を出て少し歩いたところで、国見さんの上着の内側で携帯が短く震えた。
「すみません、会社からで……失礼します」
画面に目を落とした国見さんの眉が、上がった。
「いい報せです。例の大口――新規のお取引、先方が正式に決めてくださったそうです。月曜から先方の窓口とやり取りが始まります」
「おめでとうございます」
言いながら、傾いた画面の文面が目に入った。見慣れない社名と、その下の一行。
――先方ご担当:桐生梨花様。
夜気が、一段冷えた気がした。
「早瀬さん?」
「……いえ。月曜が楽しみですね」
声は平らに出た。二周目で鍛えた声だ。国見さんは口を開きかけて、やめた。詮索しないのは、この人の昔からの流儀だ。
駅までの道を隣に並んで歩きながら、私は頭の中で手帳を開いていた。印をつけた日付は、もう過ぎた。死なないことは、確かめた。壊すべきものは壊し終えて、築きたいものの席は、今日、ひとつ増えた。
それでも――消えた女は、消えたままではいてくれないらしい。
月曜になったら、まず新しいノートを一冊おろそう。
私の二周目は、どうやら、まだ折り返したばかりだ。




