第八話 夏空と、言えなかった言葉。
六月。
梅雨入りを迎えた町では、朝から細かな雨が降っていた。
教室の窓ガラスには雨粒が流れ、校庭の木々は濃い緑に濡れている。
けれど、教室の中は妙に騒がしかった。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「藤原たちのこと」
蓮は、自分の席で聞こえないふりをしていた。
「旧音楽室に毎日集まってるんだって」
「何か隠してるらしいよ」
「三人だけの秘密基地とか?」
「秘密基地って……小学生じゃん」
笑い声。
蓮は机の上の消しゴムを指で転がした。
笑えばいい。
いつものように、
「何それ、ウケる」
と言ってしまえばいい。
そうすれば、きっと誰も気にしない。
でも。
今日は笑えなかった。
「蓮」
隣の席から樹が小さな声で呼んだ。
「気にするなよ」
「気にしてない」
「嘘」
「……」
蓮は窓の外を見る。
「俺、こういうの慣れてるから」
「慣れてる?」
「みんなに何か言われるの」
蓮は笑った。
けれど、その笑顔はいつものものとは少し違っていた。
「適当に笑ってれば、だいたい何とかなるし」
樹は何も言わなかった。
後ろの席では、岳が二人の会話を聞いていた。
「……それ、本当に何とかなるの?」
蓮が振り返る。
「岳まで?」
「質問しただけ」
「何だよ」
「笑っていれば、嫌われないと思ってるなら」
岳は淡々と言った。
「たぶん、それは違う」
「……」
蓮は黙った。
「嫌われないために笑ってるなら、それは笑顔じゃなくて防御だろ」
「……難しいこと言うなよ」
「難しくない。事実」
樹が二人を見て、少しだけ笑った。
「まあ、岳らしいけど」
蓮も小さく笑った。
今度は、少しだけ本物だった。
* * *
放課後。
雨は上がっていた。
旧音楽室。
蓮、樹、岳の三人は、いつものように集まっていた。
机の上には、地域交流発表会で使った資料。
壁には町の古い写真。
黒板には、これまで見つけた手がかり。
そして、隅には三つの椅子。
「ここ、ほんとに秘密基地みたいになったな」
蓮が言った。
「最初は物置だったのに」
樹が部屋を見回す。
「資料を置く場所も決まったし」
「勝手に使ってるだけだけど」
岳が言う。
「そういうところが秘密基地なんだよ」
蓮が笑った。
そのとき。
コンコン。
扉を叩く音がした。
三人の動きが止まる。
「……誰?」
蓮が小声で言う。
「知らない」
岳が答える。
樹が扉を開けた。
「失礼します」
そこに立っていたのは、美咲だった。
「あ……」
蓮が少し驚く。
「白石?」
「やっぱりここだった」
美咲が笑う。
「何してるの?」
「秘密基地」
蓮が答えた。
「蓮!」
樹が慌てる。
「何で言うんだよ!」
「もう噂になってるし」
岳が言う。
「秘密じゃない」
「……まあ、そうだけど」
美咲が部屋の中を覗く。
「入っていい?」
「どうぞ」
岳が答えた。
美咲が入ってくる。
古い楽器。
埃をかぶった譜面台。
壁に残された昔の合唱コンクールの写真。
そして、三人が集めた町の資料。
「本当に秘密基地みたい」
「だろ?」
蓮が嬉しそうに言った。
「なんか、いいね」
「何が?」
「学校の中に、自分たちだけの場所があるって」
美咲は古い椅子に腰を下ろした。
蓮はその様子を見ていた。
なぜだか、少し嬉しかった。
* * *
それから、美咲は旧音楽室に時々来るようになった。
最初は発表会の資料を見るため。
そのうち、宿題をするため。
そして、いつの間にか――。
何でもない話をするため。
「ねえ、蓮」
「何?」
「好きな人いる?」
「いきなり?」
「だって暇だから」
「いない」
「即答」
「本当にいないって」
「樹は?」
「俺もいない」
「岳は?」
「いない」
「三人とも?」
「三人とも」
美咲は少し呆れたように笑った。
「つまんない」
「何でだよ」
「中学生なんだから、もっと青春しなよ」
蓮が胸を張った。
「俺たち今、青春中だから」
「何それ」
「タイトル」
「タイトル?」
「俺たちの人生の」
美咲が吹き出した。
「変なの」
岳は本を読みながら言った。
「青春って、本人が決めるものじゃないと思うけど」
「じゃあ誰が決めるんだよ」
「後になってから分かるものじゃない?」
蓮は少し考えた。
「じゃあ、今は青春かどうか分かんないってこと?」
「たぶん」
「つまんねえ」
樹が笑う。
「でも、なんとなく分かる気がする」
窓の外では、雲の切れ間から青空が見え始めていた。
雨上がりの校庭。
濡れた木々。
夏を待つ風。
誰も特別なことをしていない。
ただ話して。
笑って。
宿題をして。
帰る時間になったら、それぞれの家に帰る。
それだけ。
でも、その「それだけ」が、少しずつ大切になっていた。
* * *
ある日の放課後。
美咲が一人で旧音楽室に残っていた。
蓮たちは職員室へ資料を返しに行っている。
美咲は黒板に書かれた文字を眺めていた。
町の古い建物。
昔の写真。
中庭の時計。
そして――。
三人の少年が写った古い写真。
「……三人だったんだよね」
美咲が呟く。
最初は三人。
自分は、あとから入ってきた。
だから。
いつか、自分がいなくなっても。
三人は三人で続けていける。
そう思った。
そのはずだった。
なのに。
最近、この部屋に来るのが楽しみになっている。
四人で話すことが。
くだらないことで笑うことが。
帰り道を一緒に歩くことが。
美咲は自分でも気づかないうちに、机の上に置かれた四人分の資料を見つめていた。
「……私、何考えてるんだろ」
そのとき、扉が開いた。
「美咲?」
蓮だった。
「え?」
「一人?」
「うん」
「どうした?」
「何でもない」
美咲は笑った。
蓮は少しだけ首を傾げた。
「そう?」
「うん」
「ならいいけど」
蓮は自分の椅子に座った。
「……なあ」
「何?」
「最近、ここに来るの楽しい?」
美咲は少し驚いた。
「うん」
「そっか」
蓮は笑った。
それだけだった。
けれど、美咲はなぜか胸が少し熱くなった。
* * *
その日の帰り。
空はすっかり晴れていた。
雨上がりの校庭には、水たまりが残っている。
四人は昇降口から出て、並んで歩いていた。
「明日、部活どうする?」
樹が聞く。
「俺はある」
蓮が答える。
「俺も」
「僕はない」
岳が言う。
「じゃあ岳だけ先に旧音楽室?」
「別にいいけど」
美咲が言った。
「私も寄ろうかな」
蓮が笑う。
「じゃあ決まり」
そのとき。
美咲が少しだけ蓮の隣に近づいた。
「ねえ」
「ん?」
「さっきの話だけど」
「何?」
「好きな人」
「ああ」
「本当にいないの?」
「いないって」
「……そっか」
美咲は前を向いた。
蓮も前を向いていた。
だから、互いの顔は見えなかった。
「美咲は?」
蓮が聞いた。
「……秘密」
「えー」
「蓮には教えない」
「なんで俺だけ?」
「なんとなく」
美咲が笑う。
蓮も笑った。
けれど、その笑顔の奥で。
二人とも、少しだけ違うことを考えていた。
* * *
翌朝。
教室に入った蓮は、足を止めた。
黒板に、大きな文字が書かれている。
『秘密基地の三匹さん。
次は何を隠してるの?』
教室の何人かが笑っている。
「誰が書いたんだろうね」
「さあ」
「旧音楽室って本当に何かあるんじゃない?」
蓮は黒板を見つめた。
昨日までなら、
「何それ」
と笑っていたかもしれない。
でも今日は、笑えなかった。
「蓮」
樹が隣に来る。
「……消そうか」
「いや」
蓮は首を振った。
「俺がやる」
黒板消しを手に取る。
ゆっくりと文字を消していく。
最後の一文字が消えた。
黒板は元に戻った。
でも。
蓮の胸に残ったものは、消えなかった。
怖い。
旧音楽室を知られたくない。
三人の場所を壊されたくない。
でも、それ以上に――。
最近、自分だけの場所ではなくなってきたことを、嬉しいと思っている。
美咲が来るようになったこと。
樹と岳が笑うようになったこと。
四人でいる時間が増えたこと。
それを失いたくない。
「……俺、どうしたいんだろ」
蓮が呟く。
窓の外を見る。
雨雲の向こうから、夏の青空が少しだけ覗いていた。
その青空の下で。
四人の関係は、少しずつ形を変え始めていた。
友情なのか。
恋なのか。
それとも、まだ名前のない何かなのか。
誰にも分からない。
ただ一つだけ分かることがある。
――大切になったものほど、失うのが怖くなる。
そしてその日の放課後。
旧音楽室の扉には、見覚えのない紙が一枚貼られていた。
『三匹の秘密基地、発見。』
その文字を見た瞬間。
蓮の胸の奥で、何かが音を立てて変わった。
夏の風は、もう優しくなかった。




