第七話 放課後は、秘密基地になる。
五月の終わり。
校庭の木々は、すっかり濃い緑になっていた。
昼休みの教室では、先週から続いている噂が、まだ消えていなかった。
「ねえ、藤原たちって、ほんとに何か隠してるの?」
「知らない」
「旧音楽室に集まってるって」
「何してるんだろうね」
蓮は聞こえていないふりをした。
机に頬杖をつき、窓の外を見る。
笑ってしまえばいい。
いつもなら、そうする。
けれど今日は、笑えなかった。
「蓮」
隣の席から樹が声をかける。
「気にするなよ」
「気にしてない」
「嘘」
「……樹まで言う?」
「顔に出てる」
蓮はため息をついた。
「俺って、そんな分かりやすい?」
「分かりやすい」
後ろから岳の声がした。
「石田まで……」
「事実」
「お前ら、俺のこと何だと思ってるんだよ」
「明るい人」
樹が答える。
「面倒な人」
岳が続ける。
「ひどくない?」
三人の間に、ようやく笑いが戻った。
ほんの少しだけ。
* * *
放課後。
旧音楽室。
蓮が扉を開ける。
「ただいまー」
「ここは家じゃない」
岳が言う。
「でも、最近ここに来ると落ち着くんだよな」
蓮は部屋を見回した。
埃をかぶった楽器。
古い机。
使われなくなった譜面台。
壁に貼られた、何年も前の合唱コンクールの写真。
最初はただの物置だった。
けれど、三人で何度も集まるうちに、少しずつ変わっていた。
机の上には三人が調べた資料。
壁には町の古い写真。
黒板には、これまで見つけた手がかり。
そして隅には、三人が勝手に持ち込んだ椅子。
「秘密基地っぽくなってきたな」
樹が言った。
「だろ?」
蓮が嬉しそうに笑う。
「誰かに見つかったら怒られるぞ」
「だから秘密基地なんじゃん」
「秘密じゃないだろ。噂になってる」
岳が言う。
「……それは言うなよ」
蓮は椅子に座った。
「ところで、今日の発表準備は?」
「もうほとんど終わってる」
樹がノートを開く。
「写真も整理した。あとは発表原稿」
「それなら今日は遊ぼうぜ」
「何する?」
「知らない」
「決めてから言えよ」
三人が笑う。
その瞬間だった。
コンコン。
扉を叩く音がした。
三人の動きが止まる。
「……誰?」
蓮が小声で言う。
「知らない」
岳も小声で返す。
樹が扉を開ける。
「失礼します」
そこに立っていたのは、白石美咲だった。
「あ……」
三人の間に妙な沈黙が流れる。
「やっぱりここだった」
美咲が笑う。
「何してるの?」
「いや……」
蓮が言葉に詰まる。
「秘密基地」
「蓮!」
樹が慌てる。
「何で言うんだよ!」
「だって秘密じゃないし」
「秘密じゃないの?」
美咲が部屋を覗き込む。
「本当に基地みたい」
「だろ?」
蓮が得意そうに言う。
岳は資料を片付け始めた。
「別に隠す必要もない」
「じゃあ、入っていい?」
「どうぞ」
岳が答えた。
美咲は部屋に入り、黒板を見る。
「これ、全部調べたの?」
「うん」
樹が答える。
「すごいね」
「三人でやったから」
蓮が言う。
美咲は三人を見る。
「なんか、いいね」
「何が?」
「こういうの」
美咲は古い椅子に腰を下ろした。
「学校の中に、自分たちだけの場所があるって」
蓮は少しだけ嬉しそうに笑った。
「だろ?」
* * *
その日から、美咲も時々、旧音楽室に来るようになった。
最初は発表の資料を見るだけだった。
そのうち、宿題をするようになった。
さらに、くだらない話をするようになった。
「ねえ、蓮」
「何?」
「好きな人いる?」
「いきなり?」
「だって暇だから」
「いない」
「即答だね」
「本当にいないって」
「樹は?」
「俺もいない」
「岳は?」
「いない」
「三人とも?」
「三人とも」
美咲は笑った。
「つまんない」
「なんでだよ」
「中学生なんだから、もっと青春しなよ」
蓮が胸を張る。
「俺たち今、青春中だから」
「何それ」
「タイトル」
「タイトル?」
「俺たちの人生の」
美咲が笑った。
「変なの」
岳は本を読みながら、ぽつりと言った。
「青春って、本人が決めるものじゃないと思うけど」
「じゃあ誰が決めるんだよ」
「後になってから分かるものじゃない?」
蓮は少し考えた。
「じゃあ、今は青春かどうか分かんないってこと?」
「たぶん」
「それ、つまんなくない?」
「別に」
樹が笑う。
「でも、なんとなく分かる気がする」
窓の外では、風に木々が揺れている。
誰も特別なことをしていない。
ただ話して。
笑って。
宿題をして。
帰る時間になったら、それぞれの家に帰る。
それだけ。
でも、その「それだけ」が、少しずつ大切になっていた。
* * *
六月に入った。
地域交流の発表会の日。
三人は教壇に立っていた。
「僕たちは、この町の昔と今について調べました」
樹が話す。
蓮が古い写真を映す。
岳が資料について説明する。
最後に、美咲が一枚の写真をスクリーンに映した。
そこには、昔の中学生が三人写っていた。
肩を組んで笑っている。
「この写真の裏には、こんな言葉がありました」
美咲が読む。
「『三人で見つけた町。三人で守りたい町』」
教室が静かになる。
蓮はその写真を見つめた。
なぜだろう。
少しだけ胸が温かくなった。
発表が終わる。
拍手が起こった。
「よかったな」
先生が言う。
「ありがとうございます」
三人は顔を見合わせた。
自然に笑った。
その帰り道。
「今日、楽しかったな」
蓮が言った。
「うん」
樹が答える。
「まあ」
岳も頷いた。
「なあ」
蓮が二人を見る。
「これからも、あそこ集まろうぜ」
「旧音楽室?」
「うん」
「いいけど」
樹が答える。
岳は少し考えてから、
「……別にいいよ」
と言った。
「よし!」
蓮が笑う。
三人は歩いていく。
夕暮れの道。
長く伸びた三人の影が、並んでいた。
* * *
その夜。
蓮は自分の部屋でスマートフォンを見ていた。
クラスのグループに新しいメッセージが届く。
『今日の発表、三人だけで考えたんだって?』
『旧音楽室って、他の人入れないの?』
『あそこ、昔から何かあるって噂だよね』
蓮は画面を閉じた。
少し迷ってから、もう一度開く。
そして、
『別に秘密じゃないよ』
と返信した。
送信。
数秒後。
既読がいくつもついた。
蓮はスマートフォンを伏せた。
「……これでいいだろ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
秘密基地。
三人の居場所。
誰にも知られたくないような。
でも、誰かに知ってほしいような。
そんな不思議な場所。
蓮にとって、それは初めて、
「無理して笑わなくてもいい場所」
になり始めていた。
けれど。
翌朝。
学校へ行った蓮は、教室の黒板を見て足を止めた。
そこには、誰かがチョークで書いた文字。
大きく、乱暴な字で――。
『秘密基地の三匹さん。次は何を隠してるの?』
蓮の笑顔が消えた。
教室の中から、誰かの笑い声が聞こえた。
風が吹く。
窓際のカーテンが大きく揺れた。
――わらの家は、まだ立っている。
けれど。
風はもう、優しい春の風ではなかった。




