第三話 木の家には、努力が積もる。
朝六時四十分。
まだ校舎の窓には、朝の光が薄くしか届いていなかった。
校庭には、誰もいない。
――正確には、一人を除いて。
「おはようございます!」
グラウンドに響いた声。
木村樹は、サッカーボールを抱えて走っていた。
「おう、樹。早いな」
三年生の神谷直人が声をかける。
「神谷先輩こそ」
「俺は三年だからな。引退まで時間ないし」
「……そうですね」
樹はボールを地面に置いた。
そして、ドリブルを始める。
右。
左。
切り返し。
シュート。
ボールがゴールネットを揺らした。
「ナイス」
神谷が笑う。
「ありがとうございます」
「でも、ちょっと力みすぎ」
「え?」
「もっと肩の力抜けよ」
樹は頷いた。
「はい」
それでも、もう一度ボールを拾う。
「もう一本やります」
神谷は苦笑した。
「ほんと真面目だな、お前」
* * *
樹は努力することが嫌いではなかった。
むしろ好きだった。
練習すれば上手くなる。
勉強すれば成績が上がる。
昨日できなかったことが、今日できるようになる。
その積み重ねが好きだった。
だから、毎日続けた。
誰より早く学校に来て。
誰より遅くまで練習する。
それが自分の強さだと思っていた。
しかし――
その日の放課後。
「今日のスタメン発表するぞ」
顧問の先生が言った。
部員たちが静かになる。
「フォワード、神谷」
「はい」
「右サイド、佐々木」
「はい」
「左サイド……」
樹は拳を握った。
自分の名前を待つ。
「……木村」
「はい!」
樹は立ち上がった。
いつものポジション。
いつもの場所。
その瞬間――
「ただし、次の練習試合からは一年の中島も試す」
樹の顔が固まった。
「中島?」
隣にいた一年生が驚いた顔をする。
その少年は、入部したばかりなのに、驚くほど上手かった。
「中島、最近伸びてるからな」
先生はそう言った。
「木村も負けるなよ」
「……はい」
返事はした。
でも、胸の奥がざわついていた。
* * *
練習が終わった。
樹は一人でグラウンドに残った。
何度もシュートを打つ。
一本。
二本。
三本。
十本。
二十本。
ゴールネットが揺れる。
それでも、気持ちは晴れなかった。
「木村」
振り返ると、神谷がいた。
「まだやってたのか」
「はい」
「もう十分だろ」
「まだです」
「何が?」
「……もっとやらないと」
神谷は樹の隣に立った。
「なんで?」
「上手くならないと」
「何のために?」
「試合に出るためです」
「それだけ?」
樹は答えなかった。
神谷は少し笑った。
「お前、サッカー好きか?」
「……はい」
「じゃあ、楽しめよ」
「楽しんでます」
「本当に?」
樹は黙った。
神谷はボールを拾い上げる。
「努力するのはいい。でも、努力しないと価値がないって思い始めたら、ちょっと危ないぞ」
「……」
「俺も昔、そうだったから」
神谷は笑った。
「まあ、三年になっても、まだ分かんないけどな」
樹は少しだけ笑った。
「先輩でも分からないことあるんですね」
「あるよ。むしろ分からないことばっかりだ」
「……そうですか」
* * *
翌日。
昼休み。
「樹!」
蓮が机にやってきた。
「昨日、部活どうだった?」
「普通」
「スタメン?」
「うん」
「すげーじゃん!」
「でも一年に抜かれるかもしれない」
蓮が目を丸くする。
「一年?」
「中島っていう一年」
「へえ。そんなにすごいの?」
「うん」
「じゃあ、負けるなよ」
「簡単に言うなよ」
「だって樹じゃん」
「どういう意味?」
「努力家」
蓮は笑った。
「樹なら大丈夫だって」
「……なんで?」
「だって、ずっと頑張ってるじゃん」
その言葉に、樹は少し黙った。
「努力したら、絶対勝てると思う?」
「え?」
「いや」
樹は首を振った。
「なんでもない」
蓮は不思議そうな顔をした。
「変なの」
そのとき、岳が横を通った。
「何が?」
「樹が悩んでる」
「悩んでない」
「悩んでるじゃん」
「悩んでない」
岳は二人を見た。
「じゃあ、努力したら必ず結果が出ると思う?」
「……岳まで」
「質問しただけ」
樹は少し考えた。
「出ると思ってる」
「根拠は?」
「今までそうだったから」
「それは、これからもそうだという証拠にはならない」
「……」
蓮が口を挟む。
「お前ら、昼休みに難しい話すんなよ」
岳は無視した。
「努力は必要。でも、努力だけで全部決まるなら、誰も悩まない」
「じゃあ、どうすればいい?」
「知らない」
「おい!」
「だから考えるんだろ」
岳はそう言って、教室を出ていった。
樹はその背中を見つめた。
「……あいつ、たまにいいこと言うよな」
「たまに?」
「うん」
「ひど」
二人は笑った。
* * *
その日の夕方。
樹は家に帰った。
「おかえり」
母親の真紀が台所から顔を出す。
「ただいま」
「今日は早いね」
「うん」
樹は鞄を置いた。
「ご飯、もうすぐだから」
「分かった」
自分の部屋に入る。
机の上には、学校の問題集。
壁にはサッカーの大会予定。
その横に、小学生の頃にもらったメダルが掛かっている。
樹はそれを見た。
昔は、試合に出られるだけで嬉しかった。
ボールに触れるだけで楽しかった。
いつからだろう。
勝たなければ。
上手くならなければ。
結果を出さなければ。
そんなことばかり考えるようになったのは。
「……俺、何のためにやってるんだろ」
呟いたとき。
ドアが開いた。
「樹?」
「母さん」
「ご飯できたよ」
「うん」
真紀は息子の顔を見る。
「どうしたの?」
「別に」
「そう?」
「うん」
母親はそれ以上聞かなかった。
ただ、
「毎日ちゃんと頑張ってるじゃない」
そう言って、部屋を出ていった。
樹はしばらく動かなかった。
それから、壁のメダルを見た。
――毎日ちゃんと頑張ってる。
その言葉が、胸に残った。
* * *
翌朝。
樹はいつものように早く学校へ向かった。
グラウンドに立つ。
ボールを蹴る。
昨日より少しだけ、肩の力を抜いて。
シュート。
ボールはゴールの隅へ飛んでいった。
「ナイス!」
神谷の声が響く。
樹は笑った。
まだ答えは出ていない。
努力すれば勝てるのか。
努力しても届かないものがあるのか。
それは、まだ分からない。
でも。
今日もボールを蹴る。
好きだから。
少なくとも、その気持ちはまだ消えていなかった。
木は、わらより強い。
けれど、木にも風は吹く。
強くなればなるほど、
その風を真正面から受けることになる。
樹はまだ知らなかった。
いつか自分自身が、
「努力しても、どうにもならない」
と思うほどの風に出会うことを。
そして、そのとき初めて――
自分一人で積み上げてきたものの意味を、考えることになる。
春は、まだ始まったばかりだった。




