第二十話 最後の風が吹く日。
――三月。
桜のつぼみが、少しずつ膨らみ始めていた。
校庭には、まだ冬の名残がある。
けれど。
風はもう冷たくない。
蓮は教室の窓を開けた。
「春じゃん」
「まだ寒いよ」
樹が言う。
「でも、冬じゃない」
蓮は笑った。
「それでいいだろ」
黒板には、卒業式までの日数が書かれている。
あと少し。
三年生が、この学校を去っていく。
そして。
自分たちも、あと一年でここを去る。
そんなことを考えると。
少しだけ不思議だった。
ずっと続くと思っていた毎日が。
本当は、少しずつ終わりへ向かっている。
* * *
放課後。
旧音楽室。
五人が集まっていた。
机の上には、これまで集めたものが並んでいる。
古い校舎図。
町の写真。
昔の三人の写真。
中庭の時計の下で見つけた箱。
そして。
五人で撮った写真。
「これ」
美咲が一枚の写真を手に取る。
夏祭りの日。
五人で花火を見上げている。
蓮が笑っている。
樹が少し照れている。
岳は相変わらず無表情。
美咲は笑顔。
湊は――ほんの少しだけ笑っている。
「懐かしいな」
蓮が言った。
「まだ半年くらいだよ」
美咲が笑う。
「半年って結構長いぞ」
「いろいろあったね」
樹が言う。
五人は黙った。
噂。
喧嘩。
部活。
進路。
恋。
秘密基地。
夏祭り。
そして。
離れてしまった時間。
全部が、この小さな部屋に残っている。
* * *
「なあ」
蓮が言った。
「最初にここを見つけたときさ」
「うん」
樹が答える。
「俺たち、三人だったよな」
「そうだな」
岳が言う。
蓮は黒板を見る。
そこには、最初に見つけた言葉が残っている。
三人で見つけた町。
三人で守りたい町。
その下には。
自分たちで書き加えた言葉。
五人で見つけた町。
五人で守りたい場所。
さらに。
そして、いつか次の誰かへ。
「これ」
蓮が言う。
「消す?」
樹が驚く。
「何で?」
「だって、もう俺たちだけの言葉じゃないだろ」
岳が立ち上がる。
「じゃあ、残す」
「どうやって?」
「写真を撮る」
岳はスマートフォンを取り出した。
「ここに残しても、いつか消える」
シャッターを切る。
「でも、記録は残せる」
蓮が笑う。
「岳らしい」
「何が?」
「レンガ」
「意味が分からない」
樹が笑った。
* * *
その日の帰り。
五人は学校の中庭に向かった。
古い時計。
その下には、もう何もない。
あの箱は旧音楽室に戻した。
昔の三人が残した言葉も。
五人の写真も。
全部。
あの部屋に置いてある。
「ここから始まったんだよな」
蓮が時計を見上げる。
「正確には旧音楽室」
岳が言う。
「細かい」
「事実」
美咲が笑う。
湊は時計の下に立った。
「ねえ」
蓮が振り返る。
「何?」
「最初の三人も」
湊は古い時計を見上げる。
「ここで、同じように話してたのかな」
「たぶん」
樹が答える。
「卒業する前に」
「何を話したんだろうね」
美咲が言う。
誰にも分からない。
でも。
少しだけ想像できる。
未来のこと。
友達のこと。
町のこと。
そして。
いつか離れること。
* * *
風が吹いた。
桜の枝が揺れる。
蓮が空を見る。
「……最後の風かな」
「何が?」
樹が聞く。
「冬の」
蓮は笑う。
「もう春だろ」
樹も空を見る。
「そうだな」
風が五人の間を通り抜けていく。
以前なら。
風が吹くたびに怖かった。
噂を運んで。
言葉を運んで。
人の心を揺らして。
大切なものを壊していく。
でも。
今は違う。
風が吹いても。
五人は離れない。
* * *
「ねえ、蓮」
美咲が呼ぶ。
「何?」
「来年もここ来る?」
「当たり前だろ」
「でも、クラス変わるよ」
「関係ない」
「部活も忙しくなるよ」
「それも関係ない」
「受験もあるよ」
岳が言う。
「それは関係ある」
五人が笑った。
「でも」
蓮は少し考えてから言った。
「来られるときに来ればいいじゃん」
「うん」
美咲が頷く。
「ずっと一緒じゃなくても」
樹が言った。
「戻ってくればいい」
岳が続ける。
「その方が現実的」
蓮が笑う。
「岳、それ言うと感動しない」
「事実だよ」
「でも」
湊が言った。
「それがいいと思う」
四人が湊を見る。
「離れても」
湊は少しだけ考えた。
「ここがあるなら」
そして。
「また会えるから」
蓮は笑った。
「それで決まり」
* * *
その夜。
五人は旧音楽室に戻った。
最後に、部屋を見回す。
机。
椅子。
古い楽器。
写真。
黒板。
そして。
五人の写真。
蓮が言った。
「なあ」
「何?」
「最初の『三匹のこぶた』ってさ」
「うん」
「本当は、三匹じゃなかったのかもな」
樹が笑う。
「どういう意味?」
「だって」
蓮は三人を見る。
「わらも木もレンガも」
「一人じゃ家にならないだろ」
岳が静かに頷く。
「……そうだね」
美咲が笑った。
「じゃあ、この話の三匹って誰?」
蓮は少し考える。
樹。
岳。
そして。
自分。
けれど。
その後ろには。
美咲がいる。
湊がいる。
家族がいる。
先生がいる。
先輩がいる。
町の人たちがいる。
そして。
これから出会う誰かもいる。
「三匹は三匹だよ」
蓮が言う。
「でも」
「でも?」
「三匹だけじゃ、青春できなかった」
しばらく沈黙して。
「……それは、そうかも」
樹が笑った。
岳も。
美咲も。
湊も。
笑った。
* * *
帰り道。
五人は並んで歩いていた。
春の夜。
空には星が出ている。
蓮が少し前を歩く。
樹が追いつく。
美咲が二人の後ろを歩く。
岳はその隣。
湊は少しだけ遅れている。
美咲が気づいた。
「湊」
「……ん?」
「早く」
湊が顔を上げる。
「……うん」
歩く速度を少しだけ上げる。
五人の影が。
街灯の下で重なった。
昔。
蓮は一人で笑っていた。
樹は一人で頑張っていた。
岳は一人で壁を作っていた。
三人とも。
それぞれの「家」の中にいた。
けれど。
出会った。
ぶつかった。
離れた。
傷ついた。
そして。
もう一度、出会った。
わらの家は。
風に弱かった。
木の家には。
ひびが入った。
レンガの家にも。
扉がなかった。
それでも。
三人は知った。
家とは。
壊れないものではない。
何度でも。
帰ってこられる場所なのだ。
* * *
翌朝。
旧音楽室。
誰もいない。
窓から春の風が入ってくる。
黒板に残された言葉。
五人で見つけた町。
五人で守りたい場所。
そして、いつか次の誰かへ。
風が吹く。
カーテンが揺れる。
古い写真が少しだけ動く。
けれど。
壁から落ちはしなかった。
窓の外。
校庭の桜の枝に。
一つ。
小さな花が咲いていた。
まだ一輪だけ。
それでも。
確かに春だった。
* * *
その日の放課後。
「蓮!」
樹の声が聞こえる。
「早くしろ!」
「待って!」
美咲が笑っている。
「また蓮が遅れてる」
「岳、先行って!」
「嫌だ」
「なんで!」
「面倒だから」
湊が少し離れたところで笑っている。
「……行こう」
「湊まで!」
五人の声が重なる。
校門を出る。
それぞれ違う家へ帰っていく。
明日になれば。
また学校がある。
また授業がある。
また部活がある。
また喧嘩するかもしれない。
また悩むかもしれない。
誰かを好きになるかもしれない。
誰かと離れるかもしれない。
それでも。
歩いていく。
自分の道を。
それぞれの家へ。
そして。
いつかまた。
帰ってくる場所へ。
――三匹のこぶた。
わらと。
木と。
レンガ。
違う材料で作られた三つの家。
風に吹かれて。
何度も揺れて。
時には壊れて。
それでも。
最後には。
自分たちで建て直した。
だから。
これは、狼に勝った話じゃない。
風を止めた話でもない。
風が吹いても。
自分たちの足で立っていくことを知った、
三匹のこぶたの話。
そして――。
誰かと笑った時間を、
「青春」と呼べるようになるまでの話。
春の風が吹く。
五人の背中を、そっと押していく。
蓮が振り返る。
「なあ!」
四人が振り返る。
「来年も、ここ来ような!」
樹が笑う。
「当たり前だろ!」
美咲も笑う。
「もちろん」
岳は少し考えて。
「予定が合えば」
「またそれかよ!」
湊が少しだけ笑う。
「……たぶん」
「そこは『絶対』だろ!」
五人の笑い声が。
春の町に響いた。
その声は。
風に乗って。
どこまでも遠くへ流れていった。
そして。
誰もいなくなった旧音楽室にも。
春の風が吹き込んだ。
古い写真の三人。
新しい写真の五人。
その二枚の写真を。
柔らかな光が照らしている。
まるで。
昔の青春と。
今の青春が。
同じ場所で。
静かに笑い合っているように。
⸻
――三匹のこぶた、青春中。
おわり。




