第十九話 冬の町に、春の気配。
二月。
朝の空気は、まだ冷たい。
吐いた息は白く、校庭の隅には冬の名残のように、薄い霜が残っていた。
けれど。
少し前とは、何かが違っていた。
風が、ほんの少しだけ柔らかい。
日が落ちるのも、少しだけ遅くなった。
春はまだ遠い。
それでも。
どこかにいる。
そんな気がした。
* * *
「先輩、今日で最後なんですよね」
放課後のグラウンド。
樹は神谷直人の隣に立っていた。
「ああ」
神谷は笑った。
「卒業だからな」
サッカー部の練習は、いつもと同じだった。
ボールを蹴る。
走る。
声を出す。
でも。
今日だけは、少し違って見えた。
樹は神谷のプレーを見つめる。
最後の練習。
何度も追いかけた背中。
自分が目標にしてきた人。
「先輩」
「ん?」
「俺……」
樹は少し迷った。
「先輩みたいになりたいです」
神谷は一瞬、驚いた顔をした。
そして笑う。
「俺みたいにならなくていいよ」
「え?」
「木村は木村だろ」
樹は黙った。
「俺も昔、先輩の真似ばっかりしてた」
「そうなんですか?」
「うん。でも、途中で気づいた」
神谷はグラウンドを見る。
「誰かを目標にするのはいい。でも、最後は自分の道を歩かないといけない」
樹はその言葉を聞いていた。
「お前は、お前のままで頑張ればいい」
神谷はそう言って、樹の肩を叩いた。
「じゃあな」
「……はい」
神谷が歩いていく。
樹はその背中を見送った。
寂しかった。
でも。
不思議と、前ほど怖くなかった。
自分にも。
自分の道がある。
そう思えた。
* * *
翌日。
昼休み。
蓮と美咲は、校舎裏のベンチに座っていた。
「寒い」
蓮が言う。
「じゃあ、なんで外に来たの?」
「教室だと人が多いから」
「蓮って、人が多いところ好きじゃなかった?」
「昔はね」
美咲が蓮を見る。
「昔?」
「なんか最近、静かな方がいい」
「へえ」
「何だよ」
「変わったなって」
「樹にも岳にも言われる」
蓮は笑った。
「美咲は?」
「何が?」
「変わった?」
「私?」
「うん」
美咲は少し考える。
「……前より、自分のこと考えるようになったかも」
「へえ」
「三人のことばっかり考えてたから」
「三人?」
「蓮と樹と岳」
「俺たち?」
「うん」
美咲は笑った。
「三人が喧嘩したとき、何とかしなきゃって思ってた」
「……ごめん」
「なんで蓮が謝るの?」
「いや」
蓮は空を見る。
「俺、結構面倒だっただろ」
「うん」
「即答?」
「でも」
美咲は続けた。
「今は、ちょっと違う」
「何が?」
「蓮がちゃんと自分のこと話すようになった」
「……そうかな」
「うん」
蓮は少し照れた。
「美咲も」
「何?」
「前より俺のこと見てる」
「……気のせい」
「絶対そう」
「知らない」
美咲は顔を背けた。
蓮も笑う。
二人の間に、冷たい風が吹いた。
でも。
その風は、もう嫌なものではなかった。
* * *
その日の夜。
岳は父親に進路希望調査票を渡した。
「これ」
「……見せてみろ」
父親が紙を見る。
しばらく黙っている。
「本当に、これでいいのか?」
「うん」
「成績だけなら、もっと上も狙える」
「分かってる」
「そうか」
父親は紙を机に置いた。
「なら、最後まで自分で考えなさい」
岳は顔を上げた。
「……いいの?」
「お前が決めたことだろ」
「うん」
岳は小さく頷いた。
父親はしばらく考えてから言った。
「ただし」
「何?」
「途中で迷ったら、相談しろ」
岳は少し驚いた。
「父さんに?」
「父親だからな」
「……分かった」
岳は笑った。
父親も、ほんの少し笑った。
大きな変化ではない。
でも。
岳にとっては十分だった。
自分の壁に。
初めて小さな扉ができた気がした。
* * *
放課後。
旧音楽室。
「全員いる?」
蓮が確認する。
「いる」
樹。
「いるよ」
美咲。
「いる」
岳。
「……いる」
湊。
「よし」
蓮が机に資料を広げる。
町の古い地図。
昔の写真。
発表会の資料。
中庭の時計の写真。
そして。
最初に見つけた古い紙。
「これさ」
蓮が言った。
「結局、何だったんだろうな」
岳が資料を並べる。
「少し待って」
古い校舎図。
昔の町の地図。
写真。
それらを重ねていく。
「……」
「どう?」
樹が聞く。
岳は黙っている。
「岳?」
「これ」
岳が指を差した。
「全部、同じ場所を指してる」
「どこ?」
「ここ」
古い地図の一点。
現在の校舎図の一点。
写真の背景。
そして。
「中庭」
美咲が言った。
「時計のところ?」
「たぶん」
湊が立ち上がる。
「行ってみる?」
蓮が笑った。
「行こう」
* * *
中庭。
古い時計が立っている。
長い間、誰にも気にされていない時計。
五人はその下を調べた。
「何もないぞ」
樹が言う。
「もう少し右」
岳が指示する。
「ここ?」
「違う」
「じゃあここ?」
「……そこ」
樹がしゃがむ。
「ん?」
土の中に。
小さな金属が見えた。
「箱?」
蓮が拾い上げる。
古びた小さな箱だった。
五人が顔を見合わせる。
「開けてみよう」
美咲が言う。
蓋を開く。
中に入っていたのは。
一枚の紙。
そして。
古い写真。
そこには。
あの三人。
昔の中学生三人が写っていた。
紙を開く。
そこには、こう書かれていた。
いつか、この町を好きになる三人へ。
蓮が息を呑む。
「……俺たちのこと?」
「たぶん違う」
岳が言う。
「でも」
美咲が笑う。
「今の私たちには、ぴったりだね」
樹は写真を見る。
「この三人も、ここで何かしてたんだな」
「俺たちと同じように?」
蓮が聞く。
「たぶん」
湊が写真を裏返す。
そこには短い文章があった。
町は変わる。
人も変わる。
だから、残したいものを自分たちで見つけてほしい。
五人は黙って読んだ。
何年も前。
この学校にも。
自分たちと同じように。
友達と笑い。
喧嘩をして。
悩んで。
卒業していった人たちがいた。
その人たちの「青春」が。
今、自分たちの手の中にある。
* * *
帰り道。
空は薄いオレンジ色だった。
「春、来るな」
蓮が言った。
「まだ早いだろ」
樹が笑う。
「気温的には、もう少し先」
岳が言う。
「そういう意味じゃないでしょ」
美咲が笑った。
「……でも」
湊が空を見上げる。
「来ると思う」
四人が湊を見る。
「何が?」
「春」
湊は答えた。
「まだ寒いけど」
少しだけ笑う。
「来ると思う」
蓮が笑った。
「湊が言うと、なんか信じられるな」
「何それ」
樹が笑う。
五人の笑い声が、冬の町に響いた。
* * *
旧音楽室に戻る。
誰もいない部屋。
五つの椅子。
壁に貼られた写真。
黒板には、
五人で見つけた町。
五人で守りたい場所。
という言葉。
湊が黒板の前に立った。
チョークを手に取る。
「何してる?」
蓮が聞く。
湊は、その下に一行を書き足した。
そして、いつか次の誰かへ。
蓮はその文字を見つめた。
「……いいじゃん」
「うん」
湊が答える。
美咲が写真を見る。
「この場所も、いつか私たちがいなくなるんだよね」
「三年生になって」
樹が言う。
「卒業して」
岳が続ける。
「別々の高校に行くかもしれない」
蓮が言った。
少しだけ寂しい。
でも。
以前のような恐怖はなかった。
「それでも」
美咲が言う。
「ここで過ごしたことは、なくならないよ」
誰も否定しなかった。
湊が写真を見つめる。
昔の三人。
今の五人。
違う時代。
違う人たち。
でも。
同じように。
この町で笑っている。
* * *
帰り道。
五人は並んで歩いていた。
冬の風。
冷たい空気。
白い息。
それでも。
少しだけ暖かく感じた。
蓮が言う。
「なあ」
「何?」
樹が振り返る。
「俺たちってさ」
「うん」
「結局、何を見つけたんだろうな」
岳が答える。
「町じゃない?」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
美咲が言う。
「居場所とか」
樹が続ける。
「友達とか」
湊が言った。
「自分自身とか」
蓮は少し考えた。
そして。
「……青春?」
四人が笑った。
「何それ」
「最初からそれ言ってたじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
笑い声が重なる。
空を見上げる。
冬の空。
まだ春ではない。
けれど。
遠くの木の枝に。
小さな芽が膨らんでいた。
誰にも気づかれないほど、小さな芽。
それでも。
確かに。
そこにあった。
――冬の町に、春の気配。
それは季節のことだけではなかった。
五人の中にも。
新しい季節が、静かに始まろうとしていた。




