第十八話 壊れた家に、もう一度灯りを。
十一月の終わり。
朝の空気は、もう完全に冬だった。
校門の脇に立つ木々は葉を落とし、風が吹くたび、乾いた葉が校庭を転がっていく。
蓮は教室の窓から外を眺めていた。
「寒そう」
隣で美咲が言う。
「外?」
「うん」
「じゃあ、出なきゃいいじゃん」
「蓮は?」
「俺も出ない」
「じゃあ、二人とも冬眠だね」
「それ、いいな」
蓮が笑う。
美咲も笑った。
以前なら、もっと簡単に笑えていた。
でも今は。
笑ったあとに、少しだけ考える。
――この笑顔は、本物だろうか。
そんなことを考えるようになった。
けれど。
今日の笑顔は、少しだけ違った。
無理をしなくても笑えた。
* * *
放課後。
旧音楽室。
蓮が扉を開ける。
「……うわ」
部屋の中には、古い楽器や資料が積み重なっていた。
夏の頃より、ずっと狭く感じる。
「これ、こんなに物あったっけ?」
後ろから樹が入ってきた。
「五人になったからじゃない?」
「人数のせいにするなよ」
岳が続いて入る。
「物が増えたんだよ」
「岳、そういうところだぞ」
「何が?」
「そういうところ」
岳は意味が分からないという顔をした。
美咲も入ってくる。
最後に。
湊。
五人が揃った。
蓮は部屋を見回した。
「……なんか」
「うん?」
「狭くなったな」
樹が笑った。
「五人いるからだろ」
「前は三人だったもんな」
その言葉で。
一瞬だけ。
部屋が静かになった。
三人。
蓮。
樹。
岳。
かつての「三匹」。
その頃のことを思い出す。
でも。
岳が言った。
「……片付けようか」
蓮が顔を上げる。
「え?」
「このままだと何もできない」
「確かに」
美咲が袖をまくる。
「じゃあ、やろう」
湊も無言で古い机を動かした。
「おい、湊」
「何?」
「意外と力あるんだな」
「蓮が弱いだけ」
「ひどい」
五人が笑った。
* * *
掃除は思った以上に大変だった。
古い楽譜。
壊れた譜面台。
使われなくなった教科書。
何年も前の掲示物。
「これ、いつの?」
美咲が古いプリントを拾う。
「平成……」
岳が日付を見る。
「かなり前」
「すご」
樹が言った。
「この学校、物捨てなさすぎだろ」
「だから、僕たちの秘密基地ができた」
岳が言う。
「なるほど」
蓮が頷く。
「じゃあ、物を捨てない学校に感謝だな」
「そういう問題じゃない」
岳が呆れる。
そんなやり取りをしながら。
五人は少しずつ部屋を片付けていった。
机を動かす。
窓を拭く。
床を掃く。
壁の写真を整理する。
そして。
最後に残ったのは。
一枚の古い写真だった。
「これ……」
湊が手に取った。
昔の中学生三人。
肩を組んで笑っている。
以前、三人が見つけた写真だった。
蓮がその写真を見る。
「最初は、俺たち三人だったんだよな」
「うん」
樹が頷く。
美咲が写真の裏を見る。
「何か書いてある?」
湊が裏返す。
古い文字。
そこには。
家は、一人で建てるものじゃない。
と書かれていた。
五人が黙った。
「……これ」
岳が言う。
「今の俺たちみたいだな」
蓮が笑った。
「確かに」
「最初は三人だった」
樹が続ける。
「でも、三人だけじゃなかった」
美咲が言う。
「私たちが入って」
湊も。
「俺も入った」
蓮は写真を見る。
「……家って」
少し考えて。
「材料だけじゃないんだな」
誰も答えない。
でも。
誰も否定しなかった。
* * *
その日の夜。
蓮は家に帰った。
「ただいま」
「おかえり」
母の由美が台所から顔を出す。
「今日は遅かったね」
「ちょっと掃除してた」
「学校で?」
「うん」
「珍しい」
蓮は冷蔵庫を開けながら言った。
「友達と」
由美が少し笑う。
「友達?」
「うん」
「最近、学校の話しなかったから」
蓮の手が止まる。
「……そうだっけ」
「そうだよ」
由美は笑っている。
「でも今日は話したね」
「うん」
蓮は少し考えた。
「……母さん」
「何?」
「友達ってさ」
「うん」
「ずっと一緒にいないと、友達じゃないのかな」
由美は少し考えてから言った。
「そんなことないんじゃない?」
「じゃあ、離れても?」
「戻ってこられるなら、いいんじゃない?」
「戻ってくる?」
「だって家もそうでしょ」
「家?」
「出かけても、帰ってくる場所があるから家なんじゃない?」
蓮は黙った。
そして。
「……そっか」
小さく笑った。
* * *
同じ頃。
樹は母の真紀と夕食を食べていた。
「今日、部活どうだった?」
「普通」
「足は?」
「大丈夫」
真紀は樹を見る。
「本当に?」
「……うん」
「無理してない?」
樹は少し黙った。
「前は」
真紀が言った。
「頑張ってるなら、それでいいと思ってた」
「今は?」
「今もそう」
真紀は笑う。
「でもね」
「うん」
「頑張ることと、無理することは違うよ」
樹は箸を止めた。
「毎日ちゃんとやってるじゃない」
「……」
「結果が出ない日があっても、それはなくならないよ」
樹は俯いた。
「俺……」
「うん?」
「友達とも、サッカーとも、ちゃんと向き合いたい」
「じゃあ、そうすればいい」
「両方?」
「両方」
真紀は笑った。
「全部完璧にする必要なんてないでしょ」
樹も笑った。
「母さん、たまにいいこと言うな」
「たまに?」
「……毎日」
「遅い」
樹の家に笑い声が響いた。
* * *
岳の家。
夕食のあと。
岳は父親と向かい合っていた。
「進路希望調査」
父親が言う。
「そろそろ決めないとな」
「うん」
「成績を見る限り、選択肢は多い」
「……父さん」
「何だ?」
岳は少し迷った。
「僕」
「うん」
「自分で決めたい」
父親の手が止まった。
「何を?」
「進路」
「もちろん、お前が決めることだ」
「でも」
岳は続けた。
「成績がいいからここ」
「将来困らないからここ」
「そういう理由だけで決めたくない」
父親は黙っている。
「僕が何をしたいのか」
「それを考えてから決めたい」
長い沈黙。
岳は少し怖かった。
否定されると思っていた。
けれど。
「……そうか」
父親はそれだけ言った。
「考えてみなさい」
岳は顔を上げた。
「うん」
それだけ。
でも。
岳にとっては大きな一歩だった。
* * *
翌日。
放課後。
旧音楽室。
蓮たちは、壁に写真を貼っていた。
「これ、ここでいい?」
美咲が聞く。
「いいんじゃない?」
樹が答える。
岳が写真の位置を少し直す。
「ちょっと右」
「岳、細かい」
「曲がってるから」
「分かんないって」
「僕には分かる」
湊が笑う。
「何?」
「いや」
「笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑っただろ」
五人が笑う。
壁には。
町の古い写真。
地域交流発表会の写真。
夏祭りの写真。
そして。
新しい一枚。
五人で撮った写真。
美咲が言った。
「これ、タイトルつけようよ」
「何?」
「五人で見つけた町」
蓮が首を振る。
「違う」
「じゃあ?」
蓮は黒板にチョークを走らせた。
五人で見つけた町。
五人で守りたい場所。
五人がその文字を見る。
「……いいね」
樹が言った。
岳も頷く。
「前よりいい」
湊は少しだけ笑った。
* * *
片付けが終わった。
旧音楽室は、以前とは少し違っていた。
物は減った。
写真は増えた。
机の位置も変わった。
そして。
五つの椅子が並んでいる。
蓮が座る。
「来週も来ようぜ」
樹が言う。
「部活がある日は遅れるかも」
「俺も塾の日は無理」
岳が続ける。
美咲が笑う。
「じゃあ、来られる人だけ」
湊が頷く。
「それでいいと思う」
「なんだよ」
蓮が笑う。
「前より適当じゃん」
岳が言う。
「その方が続く」
「……なるほど」
蓮は少し考えて。
「じゃあ、約束な」
「約束」
樹が答える。
美咲も。
岳も。
湊も。
それぞれ頷いた。
* * *
帰る時間。
五人は学校を出た。
夜の校舎。
冬の空気。
吐く息が白い。
校門を出てしばらくして。
蓮が振り返った。
「あれ?」
「どうした?」
樹が振り返る。
「電気」
旧音楽室の窓だけが。
まだ明るかった。
「消し忘れた?」
岳が言う。
湊が振り返る。
「俺、消してない」
「じゃあ誰?」
蓮が聞く。
誰も答えない。
美咲が笑った。
「……いいじゃん」
「え?」
「今日くらい」
五人はしばらく、その灯りを見つめた。
そして。
「帰ろう」
美咲が言った。
「うん」
五人は歩き出した。
校舎の中。
誰もいない旧音楽室。
五つの椅子。
五人の写真。
黒板に残された言葉。
五人で見つけた町。
五人で守りたい場所。
そして。
窓から漏れる小さな灯り。
それは。
かつて壊れた「家」が。
もう一度、灯った証だった。
わらも。
木も。
レンガも。
どれも完璧ではない。
それでも。
誰かがそばにいて。
帰ってくる場所があるなら。
家は、もう一度建てられる。
冬の夜。
旧音楽室の灯りは。
静かに五人を待っていた。




