第十七話 冬の夜、狼の正体を知る。
十一月。
朝、校門をくぐった蓮は、吐いた息が白くなるのを見て、
「うわ、寒っ」
と呟いた。
ついこの間まで、少し冷えるくらいだった。
いつの間にか、冬の匂いがしている。
「おはよう、蓮」
教室に入ると、三浦が声をかけてきた。
「おはよ」
「今日、寒くね?」
「寒い。死ぬ」
「大げさ」
「いや、俺、冬に弱いから」
二人で笑う。
いつもの蓮。
明るくて。
くだらないことを言って。
誰とでも話せる。
以前と何も変わらない。
――少なくとも、周りからはそう見えていた。
「最近、蓮って元気すぎない?」
美咲が言った。
「そう?」
「うん」
「冬だからテンション上げてんの」
「意味分かんない」
美咲は笑った。
蓮も笑った。
けれど。
美咲には分かっていた。
その笑顔は、少しだけ無理をしている。
* * *
樹は朝からグラウンドにいた。
「木村!」
「はい!」
「もう一本!」
「はい!」
ボールを追う。
走る。
蹴る。
止まる。
また走る。
大会が近づいている。
樹は誰よりも練習していた。
けれど。
「木村」
神谷が声をかける。
「はい」
「足、大丈夫か?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
神谷は樹を見る。
「無理してないか?」
「してません」
樹は笑った。
でも。
神谷は何も言わなかった。
ただ、
「そうか」
とだけ答えた。
樹はまた走り始める。
走っている間は。
余計なことを考えなくて済む。
蓮のことも。
岳のことも。
美咲のことも。
そして。
自分が寂しいということも。
全部、忘れられる。
* * *
岳は図書室にいた。
机の上には参考書。
数学の問題集。
進路希望調査票。
スマートフォン。
岳は問題を解く。
途中で手を止める。
スマートフォンを見る。
クラスのグループに、新しいメッセージが届いていた。
『蓮と樹って、まだ仲直りしてないの?』
その下に、
『岳もじゃね?』
『三匹、解散?』
『黒崎も抜けたよね』
岳は画面を閉じた。
「……くだらない」
そう呟く。
けれど。
気にならないわけではない。
その日の昼休み。
教室では、その話題が普通の会話のように扱われていた。
「ねえ、三匹って本当に喧嘩したの?」
誰かが蓮に聞く。
蓮は笑う。
「してないって」
「でもSNSに――」
「SNSが全部本当だと思う?」
「思わないけど」
「じゃあ信じんなよ」
蓮は笑った。
周囲も笑う。
その場はそれで終わった。
けれど。
蓮が席に戻ったあと。
その笑顔が消えた。
* * *
放課後。
高橋玲奈はスマートフォンを見ていた。
クラスのグループ。
そこには、以前から旧音楽室の話が流れていた。
玲奈は何気なく投稿する。
『そういえば、三匹って最近バラバラじゃない?』
すぐに返信が来る。
『三匹って誰?』
『蓮、樹、岳じゃね?』
『あー』
『最近、五人だったよね』
『黒崎と白石もいた』
玲奈は笑った。
『なんかドラマみたい(笑)』
それだけだった。
本当に。
それだけのつもりだった。
けれど。
誰かが、その画面をスクリーンショットした。
別のグループへ送った。
そこに誰かが文字を付けた。
「三匹、解散説」
それがまた別のグループへ。
そして。
学校中に広がっていった。
* * *
「ねえ、蓮」
翌朝。
女子の一人が話しかけてきた。
「樹と喧嘩したって本当?」
「してない」
「でも――」
「してないって」
笑う。
「ただ、部活が忙しいだけ」
「岳とは?」
「岳も勉強」
「じゃあ三人とも?」
「そうそう」
蓮は笑った。
「俺たち、忙しいんだよ」
「ふーん」
女子が去っていく。
蓮は窓の外を見る。
グラウンドに樹がいる。
図書室の窓には岳の姿。
近くにいる。
なのに。
遠い。
* * *
樹のところにも噂は届いた。
「木村、最近蓮と仲悪いの?」
部員に聞かれる。
「別に」
「でもSNSで――」
「SNSなんて知らないよ」
樹はボールを拾う。
「練習しようぜ」
そう言って。
話を終わらせた。
けれど。
心の中では思っていた。
――蓮。
――まだ怒ってるかな。
* * *
岳も同じだった。
図書室で本を読んでいると、後ろから声がした。
「石田って、友達と喧嘩したんだって?」
「……」
「だから一人なの?」
岳は振り返らなかった。
ページをめくる。
「そういうの、本人に聞けば?」
静かに答える。
相手は笑った。
「怖っ」
遠ざかっていく。
岳は本を見る。
文字が頭に入らない。
「……」
一人でいることには慣れている。
ずっとそうだった。
なのに。
今は。
一人でいることが、以前よりずっと寒く感じた。
* * *
昼休み。
美咲は玲奈のところへ行った。
「玲奈」
「何?」
「これ」
美咲がスマートフォンを見せる。
そこには、
「三匹、解散説」
という投稿。
玲奈の顔から笑顔が消えた。
「……これ」
「玲奈が投稿したんだよね?」
「うん」
「どうして?」
「どうしてって……」
玲奈は困ったように笑った。
「別に悪い意味じゃないよ」
「分かってる」
「ただ、最近みんなバラバラだから」
「うん」
「面白いかなって思って……」
美咲は黙った。
「私、こんなことになるなんて思ってなかった」
「……」
「誰かを傷つけようなんて、思ってない」
「分かってるよ」
美咲はそう言った。
玲奈は俯いた。
「ごめん」
その声は小さかった。
* * *
その日の放課後。
美咲は一人で旧音楽室へ向かった。
扉を開ける。
「……」
誰もいない。
五つの椅子。
五人分の机。
壁に貼られた町の地図。
夏祭りの日に撮った写真。
花火を見上げる五人。
美咲は写真を手に取った。
「……戻れないのかな」
そのとき。
「何が?」
後ろから声がした。
「……蓮」
「美咲も来てたんだ」
「うん」
蓮は部屋に入った。
「懐かしいな」
「まだ三ヶ月くらいしか経ってないよ」
「そうだっけ」
二人で笑う。
しばらくして。
樹が入ってきた。
「……あ」
「樹」
「美咲から呼ばれた」
その後。
岳も入ってきた。
「……久しぶり」
「岳」
そして。
最後に。
湊が扉のところに立った。
「……何かあった?」
五人が揃った。
久しぶりに。
本当に久しぶりに。
五人が同じ場所にいる。
けれど。
誰も何も言わない。
以前なら。
蓮がくだらないことを言って。
樹が突っ込んで。
岳が呆れて。
美咲が笑って。
湊が少し離れて見ていた。
今は。
五人とも黙っている。
その空気を破ったのは。
「……ごめん」
玲奈だった。
扉のところに立っていた。
「玲奈?」
「私が投稿した」
蓮が黙る。
「三匹が解散したってやつ」
「……」
「本当にごめん」
樹が聞く。
「玲奈が作ったの?」
「違う」
玲奈は首を振る。
「最初の投稿は私。でも、その画像を作ったのは私じゃない」
「じゃあ誰?」
「分からない」
岳がスマートフォンを受け取った。
「ちょっと見せて」
画面を確認する。
しばらく操作する。
「……これ」
「何?」
「最初の投稿は玲奈」
岳が言う。
「でも、そのあと別の人が引用してる」
スクロールする。
「それを別の人がスクリーンショット」
さらにスクロール。
「別のグループに送られてる」
そして。
「そこに誰かが『三匹、解散説』って文字を付けてる」
蓮が言った。
「じゃあ……」
岳は画面から目を離さない。
「一人じゃない」
「え?」
「誰か一人が噂を作ったんじゃない」
岳は全員を見る。
「みんなが少しずつ作ったんだ」
沈黙。
「誰かが面白がった」
「誰かが送った」
「誰かが想像した」
「誰かが信じた」
「それが繰り返されただけ」
蓮は黙っていた。
樹も。
美咲も。
湊も。
玲奈も。
「……でも」
蓮が言う。
「それだけじゃないよな」
岳を見る。
「俺たちが離れたのも」
「うん」
岳は答えた。
「SNSだけが原因じゃない」
* * *
蓮は椅子に座った。
「俺さ」
小さく言う。
「嫌われるの、怖かったんだと思う」
誰も口を挟まない。
「樹が部活優先したとき」
「俺よりサッカーが大事なんだって思った」
樹が俯く。
「岳が勉強優先したとき」
「俺たちなんてどうでもいいんだって思った」
岳は何も言わない。
「でもさ」
蓮は笑った。
「勝手に決めつけてただけなんだよな」
樹が顔を上げる。
「俺も……」
樹が言う。
「全部、自分が頑張れば何とかなると思ってた」
樹は拳を見る。
「サッカーも、友達も」
「でも、頑張ってもどうにもならないことがあった」
岳が言った。
「僕は失敗したくなかった」
岳が続ける。
「だから壁を作った」
そして。
「その壁の中に、自分から閉じこもった」
美咲は静かに聞いていた。
「私も」
美咲が言う。
「三人を何とかしなきゃって思ってた」
「でも」
少し笑う。
「私だって、どうしていいか分からなかった」
湊は黙っている。
蓮が見る。
「湊は?」
「俺?」
「うん」
湊はしばらく考えた。
「……一人の方が楽だった」
「……」
「誰かといると、離れたときに寂しいから」
蓮が何も言えなくなる。
「だから最初から、一人ならいいと思ってた」
湊は夏祭りの写真を見る。
「でも」
ほんの少し笑う。
「五人でいる方が、楽しかった」
静かな部屋に。
その言葉が落ちた。
* * *
岳が窓の外を見る。
「じゃあ」
蓮が聞く。
「狼って、誰なんだ?」
岳は答えない。
しばらくして。
「……誰でもない」
「え?」
「いや」
岳は首を振る。
「誰でもある」
「どういうこと?」
「SNSも」
「噂も」
「周りの視線も」
「進路も」
「部活も」
「恋愛も」
岳は一人ずつを見る。
「それに」
「自分自身の怖さも」
そして言った。
「全部が重なったんだと思う」
蓮は黙っている。
「だから」
岳が続ける。
「狼は一人じゃない」
湊が窓の外を見る。
冬の風が吹いている。
「……見えない風」
湊が呟いた。
「何?」
「狼じゃなくて」
湊は窓を見た。
「風なんじゃない?」
五人が黙る。
誰かが悪いわけではない。
けれど。
確かに何かが吹いていた。
人の心を揺らす風。
小さな不安を膨らませる風。
言葉を遠くまで運ぶ風。
そして。
気づかないうちに。
家の壁を壊していく風。
* * *
その夜。
五人は旧音楽室に残った。
外はもう真っ暗だった。
窓ガラスに、自分たちの姿が映っている。
誰も以前のようには笑っていない。
でも。
誰も帰ろうとはしなかった。
「寒いな」
蓮が言う。
「冬だから」
樹が答える。
「当たり前」
岳が続ける。
「それ、俺が言おうとした」
「知らない」
樹が笑う。
蓮も笑った。
ほんの少しだけ。
昔の空気が戻った。
美咲も笑う。
湊は黙っていた。
でも。
口元がほんの少しだけ緩んでいた。
「ねえ」
美咲が言う。
「また、ここ使わない?」
蓮が黒板を見る。
「……いいな」
樹も頷く。
「うん」
岳は少し考えて。
「前と同じにはならないと思う」
「それでいいんじゃない?」
美咲が笑った。
「前と同じじゃなくても」
湊が椅子に座る。
「新しい五人になればいい」
誰も反対しなかった。
* * *
学校を出る。
夜の道。
吐く息が白い。
五人は歩いていた。
少しだけ距離を空けながら。
まだ完全には戻っていない。
蓮が前を歩く。
樹がその隣。
少し後ろに美咲。
岳。
そして湊。
蓮がふと空を見上げた。
「なあ」
「何?」
樹が振り返る。
「狼ってさ」
「狼?」
「どんな顔してると思う?」
岳が考える。
「たぶん」
少し間を置いて。
「誰の顔にもなるんじゃない?」
蓮は黙った。
湊が言う。
「……自分の顔かもな」
冬の風が吹いた。
五人の髪を揺らす。
でも。
今度は誰も離れなかった。
蓮が歩く。
「寒いから早く帰ろうぜ」
「蓮が一番遅い」
樹が笑う。
「待ってよ」
「早く」
「おい!」
美咲が笑う。
岳も。
湊も。
ほんの少しだけ笑った。
その夜。
三匹は初めて知った。
家を壊した狼は、
森のどこかにいる怪物ではなかった。
人の心に入り込み。
誰も気づかないうちに吹き抜けていく。
不安。
噂。
期待。
嫉妬。
恐れ。
そして。
自分自身の弱さ。
それらを乗せて吹き抜ける――
見えない風だった。




