第十六話 三匹は、別々の道を歩いた。
十月の終わり。
朝の空気は、すっかり冷たくなっていた。
校庭の木々も、少しずつ色を変えている。
風が吹く。
葉が一枚、地面に落ちる。
そしてまた一枚。
旧音楽室の窓から見える景色は、夏の頃とはまるで違っていた。
部屋の中には、五つの椅子がある。
五人で使っていた机も、そのままだ。
黒板には、まだ名前が残っている。
藤原蓮。
木村樹。
石田岳。
白石美咲。
黒崎湊。
けれど。
最近、この部屋に五人が揃うことはなかった。
蓮は、その五つの名前を見つめていた。
「……五人って、多いな」
誰もいない部屋で呟く。
返事はない。
蓮は一つ目の椅子に座った。
その隣には、樹の椅子。
向かいには岳。
少し離れたところに美咲。
そして窓際に湊。
いつの間にか。
それぞれの「いつもの場所」まで決まっていた。
蓮は苦笑する。
「戻ってこいよ」
もちろん。
返事はない。
* * *
昼休み。
「樹、今日の放課後どうする?」
蓮が聞いた。
「部活」
「大会近いもんな」
「ああ」
「じゃあ、終わったら旧音楽室来いよ」
樹は少し迷った。
「……たぶん無理」
「なんで?」
「練習が長くなる」
「少しくらいなら」
「蓮」
樹が言った。
「今は、サッカーに集中したい」
「……そっか」
蓮は笑った。
「じゃあ、また今度な」
「うん」
樹はそう答えた。
でも。
二人とも分かっていた。
その「今度」が。
いつになるのか分からないことを。
* * *
放課後。
蓮は岳の席へ向かった。
「岳」
「何?」
「今日、旧音楽室来る?」
「行かない」
即答だった。
「また?」
「やることがある」
「勉強?」
「うん」
「ちょっとくらい――」
「蓮」
岳が顔を上げる。
「僕は今、勉強しないといけないんだ」
「……」
「進路のこともあるし」
「俺たちより?」
その言葉に。
岳の表情が変わった。
「そういう言い方するなよ」
「だって」
「僕だって好きでこうしてるわけじゃない」
「じゃあ、なんで来ないんだよ」
「……」
「俺たち、何なんだよ」
岳はしばらく黙った。
「友達だよ」
「だったら――」
「友達だからって、ずっと一緒にいなきゃいけないの?」
蓮は言葉を失った。
岳は静かに続ける。
「僕たちはもう、小学生じゃない」
「……」
「それぞれ、自分のことを考えないといけない時期なんだよ」
「そんなの……」
蓮は拳を握った。
「分かってるよ」
でも。
声が震えた。
「分かってるけど……」
その先が言えなかった。
岳も。
それ以上は言わなかった。
* * *
その日の放課後。
蓮は旧音楽室へ向かった。
誰もいない。
机の上に置いた資料。
壁に貼った写真。
夏休みに五人で作った町の地図。
全部、そのままだった。
蓮は黒板の前に立った。
「……なんだよ」
誰もいない部屋に向かって言う。
「みんな、勝手すぎるだろ」
笑おうとした。
「俺だけ……」
声が止まる。
「俺だけ、戻りたいみたいじゃん」
窓の外で風が吹いた。
カーテンが揺れる。
蓮は椅子に座った。
しばらくして。
スマートフォンを取り出した。
樹にメッセージを送る。
『今日、来ない?』
既読はつかない。
岳にも送る。
『少しだけでも来いよ』
既読。
返事はない。
そして。
湊の名前を見つめた。
送ろうとして。
やめた。
「……湊は、もっと来ないよな」
蓮はスマートフォンを伏せた。
* * *
その頃。
グラウンドでは、樹が走っていた。
「木村!」
「はい!」
「もう一本!」
「はい!」
樹は走る。
足が痛む。
息が苦しい。
それでも走る。
前を走る神谷直人の背中を追う。
「先輩!」
「ん?」
「俺……」
樹は息を整えながら言った。
「もっとやらないと、追いつけないですよね」
神谷は少し黙った。
「誰に?」
「……」
「俺に?」
樹は答えなかった。
「それとも、自分に?」
「……分かりません」
神谷は笑った。
「なら、一回止まれ」
「でも――」
「樹」
神谷の声は優しかった。
「走ることだけが、前に進むことじゃないぞ」
樹は立ち止まった。
夕暮れのグラウンド。
ゴールの向こうに、赤い空が広がっている。
「俺……」
樹は呟いた。
「友達のことも、大事なんです」
「うん」
「でも、サッカーも大事で」
「うん」
「どっちか選ばなきゃいけないんですかね」
神谷は首を振った。
「本当は、選ばなくていいのかもしれない」
「……」
「でも、人間って全部を同じようには守れないからな」
樹は空を見た。
胸の奥が痛かった。
* * *
その夜。
岳は机に向かっていた。
数学の問題。
英語の単語。
進路希望調査票。
父親の声が、頭の中に残っている。
「今のうちに頑張っておけ」
岳は問題を解く。
一問。
また一問。
けれど。
集中できない。
机の隅に置いたスマートフォン。
画面には、蓮からのメッセージ。
『少しだけでも来いよ』
岳は画面を見つめた。
返信する。
『ごめん』
そこまで打った。
そのあと。
『今は無理』
と続ける。
送信。
岳はスマートフォンを伏せた。
そして。
机の引き出しを開ける。
夏祭りの写真。
五人が笑っている。
岳は写真を見つめた。
「……」
写真の中の自分は。
今よりずっと楽しそうだった。
岳は写真を閉じた。
「勉強しないと」
自分に言い聞かせる。
「今は、これでいい」
* * *
翌日。
美咲は三人をそれぞれ見ていた。
蓮は、教室でいつも通り笑っている。
樹は、休み時間にもサッカーの話をしている。
岳は、一人で本を読んでいる。
三人とも。
以前と同じように見える。
でも。
美咲には分かった。
以前とは違う。
「……どうしたらいいんだろう」
美咲は呟いた。
その声を聞いたのは、湊だった。
「何が?」
「湊……」
黒崎湊が立っていた。
「三人のこと?」
「……うん」
湊は窓の外を見る。
「もう、戻れないんじゃない?」
「そんなこと言わないでよ」
「別に悲観してるわけじゃない」
「じゃあ何?」
「人って、離れることもあるから」
「……」
「離れたら、終わりってわけでもない」
美咲は湊を見る。
「湊は……寂しくないの?」
「寂しいよ」
意外な答えだった。
美咲が少し驚く。
「でも」
湊は言った。
「寂しいからって、追いかけ続けるのも違うと思う」
「……」
「俺は、一人に慣れてるから」
そう言って。
湊は教室を出ていった。
美咲はその背中を見つめた。
* * *
放課後。
蓮は三人を呼び出した。
旧音楽室。
来たのは。
樹。
岳。
そして美咲。
湊はいない。
「……始めよう」
蓮が言った。
「何を?」
岳が聞く。
「話」
蓮は三人を見る。
「俺たち、最近おかしいだろ」
誰も答えない。
「このままじゃ嫌なんだ」
樹が口を開く。
「蓮」
「何?」
「俺は今、サッカーを頑張りたい」
「分かってる」
「だったら――」
「分かってるけど!」
蓮の声が響いた。
三人が黙る。
「俺だって分かってるよ!」
蓮は拳を握った。
「樹が頑張ってるのも」
「……」
「岳が勉強しなきゃいけないのも」
「……」
「でもさ!」
蓮の声が震える。
「俺たちって、そんな簡単に別々になれるくらいの関係だったのかよ!」
樹が立ち上がった。
「簡単じゃない!」
「じゃあ何だよ!」
「俺だって、離れたいわけじゃない!」
「だったら来いよ!」
「無理なんだよ!」
「何で!」
「俺にも、俺のやることがあるからだよ!」
樹の声も大きくなる。
「サッカーも、俺にとって大事なんだ!」
「俺たちより?」
「そういうことじゃない!」
「でも、今そうなってるだろ!」
「蓮!」
樹が叫ぶ。
「俺だって、お前らのこと大事だよ!」
静寂。
蓮は何も言えなかった。
岳が静かに口を開く。
「僕も同じだよ」
「……岳」
「でも、僕は自分のことを考えたい」
「何で?」
「怖いから」
岳が言った。
蓮が目を見開く。
「何が?」
「失敗するのが」
岳は続けた。
「進路も、勉強も、人間関係も」
「……」
「全部、失敗したくない」
岳は一度だけ息を吐いた。
「だから、今は自分のことで精一杯なんだ」
蓮は俯いた。
「……じゃあ」
小さく言う。
「俺たちは?」
樹も。
岳も。
答えない。
その沈黙が。
何より苦しかった。
「……もういい」
蓮が立ち上がる。
「好きにしろよ」
「蓮」
「俺だって好きにする」
蓮は扉を開けた。
「もう、俺からは誘わない」
そう言って。
旧音楽室を出ていった。
* * *
樹はしばらく動かなかった。
「……俺、何か間違ったかな」
美咲は答えられない。
岳も俯いている。
「岳」
樹が言う。
「……何?」
「俺たち、どうしたらいいんだろうな」
「分からない」
「だよな」
樹は苦笑した。
そして。
「俺、部活行く」
岳が頷く。
「うん」
「じゃあ」
樹が出ていく。
岳も立ち上がる。
「僕も帰る」
「岳」
美咲が呼び止める。
岳は振り返る。
「……何?」
「本当に、それでいいの?」
岳は少しだけ考えた。
「分からない」
そして。
「でも、今はこれしかできない」
岳も部屋を出ていった。
美咲だけが残った。
五つの椅子。
三人が座っていた場所。
そして。
空っぽの椅子。
「……どうして」
美咲は呟いた。
「こんなに好きなのに」
誰もいない部屋に。
その声だけが残った。
* * *
夕方。
蓮は一人で校門を出た。
スマートフォンを見る。
誰からもメッセージはない。
「……」
笑ってみる。
「別に」
誰も見ていない。
だから。
笑う必要なんてない。
蓮はそのまま歩いた。
教室で誰かに会えば笑う。
先生に会えば挨拶する。
いつもの蓮に戻る。
そうすれば。
きっと何とかなる。
でも。
胸の奥は。
空っぽだった。
* * *
樹はグラウンドへ戻った。
ボールを蹴る。
走る。
汗を流す。
いつものように。
でも。
パスを出す瞬間。
一瞬だけ。
蓮の顔が浮かんだ。
「……くそ」
樹は首を振った。
今はサッカー。
そう決めた。
だから。
前を見る。
* * *
岳は図書室にいた。
参考書を開く。
問題を解く。
静かだ。
誰にも邪魔されない。
自分が選んだ場所。
なのに。
ページをめくる手が止まった。
窓の外を見る。
夕暮れ。
校庭を歩く生徒たち。
その中に。
蓮はいない。
樹もいない。
岳は小さく息を吐いた。
「……これでいい」
そう呟いた。
けれど。
自分でも分かっていた。
その声は。
誰かに言うためではなく。
自分自身に言い聞かせるためのものだった。
* * *
夜。
旧音楽室。
湊が一人で入ってきた。
電気をつける。
静かな部屋。
五つの椅子。
五人で作った町の地図。
夏祭りの写真。
湊は黒板の前に立った。
そこには、
蓮。
樹。
岳。
美咲。
湊。
五人の名前。
湊はしばらく見つめていた。
「……三人とも」
小さく呟く。
「馬鹿だな」
けれど。
その声には。
ほんの少しだけ笑いが混じっていた。
湊は机の上に置かれた夏祭りの写真を手に取る。
五人が並んでいる。
花火を見上げている。
あの日。
蓮が言った。
――来年も、またみんなで来ような。
樹が、
――当たり前だろ。
美咲が笑って。
岳が、
――予定が合えば。
そして。
自分は。
――たぶん。
そう答えた。
「……来年か」
湊は写真を見つめる。
少しだけ。
寂しそうに笑った。
「まだ、来年じゃないけどな」
写真を机に置く。
そして。
旧音楽室の窓を閉めた。
* * *
翌朝。
蓮は教室にいた。
いつものように笑っていた。
「おはよう!」
「おはよー!」
誰かが笑う。
蓮も笑う。
でも。
その笑顔は。
少しだけ薄かった。
同じ頃。
樹は朝のグラウンドを走っていた。
一人で。
何度も何度も。
そして。
岳は図書室で参考書を開いていた。
一人で。
三人は。
それぞれ違う場所にいた。
蓮は教室へ。
樹はグラウンドへ。
岳は図書室へ。
かつて同じ場所にいた三人は。
いつの間にか。
三つの道を歩いていた。
けれど。
不思議なことに。
三人が見上げた空は。
同じだった。
秋の高い空。
薄い雲が流れている。
蓮が窓から見上げる。
樹がグラウンドから見上げる。
岳が図書室から見上げる。
三人は知らない。
今。
同じ空を見ていることを。
そして。
この別れが。
本当の終わりではないことも。
まだ。
誰も知らなかった。




