第十四話 木の家にも、ひびが入る。
九月の終わり。
朝の空気が、少しずつ冷たくなっていた。
教室の窓から見える木々は、まだ緑色を残している。
けれど。
風が吹くたびに、葉が一枚、また一枚と落ちていった。
「……今日も来ないのかな」
昼休み。
蓮が窓の外を見ながら呟いた。
「誰が?」
美咲が聞く。
「湊」
「昨日も来なかったね」
樹が答えた。
岳は何も言わず、本を読んでいた。
旧音楽室の騒動から一週間。
湊は、あの日以来、旧音楽室に来ていなかった。
教室では普通にしている。
授業も受ける。
先生に当てられれば答える。
休み時間には、一人で本を読んでいる。
まるで。
何もなかったかのように。
けれど。
蓮には分かっていた。
あれは、何もなかった顔だ。
「今日、部活あるだろ?」
蓮が樹を見る。
「うん」
「終わったら、湊のところ行こうぜ」
「……そうだな」
樹は頷いた。
その顔には、少し疲れがあった。
「樹?」
「何?」
「大丈夫?」
「大丈夫」
即答だった。
蓮は何も言わなかった。
でも。
その「大丈夫」が。
最近の樹は少し増えている気がした。
* * *
放課後。
サッカー部の練習。
「木村!」
「はい!」
神谷直人の声が響く。
「もう一回!」
「はい!」
樹はボールを追った。
走る。
蹴る。
また走る。
足が重い。
それでも止まらない。
「木村、昨日より動き悪いぞ」
監督の声。
「すみません!」
「謝る前に動け!」
「はい!」
樹は歯を食いしばった。
大会が近い。
三年生にとって最後の大会。
そして。
樹にとっても、大きな意味を持つ大会だった。
神谷先輩と一緒に戦える最後の試合。
だから。
負けたくない。
もっと練習しなければ。
もっと走らなければ。
もっと上手くならなければ。
努力すれば。
きっと。
――そう思っていた。
「樹」
練習が終わったあと。
神谷が声をかけた。
「はい」
「少し話せるか?」
「はい」
二人でグラウンドの端へ移動する。
「最近、無理してないか?」
「してません」
「嘘だな」
「……」
「俺も昔、同じ顔してた」
樹は黙った。
「努力すれば何とかなるって思って、できないことまで無理やりやろうとしてた」
「先輩も?」
「もちろん」
神谷は笑う。
「でもな」
空を見上げる。
「努力しても、どうにもならないことはある」
樹の胸に、その言葉が刺さった。
「……それじゃ、努力する意味ないじゃないですか」
「そんなことは言ってない」
「でも」
「努力は、結果を約束してくれない」
神谷は静かに言った。
「ただ、自分がどこまでやれるかは教えてくれる」
「……」
「それに」
神谷は樹の肩を軽く叩いた。
「一人で全部背負う必要もない」
樹は俯いた。
「俺……」
「ん?」
「最近、何を頑張ればいいのか分からなくなってきました」
初めてだった。
樹が弱音を吐いたのは。
神谷は何も言わなかった。
ただ。
「今日はもう帰れ」
それだけ言った。
* * *
その日の帰り道。
樹は一人で歩いていた。
スマートフォンが震える。
蓮からだった。
『今日、旧音楽室来る?』
樹は画面を見つめる。
少し迷って。
『部活で遅くなった』
と送った。
すぐに返信が来た。
『そっか。じゃあ明日な!』
樹は画面を閉じた。
その瞬間。
別の通知が届く。
クラスのグループだった。
『また旧音楽室で集まってるらしい』
『まだやってんの?』
『先生にバレたら終わりじゃね?』
樹は画面を見つめた。
誰かが送った写真。
旧音楽室の扉。
その前に立っている蓮の姿。
さらに。
『木村も毎日いるんでしょ?』
樹の指が止まる。
「……」
蓮たちといることが。
少しだけ怖くなった。
* * *
翌日。
体育の授業。
サッカーのミニゲームが行われた。
「木村!」
ボールが飛んでくる。
樹は走った。
追いつく。
蹴る。
しかし。
相手に奪われた。
「木村、集中!」
教師の声。
「はい!」
また走る。
今度こそ。
ボールを奪う。
パス。
シュート。
ゴール。
「ナイス!」
クラスから声が上がる。
樹は息を切らしながら笑った。
やっぱり。
努力すればできる。
そう思った。
でも。
次の瞬間。
足が止まった。
膝に痛みが走った。
「……っ」
樹は顔をしかめる。
「木村?」
先生が近づく。
「大丈夫です」
「本当に?」
「大丈夫です」
また。
その言葉だった。
* * *
放課後。
樹はグラウンドに立っていた。
「今日は休め」
監督が言う。
「でも……」
「足、痛いんだろ?」
「大丈夫です」
「木村」
監督の声が低くなる。
「大丈夫じゃない奴ほど、『大丈夫』って言うんだ」
樹は黙った。
「今日は帰れ」
「……はい」
グラウンドを出る。
悔しかった。
何もできない。
練習もできない。
大会まで時間がない。
それなのに。
休まなければならない。
樹は拳を握った。
「……努力しなきゃ」
誰もいない廊下で呟く。
「努力すれば……」
そこで言葉が止まった。
努力すれば。
本当に。
何とかなるのだろうか。
* * *
その日の夕方。
旧音楽室。
蓮、美咲、岳の三人がいた。
「樹、来ないね」
美咲が言う。
「部活だろ」
蓮が答える。
「でも、昨日も来てない」
「大会前だから仕方ないって」
蓮は笑った。
「終わったら、また普通に戻るよ」
岳が顔を上げる。
「……本当にそう思う?」
「え?」
「最近、樹は何か隠してる」
「隠してる?」
「僕にはそう見える」
蓮は黙った。
そのとき。
扉が開いた。
「……樹?」
三人が振り返る。
樹だった。
「お疲れ」
蓮が笑う。
「どうした?」
「ちょっと寄っただけ」
樹は部屋に入った。
けれど。
いつもの席には座らなかった。
「足、どうしたの?」
美咲が聞く。
「何でもない」
「でも――」
「本当に大丈夫」
蓮が笑う。
「また大丈夫って言ってる」
「うるさい」
「樹らしくないぞ」
「……」
樹の顔から笑顔が消えた。
「じゃあ、どうしろっていうんだよ」
「え?」
「何でもないって言ってるだろ」
部屋が静かになる。
樹は自分でも驚いたような顔をした。
「……ごめん」
「樹」
「今日は帰る」
「待てよ」
蓮が立ち上がる。
「話くらい――」
「今は無理」
樹は扉を開けた。
そして。
「俺、一人で大丈夫だから」
扉が閉まった。
* * *
残された三人。
蓮は動かなかった。
「……あいつ」
拳を握る。
「何なんだよ」
岳が静かに言った。
「樹は今、何かに追い込まれてる」
「分かってる」
「なら、無理に聞くべきじゃない」
「でも」
蓮は振り返った。
「友達だろ」
岳は答えなかった。
美咲が窓の外を見る。
夕焼けが赤く染まっている。
「……三人だったときは」
美咲が言った。
「何かあったら、すぐ話せたのにね」
蓮は黙った。
湊がいなくなった。
樹も少しずつ離れている。
そして。
自分も。
みんなを繋ぎ止めようとして。
空回りしている。
そのとき。
窓から風が吹き込んだ。
黒板に貼ってあった紙が一枚、剥がれる。
蓮が拾おうとする。
そこには。
夏休みに五人で書いた予定表があった。
八月――五人で行く。
その文字の上を。
鉛筆で引いた線が、途中で途切れていた。
「……」
蓮は何も言わず、紙を机に置いた。
* * *
翌朝。
樹は母親の真紀に呼び止められた。
「樹」
「何?」
「足、痛いんでしょ」
「……大丈夫」
「またそれ?」
樹が黙る。
真紀はため息をついた。
「お母さんはね」
樹を見る。
「樹が毎日頑張ってること、ちゃんと知ってるよ」
「……」
「だから、頑張れって言うつもりはない」
樹は顔を上げた。
「結果が出ない日があってもいい」
「でも……」
「休む日があってもいい」
「……」
「毎日ちゃんとやってるじゃない」
樹の目が揺れた。
「それだけで、十分すごいことだよ」
樹は俯いた。
何かを言おうとした。
けれど。
声にならなかった。
ただ。
「……行ってきます」
それだけ言って家を出た。
* * *
学校へ向かう途中。
樹はスマートフォンを取り出した。
蓮へのメッセージ画面を開く。
『昨日はごめん』
そこまで打って。
消した。
もう一度。
『今日、旧音楽室行く』
と打った。
送信。
数秒後。
既読。
すぐに返信が来る。
『待ってる!』
樹はスマートフォンをしまった。
少しだけ。
胸が軽くなった。
まだ。
何も壊れてはいない。
そう思った。
けれど。
放課後。
樹が旧音楽室へ向かう途中。
廊下の掲示板に貼られた一枚の紙が目に入った。
そこには。
昨日、誰かが投稿した写真が印刷されていた。
旧音楽室。
五人の名前。
そして。
「この五人、学校で何してるの?」
樹は立ち止まった。
紙を見つめる。
胸の奥に。
嫌なものが広がっていく。
自分たちの「家」が。
少しずつ外から壊されている。
そんな気がした。
樹は紙から目を逸らした。
そして。
旧音楽室とは反対方向へ。
一歩。
歩き出した。
努力すれば。
何とかなる。
ずっとそう信じてきた。
けれど。
人間関係は。
練習時間を増やせば上手くなるものではない。
何度走っても。
何度蹴っても。
何度頑張っても。
どうにもならないことがある。
その日。
樹の中にあった「木の家」に。
初めて。
目に見えるほどの――
ひびが入った。




