第十二話 夏の終わりに、五人で見た空。
八月。
夏休みも、残り少なくなっていた。
蝉の声は相変わらず大きい。
空はどこまでも青く、雲はまるで動かない。
けれど、夕方になると少しだけ風が涼しくなってきた。
夏の終わりは、誰にも気づかれないように近づいていた。
* * *
「暑い……」
旧音楽室の机に突っ伏しているのは蓮だった。
「さっきからそれしか言ってない」
岳が呆れたように言う。
「だって暑いんだよ」
「夏だからね」
美咲が笑う。
「美咲まで岳みたいなこと言うなよ」
「事実だから」
樹は窓際で扇風機の向きを調整していた。
「これで少しは涼しくなるだろ」
「樹、神」
「大げさ」
その隣で、湊は黙々と数学の問題を解いている。
「湊」
「何?」
「宿題終わった?」
「ほとんど」
「早っ!」
「普通」
「俺、まだ半分」
「それは遅い」
「岳まで言うな!」
旧音楽室に笑い声が響く。
夏休みに入ってから、五人はほとんど毎日のようにここへ集まっていた。
宿題をする日。
町の写真を整理する日。
何もせずに話すだけの日。
時には誰かが途中で寝てしまうこともあった。
最初の頃、湊は一番端の席に座っていた。
必要なこと以外は話さない。
帰る時間になると、一番先に立ち上がる。
けれど。
今では違った。
「湊、これ分かる?」
蓮が数学のプリントを差し出す。
「分かる」
「教えて」
「自分で考えて」
「冷たい!」
樹が笑う。
「甘やかすなよ、湊」
「樹まで!」
美咲が笑いながらプリントを覗き込む。
「蓮、これ、途中の式が違う」
「え?」
「ここ」
「あ、本当だ」
「だから言ったでしょ」
蓮は美咲を見る。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ほんの一瞬。
二人の目が合う。
蓮は急に恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「……何?」
美咲が聞く。
「いや、別に」
「顔赤いけど」
「暑いから!」
樹と岳が同時に蓮を見る。
「……」
「……」
「何だよ!」
蓮が叫ぶ。
湊まで小さく笑っていた。
「湊!」
「何?」
「お前まで笑うな!」
「面白いから」
「最近、容赦なくなってない?」
「そう?」
「そうだよ!」
また笑い声が起こる。
湊はその輪の中にいた。
いつの間にか。
ごく自然に。
* * *
ある日の夕方。
樹は部活を終えてから旧音楽室へ来た。
「疲れた……」
「大会近いんだっけ?」
蓮が聞く。
「うん。最後の大会」
「神谷先輩も?」
「そう」
樹の表情が少し曇る。
神谷直人。
三年生で、樹が尊敬する先輩だ。
練習では誰よりも真剣で、試合ではチームを引っ張る。
「先輩、進路で悩んでるみたい」
「そうなの?」
美咲が聞く。
「うん」
樹は椅子に座った。
「サッカーを続けるか、普通に高校へ行くか」
「先輩なら、どっちでもできそう」
蓮が言う。
「そうなんだけど」
樹は窓の外を見る。
「できるからこそ、迷うんだろうな」
湊が静かに言った。
「選べるって、楽じゃないから」
樹が湊を見る。
「……お前、たまにすごいこと言うよな」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、たまにじゃなくていい?」
「調子乗るな」
二人が笑う。
その様子を見て、蓮は嬉しそうに笑った。
湊と樹。
最初は、こんなふうに話すなんて思わなかった。
けれど今では。
自然に隣に座っている。
* * *
八月のある夜。
町の夏祭りの日。
「遅い!」
蓮が駅前で待っていた。
「まだ約束の時間じゃないでしょ」
美咲が笑う。
「五分前行動だよ」
「蓮が早すぎるだけ」
樹が言う。
「岳は?」
「もう来てる」
岳は少し離れた場所に立っていた。
「お待たせ」
湊もやって来た。
普段とは違う。
白いTシャツに、薄い色のシャツを羽織っている。
「……なんだよ」
湊が四人を見る。
「いや」
蓮が笑う。
「ちゃんと祭りっぽい」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
美咲が笑った。
「行こう」
五人は祭りの会場へ向かった。
* * *
神社の境内は、人でいっぱいだった。
屋台。
浴衣。
提灯。
焼きそばの匂い。
遠くから聞こえる祭囃子。
「すごいな」
樹が言う。
「何食べる?」
蓮が周囲を見回す。
「たこ焼き!」
「早い」
「じゃあ、焼きそば」
「同じじゃん」
美咲が笑う。
五人で屋台を回る。
射的。
かき氷。
輪投げ。
金魚すくい。
そして。
「蓮、絶対それ無理」
美咲が言った。
「できるって!」
蓮が金魚すくいのポイを構える。
「見てろよ」
一匹。
逃げた。
二匹。
逃げた。
三匹。
紙が破れた。
「……」
美咲が笑いをこらえる。
「笑うな」
「ごめん」
「今絶対笑っただろ!」
「うん」
「正直!」
樹が腹を抱えて笑う。
「蓮、才能ないな」
「うるさい!」
岳も小さく笑っている。
湊は――。
「……」
「湊?」
「何?」
「笑ってる?」
「笑ってない」
「いや、笑ってる」
「笑ってない」
「絶対笑ってる!」
湊は少しだけ顔を逸らした。
けれど。
口元は笑っていた。
* * *
人混みの中で、いつの間にか二手に分かれていた。
「蓮」
美咲が呼ぶ。
「ん?」
「こっち」
美咲が人の少ない道を指差す。
「少し歩こう」
二人で歩く。
祭りの喧騒が、少し遠くなる。
「なんか静かだな」
「うん」
蓮は妙に緊張していた。
いつもなら何でも話せる。
でも。
今は何を話していいのか分からない。
「蓮」
「何?」
「最近、変だよね」
「え?」
「私と話すとき」
「……」
「前はもっと普通だった」
「普通だよ」
「嘘」
美咲が笑う。
「顔に出てる」
「樹と岳にも言われた」
「やっぱり?」
「……うん」
二人の間に沈黙が落ちる。
蓮は夜空を見上げた。
「俺さ」
「うん」
「最近、美咲といると……」
そこで言葉が止まった。
「いると?」
「……なんでもない」
「何それ」
美咲が笑う。
「最後まで言ってよ」
「無理」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
美咲は少しだけ黙った。
そして。
「そっか」
小さく笑った。
「じゃあ、いつか聞かせて」
蓮は美咲を見る。
「……うん」
それだけで。
胸がいっぱいになった。
* * *
一方。
少し離れた場所では、樹と湊が並んで歩いていた。
「蓮、分かりやすいな」
樹が言う。
「うん」
「お前もそう思う?」
「思う」
「だよな」
二人で笑う。
「湊」
「何?」
「お前、変わったよな」
「そう?」
「前は一人だったじゃん」
「今も一人でいることはある」
「でも、ここにいる」
湊は少し考えた。
「……うん」
「楽しい?」
湊は答えなかった。
しばらくして。
「楽しいと思う」
樹が笑う。
「そっか」
「樹は?」
「俺?」
「楽しい?」
「……うん」
樹は祭りの明かりを見た。
「楽しいよ」
少しだけ寂しそうに。
「だから、終わってほしくないな」
湊は何も言わなかった。
ただ。
その言葉を覚えておこうと思った。
* * *
少し離れたベンチ。
岳は一人で座っていた。
四人の姿を眺める。
蓮と美咲。
樹と湊。
楽しそうに笑っている。
岳は少しだけ笑った。
「……騒がしいな」
でも。
その声は、どこか嬉しそうだった。
少し前まで。
自分は一人でいる方が楽だと思っていた。
誰かといると面倒だ。
気を使う。
傷つく。
だから。
自分の周りに壁を作っていた。
でも。
今は。
「……悪くない」
そう呟いた。
* * *
やがて。
夜空に一発目の花火が上がった。
ドン――。
大きな音。
五人が空を見上げる。
赤。
青。
緑。
白。
夜空いっぱいに花が咲く。
「すげえ……」
樹が呟いた。
「綺麗」
美咲が言う。
「写真撮る?」
蓮がスマートフォンを取り出す。
「撮るより見よう」
岳が言った。
蓮は少し考えて。
「……そうだな」
スマートフォンをしまった。
五人で空を見る。
誰も話さない。
ただ。
同じ空を見ていた。
何発目かの花火が上がったとき。
蓮が言った。
「なあ」
「何?」
樹が見る。
「来年も、またみんなで来ような」
樹が笑った。
「当たり前だろ」
美咲も笑う。
「うん」
岳は少し考えてから、
「予定が合えば」
と言った。
「そこは素直に『うん』って言えよ」
蓮が笑う。
そして。
湊を見る。
「湊は?」
湊は空を見上げたまま黙っていた。
花火が一つ。
夜空に開く。
そして消える。
「……たぶん」
「たぶん?」
蓮が笑う。
「そこは『絶対』だろ」
「……絶対」
湊が言った。
蓮が笑った。
樹も。
美咲も。
岳も。
そして湊も。
笑った。
* * *
花火が終わった。
祭りの明かりが少しずつ消えていく。
帰り道。
人の流れに沿って、五人は歩いていた。
蓮。
樹。
岳。
美咲。
湊。
五つの影が、街灯の下に伸びている。
けれど。
しばらく歩くと。
湊だけが少し後ろになった。
人混みの中で。
いつもの癖のように。
一人になる。
誰かと一緒に歩くことに慣れていない。
だから。
少しだけ距離ができた。
美咲が振り返る。
「湊」
湊が顔を上げる。
「何?」
「早く」
美咲が笑った。
「みんな待ってるよ」
湊は四人を見る。
蓮が手を振っている。
「湊、早く!」
樹も笑っている。
「置いてくぞ」
岳は何も言わない。
でも。
待っている。
湊は少しだけ目を細めた。
「……うん」
走る。
四人のところへ。
五人が並ぶ。
誰も急かさない。
誰も特別なことを言わない。
ただ。
五人で歩く。
夜の町を。
夏祭りの余韻を残した道を。
そのとき。
湊が、ほんの少しだけ笑った。
誰にも見られていないと思っていた。
でも。
蓮は見ていた。
何も言わなかった。
ただ、自分も笑った。
* * *
その夜。
家に帰った蓮は、自分の部屋の窓を開けた。
遠くの空に。
まだ少しだけ煙が残っている。
「来年も……か」
呟く。
来年も。
五人で。
旧音楽室に集まって。
くだらない話をして。
夏祭りに行って。
花火を見る。
そんな未来が。
当たり前のように続くと思っていた。
樹も。
岳も。
美咲も。
湊も。
きっと同じだった。
――この夏が。
五人にとって、
最も幸せな夏になることを。
まだ誰も知らなかった。
そして。
夏の終わりを告げるように。
夜風が、少しだけ強く吹いた。




