第9話 お昼の放送で告白しないでください
スピーカーの向こうで、誰かが、もう一度息を吸った。
「……放送部、二年の、音無響です」
さっきより、少しだけ声が落ち着いていた。
五月二十二日、水曜日の昼休み。二年B組の教室は、弁当のふたを開けたまま止まっていた。
教室の前の、黒板の上のスピーカーを、四十人が見上げていた。スピーカーには顔がない。それでも全員が、そこに誰かの顔があるかのように見ていた。
窓側の前から二番目の席で、白羽さんだけが、スピーカーを見ていなかった。箸を持ったまま、机の上の弁当を見下ろしていた。
「白羽さん」
声が、もう一段落ち着いた。
さっきまで震えていた声が、一語ごとに、まっすぐになっていく。まるで、マイクの前に立った瞬間に、別の人に入れ替わったようだった。
「好きです」
短かった。
言い直しも、言いよどみもなかった。放送の声だった。落とし物のお知らせと同じ、正しい速さの「好きです」だった。
名前と、好きです。
そろっていた。
白羽さんが、立ち上がった。
椅子が後ろに下がる音がした。白羽さんは、黒板の上のスピーカーに向き直り、背筋を伸ばした。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
そして、スピーカーに向かって、頭を下げた。九十度だった。
スピーカーは、何も答えなかった。
教室の四十人が、スピーカーに向かって直角になっている白羽さんを見ていた。俺も見ていた。あの一文は、引き金を選ばない。相手がそこにいなくても選ばない。今日、それが分かった。
スピーカーの向こうの音無には、もちろん、何も聞こえていなかった。
「返事は」
正しい速さのまま、声が続いた。
「できれば、放送で、聞かせてください。金曜日の、この時間に。この、マイクの前で、待っています」
白羽さんの頭が、九十度のまま、止まった。
手紙で、と答えたばかりだった。その五秒後に、放送で、と頼まれた。練習した一文には、その先がない。
白羽さんの右手の指が、スカートの横で、何かを書きかけた。止まった。また書きかけた。
教室じゅうが、白羽さんの次の言葉を待っていた。
白羽さんは、顔を上げた。スピーカーを見た。
「……はい」
言ってしまった。
「以上、放送部からの、お知らせでした」
音無の声は、最後まで正しい速さだった。
「続いて、今日の一曲です」
スピーカーから、明るい音楽が流れ始めた。
その音楽を、誰も聞いていなかった。
「……今、はいって言った?」
「言った」
「はいって、どっちの」
「付き合うってこと?」
「いや、放送で返事するってことだろ」
「放送で、はいって返事するってこと?」
教室が、一度に沸騰した。
白羽さんは、立ったまま、教室を振り返った。四十人の顔を見渡した。それから右手を上げて、空中に、大きく三文字を書いた。
〈ち・が・う〉
教室の誰も、読めなかった。
向かい合って書かれる空書きは、左右が逆になる。そのうえ、速い。前の席の男子が「今の、何?」と言い、隣の女子が「呪文?」と言った。
読めたのは、毎日それを読んでいる俺だけだった。
違う。はいは、付き合うの、はいではない。放送で返事をすることへの、はいだ。たぶん、そう言いたかった。
白羽さんは、教室の誰にも伝わらなかったことを確かめると、ゆっくり座った。箸を持ち直して、卵焼きを一つ、口に入れた。表情は、少しも変わらなかった。
卵焼きを噛む速さだけが、いつもの倍だった。
五時間目が終わるころには、話は学校じゅうに広まっていた。
白羽さんが、放送で、返事をするらしい。
六時間目が終わるころには、生徒会と放送部の協議の結果、金曜日の昼の放送の最初の五分を「返事」のために空けることが決まっていた。協議にかかった時間は、十分だったという。整理券の決まりを作った人は、こういうときも仕事が速かった。
◇
放課後、文芸部室の扉は、ノックされなかった。
いきなり開いた。白羽さんが、閉めるのも忘れて立っていた。
右手の人差し指が、空中で、ものすごい速さで動いていた。〈は〉と〈い〉と、あとは読めなかった。同じ字を何度も書いているようにも、全部違う字のようにも見えた。
「とりあえず、閉めよう」
白羽さんは扉を閉め、長机の向かいに座った。指は、まだ動いていた。
「放送で、読むことになった」
白羽さんは、うなずいた。うなずいたまま、首が戻ってこなかった。
「全校に」
白羽さんの首が、さらに下がった。
「読めるよ」
俺は言った。
白羽さんが、顔を上げた。
「昨日の現代文。四ページ、一回もつかえなかった」
「……あれは」
白羽さんは、小さな声で言った。
「……教科書、です」
「断り文句も、俺の文だ。白羽さんにとっては、教科書と同じだよ。書いてあるとおりに読めばいい」
自分で言いながら、昨日ノートに引いた線を思い出した。俺の文は、左側にある。白羽さんの声でいちばんきれいに読まれる、白羽さんの言葉ではない言葉の側に。
白羽さんは、しばらく俺を見ていた。
「……同じ、じゃ」
言いかけて、止まった。
「……ない、です」
同じじゃない、と白羽さんは言った。
どういう意味なのか、俺は考えかけて、やめた。俺の字は教科書より読みにくい。だから同じではない。そういう意味だと思うことにした。そう思っておくほうが、安全だった。
「じゃあ、教科書より読みやすく書く」
白羽さんは、少しだけ間をおいて、うなずいた。指は、もう止まっていた。
◇
音無響という名前を、俺は知っていた。顔は知らなかった。
毎日の昼の放送の、落とし物のお知らせの声だ。
木曜の昼休み、俺は教室で、スピーカーを見上げてその声を聞いた。今日は、落とし物が二つあった。
「青い、折りたたみ傘の、落とし物です。持ち手に、黄色いビニールテープが、二重に巻いてあります。巻き終わりが、少しほどけています。本館一階の、下駄箱の前に、ありました」
一つ目だけで、三十秒近くかかった。
傘の落とし物のお知らせは、たいてい「青い傘の落とし物がありました」で終わる。青い傘は、この学校に五十本はある。音無の言い方なら、持ち主は、自分の傘だとすぐに分かる。テープの巻き終わりがほどけていることまで、たぶん、持ち主しか知らない。
昨日の告白と、同じ声だった。一語ずつ、正しい速さで置いていく声だった。
放課後、図書室のカウンターで、柳先生に聞いた。
柳先生は、シラノの本のことを知っていて、黙っていてくれる、この学校でただ一人の大人だ。俺が自分から話しかけられる、ほとんどただ一人の大人でもある。
「音無くん?」
柳先生は、いつもの小さな声で言った。図書室で話すとき、この人の声は、いつも本のページをめくる音くらいの大きさになる。
「去年の文化祭でね。来てくださったおばあさんが、補聴器を落とされたの。補聴器がないから、放送で呼びかけても、ご本人には聞こえないでしょう」
俺はうなずいた。
「だから音無くんは、おばあさんに向けてじゃなくて、拾う人に向けて放送したの。色と、形と、大きさと、落としたかもしれない場所を、全部。十分おきに、四回」
柳先生は、カウンターの下を指さした。
「四回目で、私が見つけたの。そこの、返却ポストの横で」
それから柳先生は、少しだけ声をひそめた。もともと小さい声が、さらに小さくなった。
「届けに来たとき、あの子、おばあさんの前で、ちゃんと顔を見て、口を大きく開けて、ゆっくり話していたわ。マイクがないと、いつもは、ろくに話せない子なのに」
図書室を出たところの廊下で、本人を見た。
放送部の腕章をつけた、小柄な男子だった。廊下の掲示を貼り替えていて、通りかかった先生に何か聞かれていた。
「あ、あの、その、それは、えっと」
答えになっていなかった。顔が赤かった。先生が行ってしまうと、音無は掲示の前で、小さく息を吐いた。
マイクの前でだけ、まっすぐな声になる人だった。
白羽さんは、他人の言葉なら、どこまでも読める。音無は、マイクがあれば、どこまでも話せる。
裏返しの二人だと、俺は思った。
◇
耳で聞く手紙は、目で読む手紙と、決まりが違う。
木曜の放課後、文芸部室で、俺はノートに書き出した。
〔一文を短く〕
〔同じ音の、別の言葉を使わない〕
〔かっこを使わない〕
〔言い直さない〕
〔名前は、何度でも呼ぶ〕
二つ目は、たとえば「回答」だ。白羽さんの澄んだ声で「かいとう」と読まれたら、全校のどこかで、誰かが冷凍食品を思い浮かべる。だから「返事」と書く。
三つ目のかっこは、声に出すと消える。消えないように読むと、「かっこ」と読むことになる。
白羽さんは、俺のノートをのぞきこんで、読めないことを確かめてから、俺の顔を見た。
「読むよ」
今日は、白羽さんに、目を閉じてもらった。目で追わずに、耳だけで聞いてもらう。全校の六百人と、同じ条件だ。
一通目の下書きの、三文目で、白羽さんが目を開けた。
「……迷子に、なりました」
白羽さんの言葉が途中で迷子になるのは、何度も見てきた。俺の文で白羽さんが迷子になるのは、はじめてだった。
三文目は、傘のお知らせのくだりだった。黄色いテープが、二重に巻いてあって、巻き終わりが少しほどけている傘のお知らせのことを、と、一文に全部詰めこんでいた。目で読めば分かる。耳で聞くと、どこが主語なのか、途中で分からなくなる。
俺は、その一文を三つに切った。
白羽さんは、もう一度目を閉じた。今度は、最後まで開けなかった。
下書きの、段落の切れ目には、〔間〕と書きこんだ。放送の原稿で、息を置く場所だ。
「……間、は」
白羽さんが聞いた。
「……何秒、ですか」
「白羽さんが決めていいよ。読むのは白羽さんだから」
白羽さんは、目を閉じて、少し考えた。
「……一秒、半」
「半、要る?」
「……要ります」
即答だった。止めとはねに、一画ぶんの迷いもない人の答えだった。
清書は、その場でした。
白羽さんは、放送で読むための手紙を、ゆっくり書いた。いつもより字が少しだけ大きかった。読むときに、目が迷子にならないように、だと思う。〔間〕のところには、筆で小さく丸を打った。
放送部、二年の、音無響くんへ。
二年B組の、白羽ことはです。
水曜日の放送、聞きました。
好きです、と言ってくれて、ありがとうございました。
〔間〕
わたしは、音無くんの声を、毎日、聞いています。
落とし物のお知らせの、声です。
青い傘、とは言わずに、黄色いテープが、二重に巻いてある傘、と言う声です。
去年の文化祭で、補聴器をなくした、おばあさんがいた、と聞きました。
音無くんは、拾う人に向けて、四回、放送したそうですね。
補聴器は、見つかりました。
音無くんは、声で、人を助ける人です。
〔間〕
だから、はっきり、言います。
わたしは、音無くんと、お付き合いすることは、できません。
それは、音無くんの、せいではありません。
でも、わたしの気持ちは、音無くんと、同じではありません。
〔間〕
明日も、落とし物のお知らせを、お願いします。
音無くんの声で見つかるものが、まだ、たくさんあると思います。
以上、二年B組、白羽ことはでした。
五つの約束は、全部守れていた。「ごめんなさい」も、かっこも、言い直しもない。最後の一行は、放送の締めの言い方を借りた。
白羽さんが帰ったあと、俺は部室に残って、厚紙を三枚切った。
それに、一枚に一語ずつ、できるだけ大きく、できるだけ丁寧に書いた。
〔ゆっくり〕〔だいじょうぶ〕〔読むだけ〕。
三枚で、一時間かかった。書き終えて見直すと、三枚とも、俺の字だった。
◇
放送室は、特別棟の二階にある。
中は二つに分かれている。手前が機械の並んだ調整室で、奥が、ガラスで仕切られた小さなブースだ。マイクはブースの中にある。調整室の扉には、廊下から中が見える細長い窓がついている。
五月二十四日、金曜日。昼休みのチャイムの五分前に、白羽さんはブースに入った。
俺は、廊下にいた。扉の細長い窓の、いちばん下の隅から、目だけを出していた。
調整室の音無は、ブースのほうを向いて座っている。扉には背中を向けている。ブースの中の白羽さんからは、ガラスと調整室の向こうに、扉の窓が見える。窓の隅の、俺の目も見える。音無からは見えない。昨日の放課後に、この配置を確かめておいた。
昼休みの特別棟の廊下には、誰もいなかった。全校が、教室でスピーカーを見上げているはずだった。
チャイムが鳴った。
音無が、ヘッドホンを片耳だけかけて、マイクのスイッチを上げた。
「お昼の放送です」
まっすぐな声だった。廊下では、その声が二重に聞こえた。扉の向こうから直接と、廊下の天井のスピーカーからと。
「今日は、はじめに、お知らせがあります。二年B組の、白羽ことはさんから、お返事です」
音無は、ガラスの向こうの白羽さんに、手のひらを向けた。
「白羽さん、どうぞ」
白羽さんは、動かなかった。
両手で清書の和紙を持ち、背筋を伸ばして、マイクの前に立っていた。口が、少し開いた。閉じた。
どうぞ、と言われたら、はい、と言ってから読み始める。たぶん、白羽さんはそう考えていた。はい、は白羽さんの言葉だ。一昨日、教室で一度だけ出てきてしまった、白羽さんの言葉だ。
出てこなかった。
一秒。二秒。三秒。
全校が、黙ってスピーカーを見上げている三秒だった。
俺は、扉の窓の隅に、厚紙を一枚押しつけた。〔読むだけ〕。
ガラスの向こうで、白羽さんの目が、こっちを見た。
読めなかったと思う。俺の字だ。
それでも白羽さんは、小さくうなずいた。それから、手元の和紙に目を落とした。自分の字で書いた、俺の文に。
息を一つ吸った。
「放送部、二年の、音無響くんへ」
声が、出た。
澄んでいた。現代文の教室で聞いた声が、今度は、学校じゅうの天井から降っていた。
「二年B組の、白羽ことはです」
読点のところで、少しだけ息をつぐ。句点で一拍。〔間〕の丸のところで、一秒半。
一秒半の、半のところで、廊下の向こうの教室から、物音が一つも聞こえなかった。
あとで聞いた話を、並べておく。
学食では、二百人が箸を置いた。購買のおばちゃんは、焼きそばパンを袋に入れる手を止めた。柔道場で昼練をしていた権田先輩は、畳の上に正座した。職員室では、北条先生が湯のみを持ったまま動かなくなった。生徒会室の久世は、書いていた議事録のペンを置いた。字は、置く前から読めなかったという。
どの話でも、終わったあと、しばらく誰も口をきかなかった。
「以上、二年B組、白羽ことはでした」
白羽さんが、マイクの前で頭を下げた。マイクに向かって、九十度だった。
調整室の音無は、ヘッドホンを片耳にかけたまま、泣いていた。
声を出さずに、ぼろぼろ泣いていた。肩が揺れ、鼻をすすり、袖で目をこすった。それから、マイクのスイッチに指をかけた。
「……白羽さん、ありがとう、ございました」
鼻声だった。でも、速さは正しかった。
「続いて、今日の、一曲です」
泣きながら、音無は曲の紹介をした。曲名と、歌っている人の名前と、この曲を選んだ理由を、一文字も噛まずに言いきった。理由のところで、もう一度だけ声が裏返った。
音楽が流れ始めた。
音無はマイクのスイッチを下げ、両手で顔を覆った。
白羽さんはブースを出て、調整室で、音無に清書の和紙を差し出した。両手で、九十度で。
音無は立ち上がり、和紙を受け取った。
「あ、あの、その」
マイクのない音無は、それ以上、何も言えなかった。かわりに、白羽さんよりも深く頭を下げた。九十度をこえていた。
扉が開いて、白羽さんが廊下に出てきた。
俺は、厚紙を三枚、胸の前に抱えたまま立っていた。
白羽さんは、俺の手元を見た。三枚を、順番に見た。
「……読めません、でした」
「だろうね」
「……でも」
白羽さんは、そこで止まった。続きは、出てこなかった。
かわりに、白羽さんは三枚のうちの一枚に、そっと指をかけた。〔だいじょうぶ〕だった。読めないはずの一枚を、迷わずに選んで、抜き取った。
それを両手で持って、もう一度、俺の字を見た。
それから、鞄にしまった。返してとは、言えなかった。
その日の学食で、百瀬は八十回目を受け取った。放送を聞いて泣いたあとだったらしく、「星、五つ!」の声が、少しかすれていた。
カチッ。〔80〕。
それから百瀬は、その場で次の告白をした。
「『見たことを、そのまま書ける人』って、書いてくれました! うれしかったです! 好きです! 付き合ってください!」
今週の手紙の二段落目に、俺が書いた一行だった。先週の告白も、先週の手紙の一行を引くところから始まっていた。
◇
放課後、文芸部室の長机の向かいで、白羽さんは、いつもと違っていた。
筆ペンを出さなかった。和紙も出さなかった。両手を膝の上に置いて、まっすぐ俺を見ていた。
口が、開いた。
閉じなかった。
「……あの」
ごめんなさい、ではなかった。
白羽さんが、自分から何かを言おうとしているのを、俺は、はじめて見た。




