↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/31

第9話 お昼の放送で告白しないでください

 スピーカーの向こうで、誰かが、もう一度息を吸った。

「……放送部、二年の、音無響です」

 さっきより、少しだけ声が落ち着いていた。


 五月二十二日、水曜日の昼休み。二年B組の教室は、弁当のふたを開けたまま止まっていた。

 教室の前の、黒板の上のスピーカーを、四十人が見上げていた。スピーカーには顔がない。それでも全員が、そこに誰かの顔があるかのように見ていた。

 窓側の前から二番目の席で、白羽さんだけが、スピーカーを見ていなかった。箸を持ったまま、机の上の弁当を見下ろしていた。


「白羽さん」

 声が、もう一段落ち着いた。

 さっきまで震えていた声が、一語ごとに、まっすぐになっていく。まるで、マイクの前に立った瞬間に、別の人に入れ替わったようだった。

「好きです」

 短かった。

 言い直しも、言いよどみもなかった。放送の声だった。落とし物のお知らせと同じ、正しい速さの「好きです」だった。


 名前と、好きです。

 そろっていた。

 白羽さんが、立ち上がった。

 椅子が後ろに下がる音がした。白羽さんは、黒板の上のスピーカーに向き直り、背筋を伸ばした。

「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」

 そして、スピーカーに向かって、頭を下げた。九十度だった。

 スピーカーは、何も答えなかった。

 教室の四十人が、スピーカーに向かって直角になっている白羽さんを見ていた。俺も見ていた。あの一文は、引き金を選ばない。相手がそこにいなくても選ばない。今日、それが分かった。


 スピーカーの向こうの音無には、もちろん、何も聞こえていなかった。

「返事は」

 正しい速さのまま、声が続いた。

「できれば、放送で、聞かせてください。金曜日の、この時間に。この、マイクの前で、待っています」

 白羽さんの頭が、九十度のまま、止まった。

 手紙で、と答えたばかりだった。その五秒後に、放送で、と頼まれた。練習した一文には、その先がない。

 白羽さんの右手の指が、スカートの横で、何かを書きかけた。止まった。また書きかけた。

 教室じゅうが、白羽さんの次の言葉を待っていた。

 白羽さんは、顔を上げた。スピーカーを見た。

「……はい」

 言ってしまった。


「以上、放送部からの、お知らせでした」

 音無の声は、最後まで正しい速さだった。

「続いて、今日の一曲です」

 スピーカーから、明るい音楽が流れ始めた。


 その音楽を、誰も聞いていなかった。

「……今、はいって言った?」

「言った」

「はいって、どっちの」

「付き合うってこと?」

「いや、放送で返事するってことだろ」

「放送で、はいって返事するってこと?」

 教室が、一度に沸騰した。

 白羽さんは、立ったまま、教室を振り返った。四十人の顔を見渡した。それから右手を上げて、空中に、大きく三文字を書いた。


  〈ち・が・う〉


 教室の誰も、読めなかった。

 向かい合って書かれる空書きは、左右が逆になる。そのうえ、速い。前の席の男子が「今の、何?」と言い、隣の女子が「呪文?」と言った。

 読めたのは、毎日それを読んでいる俺だけだった。

 違う。はいは、付き合うの、はいではない。放送で返事をすることへの、はいだ。たぶん、そう言いたかった。

 白羽さんは、教室の誰にも伝わらなかったことを確かめると、ゆっくり座った。箸を持ち直して、卵焼きを一つ、口に入れた。表情は、少しも変わらなかった。

 卵焼きを噛む速さだけが、いつもの倍だった。


 五時間目が終わるころには、話は学校じゅうに広まっていた。

 白羽さんが、放送で、返事をするらしい。

 六時間目が終わるころには、生徒会と放送部の協議の結果、金曜日の昼の放送の最初の五分を「返事」のために空けることが決まっていた。協議にかかった時間は、十分だったという。整理券の決まりを作った人は、こういうときも仕事が速かった。


  ◇


 放課後、文芸部室の扉は、ノックされなかった。

 いきなり開いた。白羽さんが、閉めるのも忘れて立っていた。

 右手の人差し指が、空中で、ものすごい速さで動いていた。〈は〉と〈い〉と、あとは読めなかった。同じ字を何度も書いているようにも、全部違う字のようにも見えた。

「とりあえず、閉めよう」

 白羽さんは扉を閉め、長机の向かいに座った。指は、まだ動いていた。

「放送で、読むことになった」

 白羽さんは、うなずいた。うなずいたまま、首が戻ってこなかった。

「全校に」

 白羽さんの首が、さらに下がった。


「読めるよ」

 俺は言った。

 白羽さんが、顔を上げた。

「昨日の現代文。四ページ、一回もつかえなかった」

「……あれは」

 白羽さんは、小さな声で言った。

「……教科書、です」

「断り文句も、俺の文だ。白羽さんにとっては、教科書と同じだよ。書いてあるとおりに読めばいい」

 自分で言いながら、昨日ノートに引いた線を思い出した。俺の文は、左側にある。白羽さんの声でいちばんきれいに読まれる、白羽さんの言葉ではない言葉の側に。

 白羽さんは、しばらく俺を見ていた。

「……同じ、じゃ」

 言いかけて、止まった。

「……ない、です」

 同じじゃない、と白羽さんは言った。

 どういう意味なのか、俺は考えかけて、やめた。俺の字は教科書より読みにくい。だから同じではない。そういう意味だと思うことにした。そう思っておくほうが、安全だった。

「じゃあ、教科書より読みやすく書く」

 白羽さんは、少しだけ間をおいて、うなずいた。指は、もう止まっていた。


  ◇


 音無響という名前を、俺は知っていた。顔は知らなかった。

 毎日の昼の放送の、落とし物のお知らせの声だ。

 木曜の昼休み、俺は教室で、スピーカーを見上げてその声を聞いた。今日は、落とし物が二つあった。

「青い、折りたたみ傘の、落とし物です。持ち手に、黄色いビニールテープが、二重に巻いてあります。巻き終わりが、少しほどけています。本館一階の、下駄箱の前に、ありました」

 一つ目だけで、三十秒近くかかった。

 傘の落とし物のお知らせは、たいてい「青い傘の落とし物がありました」で終わる。青い傘は、この学校に五十本はある。音無の言い方なら、持ち主は、自分の傘だとすぐに分かる。テープの巻き終わりがほどけていることまで、たぶん、持ち主しか知らない。

 昨日の告白と、同じ声だった。一語ずつ、正しい速さで置いていく声だった。


 放課後、図書室のカウンターで、柳先生に聞いた。

 柳先生は、シラノの本のことを知っていて、黙っていてくれる、この学校でただ一人の大人だ。俺が自分から話しかけられる、ほとんどただ一人の大人でもある。

「音無くん?」

 柳先生は、いつもの小さな声で言った。図書室で話すとき、この人の声は、いつも本のページをめくる音くらいの大きさになる。

「去年の文化祭でね。来てくださったおばあさんが、補聴器を落とされたの。補聴器がないから、放送で呼びかけても、ご本人には聞こえないでしょう」

 俺はうなずいた。

「だから音無くんは、おばあさんに向けてじゃなくて、拾う人に向けて放送したの。色と、形と、大きさと、落としたかもしれない場所を、全部。十分おきに、四回」

 柳先生は、カウンターの下を指さした。

「四回目で、私が見つけたの。そこの、返却ポストの横で」

 それから柳先生は、少しだけ声をひそめた。もともと小さい声が、さらに小さくなった。

「届けに来たとき、あの子、おばあさんの前で、ちゃんと顔を見て、口を大きく開けて、ゆっくり話していたわ。マイクがないと、いつもは、ろくに話せない子なのに」


 図書室を出たところの廊下で、本人を見た。

 放送部の腕章をつけた、小柄な男子だった。廊下の掲示を貼り替えていて、通りかかった先生に何か聞かれていた。

「あ、あの、その、それは、えっと」

 答えになっていなかった。顔が赤かった。先生が行ってしまうと、音無は掲示の前で、小さく息を吐いた。

 マイクの前でだけ、まっすぐな声になる人だった。

 白羽さんは、他人の言葉なら、どこまでも読める。音無は、マイクがあれば、どこまでも話せる。

 裏返しの二人だと、俺は思った。


  ◇


 耳で聞く手紙は、目で読む手紙と、決まりが違う。

 木曜の放課後、文芸部室で、俺はノートに書き出した。


  〔一文を短く〕

  〔同じ音の、別の言葉を使わない〕

  〔かっこを使わない〕

  〔言い直さない〕

  〔名前は、何度でも呼ぶ〕


 二つ目は、たとえば「回答」だ。白羽さんの澄んだ声で「かいとう」と読まれたら、全校のどこかで、誰かが冷凍食品を思い浮かべる。だから「返事」と書く。

 三つ目のかっこは、声に出すと消える。消えないように読むと、「かっこ」と読むことになる。

 白羽さんは、俺のノートをのぞきこんで、読めないことを確かめてから、俺の顔を見た。

「読むよ」

 今日は、白羽さんに、目を閉じてもらった。目で追わずに、耳だけで聞いてもらう。全校の六百人と、同じ条件だ。


 一通目の下書きの、三文目で、白羽さんが目を開けた。

「……迷子に、なりました」

 白羽さんの言葉が途中で迷子になるのは、何度も見てきた。俺の文で白羽さんが迷子になるのは、はじめてだった。

 三文目は、傘のお知らせのくだりだった。黄色いテープが、二重に巻いてあって、巻き終わりが少しほどけている傘のお知らせのことを、と、一文に全部詰めこんでいた。目で読めば分かる。耳で聞くと、どこが主語なのか、途中で分からなくなる。

 俺は、その一文を三つに切った。

 白羽さんは、もう一度目を閉じた。今度は、最後まで開けなかった。


 下書きの、段落の切れ目には、〔間〕と書きこんだ。放送の原稿で、息を置く場所だ。

「……間、は」

 白羽さんが聞いた。

「……何秒、ですか」

「白羽さんが決めていいよ。読むのは白羽さんだから」

 白羽さんは、目を閉じて、少し考えた。

「……一秒、半」

「半、要る?」

「……要ります」

 即答だった。止めとはねに、一画ぶんの迷いもない人の答えだった。


 清書は、その場でした。

 白羽さんは、放送で読むための手紙を、ゆっくり書いた。いつもより字が少しだけ大きかった。読むときに、目が迷子にならないように、だと思う。〔間〕のところには、筆で小さく丸を打った。


   放送部、二年の、音無響くんへ。

   二年B組の、白羽ことはです。


   水曜日の放送、聞きました。

   好きです、と言ってくれて、ありがとうございました。

   〔間〕

   わたしは、音無くんの声を、毎日、聞いています。

   落とし物のお知らせの、声です。

   青い傘、とは言わずに、黄色いテープが、二重に巻いてある傘、と言う声です。

   去年の文化祭で、補聴器をなくした、おばあさんがいた、と聞きました。

   音無くんは、拾う人に向けて、四回、放送したそうですね。

   補聴器は、見つかりました。

   音無くんは、声で、人を助ける人です。

   〔間〕

   だから、はっきり、言います。

   わたしは、音無くんと、お付き合いすることは、できません。

   それは、音無くんの、せいではありません。

   でも、わたしの気持ちは、音無くんと、同じではありません。

   〔間〕

   明日も、落とし物のお知らせを、お願いします。

   音無くんの声で見つかるものが、まだ、たくさんあると思います。


   以上、二年B組、白羽ことはでした。


 五つの約束は、全部守れていた。「ごめんなさい」も、かっこも、言い直しもない。最後の一行は、放送の締めの言い方を借りた。

 白羽さんが帰ったあと、俺は部室に残って、厚紙を三枚切った。

 それに、一枚に一語ずつ、できるだけ大きく、できるだけ丁寧に書いた。

 〔ゆっくり〕〔だいじょうぶ〕〔読むだけ〕。

 三枚で、一時間かかった。書き終えて見直すと、三枚とも、俺の字だった。


  ◇


 放送室は、特別棟の二階にある。

 中は二つに分かれている。手前が機械の並んだ調整室で、奥が、ガラスで仕切られた小さなブースだ。マイクはブースの中にある。調整室の扉には、廊下から中が見える細長い窓がついている。

 五月二十四日、金曜日。昼休みのチャイムの五分前に、白羽さんはブースに入った。

 俺は、廊下にいた。扉の細長い窓の、いちばん下の隅から、目だけを出していた。

 調整室の音無は、ブースのほうを向いて座っている。扉には背中を向けている。ブースの中の白羽さんからは、ガラスと調整室の向こうに、扉の窓が見える。窓の隅の、俺の目も見える。音無からは見えない。昨日の放課後に、この配置を確かめておいた。

 昼休みの特別棟の廊下には、誰もいなかった。全校が、教室でスピーカーを見上げているはずだった。


 チャイムが鳴った。

 音無が、ヘッドホンを片耳だけかけて、マイクのスイッチを上げた。

「お昼の放送です」

 まっすぐな声だった。廊下では、その声が二重に聞こえた。扉の向こうから直接と、廊下の天井のスピーカーからと。

「今日は、はじめに、お知らせがあります。二年B組の、白羽ことはさんから、お返事です」

 音無は、ガラスの向こうの白羽さんに、手のひらを向けた。

「白羽さん、どうぞ」


 白羽さんは、動かなかった。

 両手で清書の和紙を持ち、背筋を伸ばして、マイクの前に立っていた。口が、少し開いた。閉じた。

 どうぞ、と言われたら、はい、と言ってから読み始める。たぶん、白羽さんはそう考えていた。はい、は白羽さんの言葉だ。一昨日、教室で一度だけ出てきてしまった、白羽さんの言葉だ。

 出てこなかった。

 一秒。二秒。三秒。

 全校が、黙ってスピーカーを見上げている三秒だった。

 俺は、扉の窓の隅に、厚紙を一枚押しつけた。〔読むだけ〕。

 ガラスの向こうで、白羽さんの目が、こっちを見た。

 読めなかったと思う。俺の字だ。

 それでも白羽さんは、小さくうなずいた。それから、手元の和紙に目を落とした。自分の字で書いた、俺の文に。

 息を一つ吸った。


「放送部、二年の、音無響くんへ」

 声が、出た。

 澄んでいた。現代文の教室で聞いた声が、今度は、学校じゅうの天井から降っていた。

「二年B組の、白羽ことはです」

 読点のところで、少しだけ息をつぐ。句点で一拍。〔間〕の丸のところで、一秒半。

 一秒半の、半のところで、廊下の向こうの教室から、物音が一つも聞こえなかった。


 あとで聞いた話を、並べておく。

 学食では、二百人が箸を置いた。購買のおばちゃんは、焼きそばパンを袋に入れる手を止めた。柔道場で昼練をしていた権田先輩は、畳の上に正座した。職員室では、北条先生が湯のみを持ったまま動かなくなった。生徒会室の久世は、書いていた議事録のペンを置いた。字は、置く前から読めなかったという。

 どの話でも、終わったあと、しばらく誰も口をきかなかった。


「以上、二年B組、白羽ことはでした」

 白羽さんが、マイクの前で頭を下げた。マイクに向かって、九十度だった。

 調整室の音無は、ヘッドホンを片耳にかけたまま、泣いていた。

 声を出さずに、ぼろぼろ泣いていた。肩が揺れ、鼻をすすり、袖で目をこすった。それから、マイクのスイッチに指をかけた。

「……白羽さん、ありがとう、ございました」

 鼻声だった。でも、速さは正しかった。

「続いて、今日の、一曲です」

 泣きながら、音無は曲の紹介をした。曲名と、歌っている人の名前と、この曲を選んだ理由を、一文字も噛まずに言いきった。理由のところで、もう一度だけ声が裏返った。

 音楽が流れ始めた。

 音無はマイクのスイッチを下げ、両手で顔を覆った。


 白羽さんはブースを出て、調整室で、音無に清書の和紙を差し出した。両手で、九十度で。

 音無は立ち上がり、和紙を受け取った。

「あ、あの、その」

 マイクのない音無は、それ以上、何も言えなかった。かわりに、白羽さんよりも深く頭を下げた。九十度をこえていた。


 扉が開いて、白羽さんが廊下に出てきた。

 俺は、厚紙を三枚、胸の前に抱えたまま立っていた。

 白羽さんは、俺の手元を見た。三枚を、順番に見た。

「……読めません、でした」

「だろうね」

「……でも」

 白羽さんは、そこで止まった。続きは、出てこなかった。

 かわりに、白羽さんは三枚のうちの一枚に、そっと指をかけた。〔だいじょうぶ〕だった。読めないはずの一枚を、迷わずに選んで、抜き取った。

 それを両手で持って、もう一度、俺の字を見た。

 それから、鞄にしまった。返してとは、言えなかった。


 その日の学食で、百瀬は八十回目を受け取った。放送を聞いて泣いたあとだったらしく、「星、五つ!」の声が、少しかすれていた。

 カチッ。〔80〕。

 それから百瀬は、その場で次の告白をした。

「『見たことを、そのまま書ける人』って、書いてくれました! うれしかったです! 好きです! 付き合ってください!」

 今週の手紙の二段落目に、俺が書いた一行だった。先週の告白も、先週の手紙の一行を引くところから始まっていた。


  ◇


 放課後、文芸部室の長机の向かいで、白羽さんは、いつもと違っていた。

 筆ペンを出さなかった。和紙も出さなかった。両手を膝の上に置いて、まっすぐ俺を見ていた。

 口が、開いた。

 閉じなかった。

「……あの」

 ごめんなさい、ではなかった。

 白羽さんが、自分から何かを言おうとしているのを、俺は、はじめて見た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。