第10話 しゃべる家族と、しゃべれない娘
金曜の「……あの」には、続きがなかった。
白羽さんは「……あの」のあと、十分間、黙っていた。口は、ときどき開いて、また閉じた。それから小さく頭を下げて、帰っていった。
続きは、月曜に来た。
五月二十七日、月曜日。朝から雨だった。
放課後の文芸部室は、窓の外の雨の音でいっぱいだった。中庭の藤棚の葉に、雨粒が当たる音が、ここまで届いている。窓ガラスの上のほうから下のほうへ、水の筋が何本も、ゆっくり降りていった。
扉が、二回ノックされた。
白羽さんは、傘を廊下に立てかけてから入ってきた。紺色の傘で、きっちり巻いてあった。いつものように長机の向かいに座り、いつものように鞄を開けかけて、やめた。
筆ペンも、和紙も、出てこなかった。
両手が、膝の上に戻った。
「……あの」
金曜と同じ形の口だった。
俺は、手に持っていたペンを、長机に置いた。
黒いノートも、閉じた。いちばん後ろのページには辞典がある。今日は、そこに何も書かないことにした。書けば、白羽さんは俺の手元を見る。俺の手元を見ているあいだ、白羽さんの言葉は止まる。
「うん」
それだけ言った。
白羽さんは、俺のノートが閉じられたのを見ていた。それから、窓の外の雨を見た。もう一度、俺を見た。
「……話して、いい、ですか」
「いいよ」
「……長く、なります」
「いいよ」
白羽さんは、うなずいた。
それから、一度だけ深く息を吸った。放送室のマイクの前で吸ったのと、同じ長さの息だった。
「……わたしの、家は」
一語ずつ、机に置くような話し方だった。四月十五日、図書室で、はじめて事情を聞いたときと同じだった。
「……みんな、しゃべります」
雨の音が、少し強くなった。
俺は、黙っていた。
黙っていることに、決めていた。この人が、自分の言葉で何かを言おうとしている。途中で俺が一言でも挟めば、そこで話題が俺のほうへ流れる。流れた話題を、この人は、たぶん追いかけられない。
だから今日は、最後まで、何も言わない。
頭の中の赤ペンも、キャップをしたまま、胸ポケットにしまっておくことにした。
「……父は」
白羽さんは言った。
「……ラジオで、話す、仕事です。地元の、FMの」
一語ごとに、間があった。俺は、その間を埋めなかった。
「……家でも、話します。朝ごはんの、ときも」
白羽さんは、そこで少しだけ背筋を伸ばした。
「『さあ、白羽家の朝がやってまいりました! 本日の朝食は、焼き鮭、だし巻き卵、なめこのお味噌汁でお送りします!』」
声が、なめらかになった。
抑揚も、間も、語尾の上げ方も、ラジオの声だった。たぶん、お父さんの声そのままだった。
それから、白羽さんの声は、いつもの声に戻った。
「……毎朝、です」
他人の言葉なら、白羽さんはどこまでもなめらかに話せる。家族の台詞も、他人の言葉だった。
俺は、笑いそうになった。こらえた。笑えば、話が止まる。
「……父は、金曜の、番組で」
白羽さんは続けた。
「……わたしの、話を、します」
「『いやあ、リスナーのみなさん、聞いてください。うちの娘が、今週もですね、ごめんなさいと言いまして』」
また、なめらかな声だった。
「……毎週、です」
地元のFMの金曜の番組で、白羽さんの「ごめんなさい」は、毎週放送されていた。
「……母は」
白羽さんは、指を一本立てた。
「『結論から言います。三つあります』」
二本目の指は、立たなかった。
「……三つ目が、終わる、前に。次の、結論が、来ます」
保険の営業成績が、県で一番なのだという。家でも、結論から三つ話す。三つ目の途中で、次の三つが始まる。
「……颯は、弟です。小学五年生、です」
白羽さんは、少し間をおいた。
「……実況を、します」
「『おっと姉ちゃん、ここで味噌汁に手を伸ばしたー! 取ったー! 飲むのか、飲むのか、飲んだー!』」
声が、急に高く、速くなった。目の前に、小学五年生の男子がいた。
白羽さんは、いつもの声に戻って、付け足した。
「……わたしが、お茶碗を、置くと」
「『置いたー!』」
「……って、言います」
真顔だった。
俺は、長机の下で、自分の膝をつかんだ。
「……祖母は」
白羽さんは、そこで、ほんの少しだけ、声を落とした。
「……いちばん、短いです」
「『ことは、背中』」
二語だった。
白羽さんの背筋が、その二語に合わせて、すっと伸びた。言った本人が、言われた本人の姿勢になっていた。
「……それで、背中が、こう、なりました」
定規の出どころが、分かった。
白羽家の朝の食卓を、俺は頭の中で組み立ててみた。
父がラジオの声でおかずを紹介する。母が結論から三つ話す。弟が誰かの箸の動きを実況する。祖母が、ときどき二語で全員を黙らせる。四つの番組を、一台のテレビで同時に流しているような食卓だった。
そのテーブルの端に、白羽さんがいる。
背筋を伸ばして、何も言わずに、焼き鮭を食べている。
◇
雨の音が、また少し強くなった。
白羽さんは、しばらく窓の外を見ていた。家族の声をまねていたときの、なめらかさは、どこにもなかった。
「……わたしも」
白羽さんは言った。
「……話そうと、したことは、あります。……小さい、ころ」
一語。間。一語。間。
「……言いたいことを、頭の中で、組み立てて。組み立てている、あいだに」
白羽さんの右手が、膝の上で、何かを組み立てるように、少しだけ動いた。
「……話は、次に、行きます」
「できた、ときには、もう、誰も、その話を、していません」
雨の音だけが聞こえた。
「……それで、泣きました」
白羽さんの声は、少しも揺れなかった。三か月前の天気を話すような声だった。
「……泣くと、みんな、黙ります。黙って、わたしを、見ます」
「……それが、いちばん、こわかった、です」
七秒、白羽さんは何も言わなかった。
俺の口の中に、言葉がたまった。そうだったんだ、とか。大変だったね、とか。どれも、言えば、ここで話が終わる言葉だった。
俺は、言わなかった。
十秒になった。
「……祖母が」
白羽さんは、また話し始めた。
「……筆を、くれました。六歳の、ときです」
それから、背筋が、少しだけ伸びた。
「『字は、待ってくれる』」
なめらかな声だった。祖母の言葉だった。
白羽さんの声に戻って、続いた。
「……書いている、あいだは、誰も、話を、変えません。紙は、わたしが、書き終わるまで、待って、くれます」
「……それから、泣かなく、なりました」
白羽さんの指が、膝の上で、止まった。
「……でも、学校には」
「……紙が、ありません」
俺は、黙っていた。
「……だから、ごめんなさい、って。言います」
「……ごめんなさい、は、いちばん、早く、終わります。言えば、相手が、それで、話を、終わりにして、くれます」
白羽さんの「ごめんなさい」は、今のところ七種類ある。たぶん、まだ増える。そのどれもが、もとをたどれば、言葉が間に合わない子どもが見つけた、いちばん短い出口だった。
「……吉岡くんの、ときも」
白羽さんの声が、はじめて、かすかに細くなった。
「……みんなが、見ていて。吉岡くんの、友だちが、たくさん、いて」
「……言葉が、間に合わなくて」
「……ごめんなさい、って、言って。走って、帰りました」
「……次の日から、吉岡くんは」
そこで、止まった。
止まったまま、続きは出てこなかった。続きは、俺も知っていた。次の日から、吉岡は「瞬殺」と呼ばれた。春休みのうちに、サッカー部をやめた。
十二秒。
窓ガラスを、水の筋が三本、上から下まで降りていった。
俺は、何も言わなかった。
◇
白羽さんが、顔を上げた。
何かに気づいたような顔だった。顔はほとんど動いていないのに、そう見えた。目が、少しだけ大きくなっていた。
白羽さんは、壁の時計を見た。
それから、自分の右手を、そっと口元に持っていった。指の先で、唇に触れた。
四月に、辞典の保留にした仕草だった。「ごめんなさい」と言ってしまってから、口をふさいだときの手と、同じ形だった。
今日は、その前に、「ごめんなさい」がなかった。
「……最後、まで」
白羽さんは、手を口元に置いたまま、言った。
「……話せ、ました」
俺も、時計を見た。
白羽さんが「……父は」と言ってから、三十二分たっていた。
俺が知るかぎり、白羽さんが、自分の言葉で話したいちばん長い時間だった。たぶん、白羽さんが知るかぎりでも。
何か言うべきだと思った。
頭の中で、いくつか下書きをした。よかったね。すごいね。全部、消した。三十二分のあとに置くには、どれも軽すぎた。
「うん」
俺は言った。
「聞いた」
それだけだった。
白羽さんは、口元から手を下ろした。膝の上で、両手を重ねた。
「……それで」
白羽さんは、もう一度、息を吸った。
「……吉岡くんに」
一語ずつ、置いていった。
「……三か月、遅れの」
「……返事を」
白羽さんは、長机に両手をつき、深く頭を下げた。九十度だった。
「……お願い、します」
声だった。
四月十五日、図書室の棚の前で、白羽さんは同じ言葉を言えずに、人差し指で空中に書いた。〈お・ね・が・い〉。
今日は、声で言った。
「分かった」
俺は言った。
白羽さんが顔を上げるのを待って、もう一度言った。
「書く」
白羽さんが帰ったあと、俺は一人で、雨の窓を見ていた。
三か月前、教室の後ろで、俺は吉岡の話を聞いた。笑っているやつが何人もいた。俺は笑わなかった。何も言わなかった。
三か月遅れなのは、白羽さんだけではなかった。
三か月前に一言で振った相手に、今さら、何を書けばいいのか。
俺はノートを開いた。白紙のページに、一行目が来るのを待った。




