第11話 三か月遅れの返事
変装第二号には、釣り竿がついていた。
五月二十八日、火曜日の放課後。文芸部室の扉が二回ノックされて、白羽さんが入ってきた。
つばの広い帽子。マスク。それから、右手に、釣り竿。
釣り竿は子ども用で、持ち手に戦隊ものの絵のシールが貼ってあった。弟から借りてきたらしい。帽子の下からは、今日も、腰まである黒髪がそのまま流れ出ていた。前回の反省は、髪にも姿勢にも生かされていなかった。かわりに、釣り竿という形で生かされていた。
「……今日は、来ます」
白羽さんは言った。
「……吉岡くんの、ことは。……わたしが、見ないと」
自分が見ていないことは、手紙に「見ました」と書けない。二人で決めたルールの二つ目だ。三か月遅れの返事を、聞いた話だけで書きたくない、ということらしかった。
「それは、分かった。釣り竿は」
白羽さんの人差し指が、空中で動いた。
〈か・わ〉
それから、少し間をおいて。
〈つ・り〉
川には、釣り人がいる。だから、釣り人なら川にいても目立たない。
理屈は合っていた。川と釣り竿は合っていた。制服と釣り竿が合っていなかった。
◇
天神坂を、駅とは反対側に下りきったところに、川が流れている。
河川敷に市のグラウンドがあって、サッカー部は放課後、そこで練習している。グラウンドの上流側には、車も通る古い橋が一本かかっていた。
吉岡航平は、その橋の上にいた。
欄干に両腕をのせて、グラウンドを見下ろしていた。三月までは、あの中にいた男だ。
俺は橋のたもとの、自動販売機の陰に立った。白羽さんは土手を下りて、橋の下の水際まで行き、釣り竿を構えた。背筋は、今日も定規入りだった。川面に向かって、完璧な姿勢で、糸の垂れていない竿を差し出していた。
サッカー部の練習は、グラウンドの半分を使ったミニゲームだった。
吉岡は、ずっとそれを見ていた。ボールを見ているのではなかった。ボールを持っていない選手を見ていた。
十分ほどたったとき、吉岡が、ぼそっと言った。
「……次、右だ」
グラウンドで、背番号のないビブスの二年生が、右サイドの空いたところへ走りこんだ。
「……今なら、通る」
ボールを持っていた一年生は、パスを出さなかった。ドリブルで突っこみ、二人に囲まれて、ボールを取られた。
吉岡の右足が、動いた。
欄干の下で、靴の先が、小さく、何かを蹴るように前へ出た。ボールはない。橋の上だ。それでも右足は、通るはずだったパスの角度で、きっちり振られていた。
本人は、気づいていないようだった。
「お前さ」
吉岡が、こっちを見ずに言った。
まわりには、俺しかいなかった。
「さっきから、あの釣りの人のこと、見てるよな」
俺は、自動販売機の陰で固まった。
この学校で、俺に気づく人は、ほとんどいない。人垣の最前列にだって、誰にもぶつからずに出られる。その俺を、この男は、グラウンドを見たまま見つけていた。
「……友だち」
嘘ではなかった。たぶん。
「ふうん」
吉岡は、橋の下の水際に、ちらっと目をやった。
「糸、ついてないぞ。あの竿」
それから、少しだけ目を細めた。
あの姿勢を、見たのだと思う。三か月前に、自分に「ごめんなさい」と言って走っていった人の、背中の形を。
吉岡は、何も言わなかった。言わないことを選んだように見えた。目を、またグラウンドに戻した。
練習が終わり、部員たちがグラウンドから引き上げてきた。橋の上を、二年生が二人、話しながら通りすぎた。
「吉岡、まだ見てんのかよ」
「戻ってくりゃいいのにな。あいつのパス、来ないと困るんだよ。前線が走っても、誰も出してくんねえ」
二人は、吉岡には声をかけなかった。吉岡も、振り向かなかった。
二人の足音が遠ざかってから、吉岡は欄干から腕を下ろし、反対側へ歩いていった。
俺は、ノートに書いた。
〔見る人。パスを出す人〕
橋の下では、白羽さんが、糸のない竿を、まだ同じ角度で構えていた。
構えたまま、橋の上を見上げていた。吉岡の右足が動いたとき、白羽さんも、それを見ていたはずだった。
◇
謝罪と断りを、一通に入れる。
これまでの断り文句には、謝る段落がなかった。今度の手紙には、要る。三か月前、白羽さんは一言で走って帰った。その分を、まず謝らなければ、断りの段落に入れない。
ただし、「ごめんなさい」とは書かない。
「謝る。でも、ごめんなさいとは書かない」
水曜の放課後、文芸部室で、俺は言った。
「ごめんなさいって書くと、吉岡は、いいよって言うしかなくなる。三か月待たされたうえに、許す役までやらされる」
白羽さんは、うなずいた。四月に一度聞いた話だった。
「だから、自分の間違いだった、って書く。許してくれ、とは書かない」
下書きは、前の晩に書いてあった。
俺は一文ずつ読み、白羽さんは一文ずつうなずいた。
二文目で、首が横に振られた。
「返事が、三か月、遅くなりました」
「……二か月、半、です」
俺は、頭の中で日付を数えた。三月十五日ごろから、今日まで。二か月と、二週間。
題をつけるなら「三か月遅れ」だが、手紙に書くなら、二か月半だった。俺は赤ペンで〔三か月〕を消して、〔二か月半〕と書いた。先週、放送の原稿の間を「一秒、半」と決めた人だ。この人の「半」は、いつも要る。
断りの段落では、俺のほうから一か所、言い方を変えた。
「いつもの言い方だと、わたしの気持ちは、吉岡くんと同じではありません、になる」
白羽さんがうなずいた。
「でも、今の吉岡の気持ちを、俺たちは知らない。二か月半たって、もう白羽さんのことを好きじゃないかもしれない。そうだったら」
「……同じ、です」
白羽さんは、自分で言った。五月に、白羽さん自身が見つけた嘘だった。
「だから、過去形にする。三月の吉岡くんの気持ちと、わたしの気持ちは、同じではありませんでした」
白羽さんは、長いあいだその一文を聞いていた。それから、深くうなずいた。
美点の段落は、橋の上のことを書いた。
ボールではなく、ボールを持っていない人を見ていたこと。次にどこへ走るか、全部分かっていたこと。パスが通るはずだったとき、右足が動いたこと。
「……右足」
白羽さんが言った。
それから、長机の下で、自分の右足を小さく前へ出してみせた。上履きの先が、すっと前へ振られた。パスの角度だった。
橋の下から、ずっと見ていたのだと思う。糸のない竿を構えたまま。
「見ました、って書ける」
白羽さんは、うなずいた。
最後まで読み終えたとき、白羽さんは、うなずかなかった。
首も振らなかった。
かわりに、右手の人差し指が、空中で動いた。ゆっくりと、一文字ずつ。
〈も・っ・と〉
「もっと、何」
白羽さんは、俺のルーズリーフの、一行を指さした。読めないはずの紙の上で、迷わずに、その一行を指さした。
〔あの日、わたしの言葉は、間に合いませんでした〕
謝罪の段落の、理由の一文だった。月曜に白羽さんが話してくれたことから、一行だけもらって書いた。白羽さんの家のことも、紙のことも、俺は書かなかった。人に見せる話ではないと思った。
「……もっと」
白羽さんは、もう一度、声で言った。
「……書いて、ください。……わたしの、こと」
「いいの」
「……吉岡くんの、せいじゃ、なかったって」
白羽さんは、そこで一度、息を吸った。
「……分かって、ほしい、です」
白羽さんが、手紙の中身に意見を出したのは、はじめてだった。
俺は、その一行のあとに、四行足した。
言葉を組み立てるのが遅いこと。組み立てているあいだに、話が先へ行ってしまうこと。あの日は、たくさんの人が見ていたこと。だから、いちばん短い言葉で、逃げたこと。
全部、月曜に、白羽さんが自分の口で話したことだった。俺は、それを順番に並べただけだった。
読み上げると、白羽さんは、四行とも、うなずいた。
清書は、木曜の放課後にした。
白羽さんは、いつもより時間をかけて書いた。足した四行のところで、筆が何度か止まった。
でき上がった手紙を、俺は頭から読んだ。止めとはねを見るのは、癖になっている。
「逃」の字の、しんにょうの最後の払いだけが、細かく震えていた。四月に、図書室のシラノの本から出てきた依頼状の、「傷」の字の払いと、同じ震え方だった。
吉岡航平くんへ
三月に、気持ちを伝えてくれて、ありがとうございました。
返事が、二か月半、遅くなりました。
あの日、わたしは、一言だけ言って、走って帰りました。
あれは、返事ではありませんでした。
返事をしないまま、今日まで来てしまったのは、わたしの間違いです。
あの日、わたしの言葉は、間に合いませんでした。
わたしは、言葉を組み立てるのが、とても遅いです。
頭の中で組み立てているあいだに、話は、いつも先へ行ってしまいます。
あの日は、吉岡くんの友だちが、たくさん見ていました。
だから、いちばん短い言葉を言って、逃げました。
吉岡くんが、何か悪かったのでは、ありません。
この前、橋の上の吉岡くんを、見ました。
吉岡くんは、ボールではなく、ボールを持っていない人を見ていました。誰が次にどこへ走るのか、全部分かっているようでした。
パスが通るはずだったとき、吉岡くんの右足が、少しだけ動きました。
吉岡くんは、見る人で、パスを出す人なのだと思います。
だから、はっきり書きます。
わたしは、吉岡くんとお付き合いすることはできません。
それは、吉岡くんのせいではありません。でも、三月の吉岡くんの気持ちと、わたしの気持ちは、同じではありませんでした。
サッカー部の人が、吉岡くんのパスが来ないと困る、と話していたそうです。
橋の上からではなく、グラウンドの中から、もう一度、パスを出してください。
白羽ことは
五つの約束は、全部守れていた。謝罪の段落にも、「ごめんなさい」は一度もない。
この手紙には、はじめて、白羽さんが自分で選んだ言葉が入っていた。
◇
五月三十一日、金曜日。
昼休みの学食で、百瀬が八十一回目を受け取った。カチッ。〔81〕。
「『あなたの記事は、いつも、最後の一行が明るい』って、書いてくれました! 最後の一行、これからも明るくします! 好きです! 付き合ってください!」
今週の手紙の、いちばん最後に、俺が書いた一行だった。
放課後、白羽さんは、橋の上に立った。
変装はしていなかった。釣り竿も持っていなかった。制服で、両手で封筒を持って、グラウンドを見下ろす欄干の前に立っていた。
俺は、橋のたもとの自動販売機の陰にいた。火曜と同じ場所だった。
吉岡は、いつもの時間に来た。
橋の真ん中に、白羽さんが立っているのを見て、足が止まった。
五秒、どちらも動かなかった。
グラウンドから、ボールを蹴る音と、誰かの「こっち!」という声が上がってきた。
白羽さんが、動いた。封筒を両手で差し出したまま、腰から上を、ゆっくり前に倒していく。
九十度で止まった。
吉岡は、しばらく、直角になった白羽さんを見下ろしていた。三か月前に吉岡が最後に見たのは、走っていく白羽さんの背中だった。今日は、頭を下げた白羽さんの、つむじを見ていた。
それから、封筒を受け取った。
吉岡は、その場で開けた。
欄干に背中を預けて、読んだ。
俺は、自動販売機の陰で、息を止めた。痒くはなかった。今日は、痒いどころではなかった。
吉岡の目が、行を下りていった。謝罪の段落で、一度止まった。足した四行のところで、もう一度止まった。そこからは、なかなか動かなかった。
白羽さんは、まだ直角のままだった。
グラウンドの声が、遠くなったように聞こえた。実際には、何も変わっていなかった。変わったのは、橋の上の静かさのほうだった。
吉岡は、最後まで読んだ。
読み終えて、手紙を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
川の音がした。
「……三秒の返事より」
吉岡が言った。
「こっちのほうが、痛くない」
それから、笑った。
声を出して、短く笑った。三か月ぶんの何かを、まとめて吐き出すような笑い方だった。
「痛くないけど、長いな。二か月半か」
白羽さんが、顔を上げた。
「……ごめんなさい」
謝罪だった。目を伏せた。
吉岡は、それを見て、もう一度笑った。今度は、少しだけ困ったように。
「それ、もういいよ。手紙で、もう謝ってもらったから」
吉岡は手紙を丁寧に畳んで、ブレザーの内ポケットにしまった。
それから、欄干から身を乗り出して、グラウンドを見下ろした。ちょうど、右サイドを誰かが走りこんでいくところだった。
吉岡の右足が、動いた。
今度は、本人も気づいたらしかった。自分の足を見下ろして、小さく舌打ちをして、それから、また笑った。
翌週の月曜、橋の上に、吉岡はいなかった。
河川敷のグラウンドに、練習着が一つ増えていた。右サイドに走りこんだ一年生の足元に、ちょうどいい速さのボールが転がっていった。
◇
金曜の帰り道は、土手の上を歩いた。
天神坂の下までは、白羽さんと同じ道だった。白羽さんが半歩うしろを歩き、俺が前を歩いた。西日が川面に当たって、土手の草が、片側だけ明るかった。
二人とも、しばらく何も言わなかった。言うことがなかったわけではない。橋の上の静かさが、まだ二人ともに残っていた。
坂の下の、分かれ道の手前で、うしろの足音が止まった。
振り返ると、白羽さんが立ち止まっていた。両手で鞄の持ち手を握っていた。
「……あの」
俺も止まった。
白羽さんは、俺の顔を見た。それから、少しだけ息を吸った。
「……ありが」
そこで、止まった。
口が、「が」の形のまま、動かなかった。
ありがとう、の五文字のうち、三文字までだった。残りの二文字が、出てこなかった。白羽さんの口元が、もう一度だけ動きかけて、閉じた。
「……ごめんなさい」
声の高さは、いつもと同じだった。間が、短かった。言い終わっても、目を伏せなかった。
辞典の③、感謝の「ごめんなさい」だった。四月に権田先輩の手紙を渡したあとから、何度か聞いている。分類なら、一瞬でできた。
分類はできたのに、頭の中から「ありが」が出ていかなかった。
三文字だった。辞典のどの番号にも入らない、途中で止まった三文字だった。止まったところまで、白羽さんの声だった。教科書の声でも、放送の声でも、家族のものまねの声でもなかった。
「……どう」
俺は言いかけた。
どういたしまして、と言うつもりだった。四月、体育倉庫の陰で、同じ「ごめんなさい」に返した言葉だ。
「どう」で、止まった。
残りが、出てこなかった。
白羽さんが、少しだけ首をかしげた。俺は口を閉じた。開いた。また閉じた。
二人とも、言いかけの言葉を一つずつ持ったまま、分かれ道に立っていた。
白羽さんが、小さく頭を下げた。
それから、右手の人差し指が、胸の前で何かを書いた。速かった。夕方の光で、指先しか見えなかった。何を書いたのかは、分からなかった。
白羽さんは、自分の家のほうの道へ、歩いていった。背筋は、最後まで定規入りだった。
俺は、白羽さんの背中が角を曲がるまで、そこに立っていた。
その夜、机に向かっても、手紙のことは、一つも考えられなかった。
頭の中にあったのは、「ありが」の三文字と、言えなかった二文字と、言えなかった俺の「どう」のあとの六文字だった。
それから、震えていた「逃」の字の払いと、橋の下で糸のない竿を構えていた背中と、机の下でパスの角度に振られた上履きの先だった。
ノートを開いて、閉じた。もう一度、開いた。
そして、気づいてしまった。
ありがとうの、残りの二文字が聞きたかった。
手紙のお礼としてではなく、俺に向けた、白羽さんの声で。
俺は
白羽ことはのことを、好きになっていた。




