第12話 墨田文也への断り文句・第一稿
好きだと分かった次の瞬間に、怖くなった。
五月三十一日、金曜日の夜。俺は自分の部屋の机の前で、ノートを開いたまま座っていた。
怖さには、覚えがあった。
俺の書いた言葉は、好かれる。俺は、好かれない。
中二の夏に、それを一度、確かめたことがある。何を確かめたのかは、ここには書かない。書けば、その夏の続きまで書くことになる。
だから、この学校のシラノは、恋文を書かない。
白羽さんは、俺の文章を、清書してくれる。俺の文章で泣く人を見て、俺の文章で黙る人を見て、俺の文章を全校に向かって読んだ。
白羽さんが見ているのは、俺の文章だ。
ありが、の三文字も、たぶん、文章へのお礼だった。三か月遅れの返事を書いた文章への。俺に向けた声で聞きたかった、などというのは、俺の勝手な望みだった。
望みは、期待になる。期待は、放っておくと育つ。育った期待は、いつか、本人の前で口から出る。
そうなる前に、殺しておかなければならなかった。
期待を殺す方法なら、知っていた。
断り文句を書けばいい。
期待を残さず、はっきり断る。四月から、俺はそれを仕事にしてきた。
◇
まず、調査をした。
調査対象、墨田文也。二年B組。文芸部、部員一名。前髪が長い。字が汚い。
全校生徒が知っていることは、たぶん、この四つで全部だった。権田先輩のときと同じだ。誰でも知っている良いところでは、断り文句は書けない。
本人も気づいていない良いところを、一つ。
調査は、十分で行き詰まった。本人なので、気づいていないところは、本人には分からない。
仕方がないので、白羽さんの目で見ることにした。白羽さんが、四月から見てきた墨田文也。白羽さんなら、どこを良いところと書くか。
そこで、二十分かかった。
出てきた一行を、俺は、白羽さんの声で読んでみた。読めた。嫌になるくらい、白羽さんが言いそうな一行だった。
宛名は、俺だ。
書き出しは、いつもの書き出しにした。
ただ一つ、いつもと違うことがあった。この断り文句は、俺がまだ書いていない手紙への返事だった。シラノは恋文を書かない。だからこれは、一生書かない恋文への、返事だった。
墨田文也くんへ
お手紙、ありがとうございました。
墨田くんの良いところは、
そこから先は、ここには書かない。
五つの約束は、全部守った。お礼。良いところを一つ。はっきり断る。断る理由を、相手の欠点にしない。最後に、次へ進める一言。
「ごめんなさい」とは、一度も書かなかった。俺は、自分に、許す役をさせなかった。
断る理由の段落で、ペンが止まった。
〔でも、わたしの気持ちは、墨田くんと同じではありません〕
いつもの言い方だ。いつもなら、ここで白羽さんが一文ずつ聞いて、嘘がないかを確かめる。この一文だけは、確かめる方法がなかった。白羽さんに、読んで聞かせるわけにはいかない。
だから、本当だということにした。
本当であってくれないと、困る文だった。
書き終えたのは、午前一時を少し回ったころだった。
頭から、もう一度読んだ。今度は声に出さずに。
いい文章だった。俺が書いたのだから、当然だ。
白羽さんの声で、最後まで聞こえた。読み終えたとき、胸のどこかで、育ちかけていたものが、静かに止まった。
期待が死んだのを確かめてから、俺はルーズリーフのいちばん上の余白に、題を書いた。
〔墨田文也への断り文句・第一稿〕
第一稿、と書いたのは、癖だった。下書きには、いつも稿の番号をつける。
二稿目を書く予定は、なかった。
ルーズリーフを四つに畳んで、黒いノートの、いちばん後ろの、表紙の裏のポケットに入れた。辞典のページの、さらに奥だった。
◇
「お兄ちゃん、年賀状」
土曜の朝、部屋の扉が、ノックなしで開いた。
妹のかなだった。中学二年生。輪ゴムでくくった葉書の束を、何束も抱えていた。
「……六月だけど」
「お父さんが、出せって。うちに来た年賀状、全部」
うちの父は、辞書を作る仕事をしている。今は、挨拶の言葉の用例を集めているらしい。謹賀新年、迎春、賀正。どの言葉が、どのくらい使われているか。そのために、家族の年賀状を何年分も、居間の床に並べているのだという。
「で、お兄ちゃん宛てのぶん、仕分けてたら」
かなは、束の一つを俺の机に置いた。
「四枚しかなかったじゃん」
四枚だった。祖母から一枚。中学の担任から一枚。歯医者から一枚。定期検診のお知らせだった。
「歯医者、入れていいの?」
「入れていい。来たんだから」
「友だちにカウントしていいのかって話」
「……友だちとは言ってない」
かなは、束の中から最後の一枚を抜き出した。
「あと、これ」
写真の年賀状だった。
同じ色のマフラーを巻いた男女が二人、雪の積もった公園で、並んで笑っていた。下に、印刷の字で二人の名前が並んでいる。野々村航。早川結衣。
余白に、丸い手書きの字で、一行。
〔文也のおかげです♡〕
「この二人、毎年来るよね」
かなは、葉書を俺の目の前でひらひらさせた。
「お兄ちゃんのおかげって、何したの」
「……さあ」
「さあ、じゃないじゃん。仲人?」
「中学生に仲人はいない」
「じゃあ、何」
俺は、答えなかった。
かなの手から葉書を受け取った。早川の字の、丸い「お」と、ハートの右の線が、少しだけ長いのを見た。それから机の引き出しを開けて、いちばん奥に入れた。去年の葉書と、その前の年の葉書がある場所だった。
引き出しを閉めた。
かなは、閉まった引き出しを見ていた。
それから、俺の顔を見た。
「……ふーん」
それだけ言って、居間の葉書のほうへ戻りかけた。扉のところで、振り返った。
「お兄ちゃん、昨日、遅くまで電気ついてたでしょ」
「……本を読んでた」
嘘ではなかった。自分で書いたものを、読んでいた。
「目、赤いじゃん」
かなは、それ以上は何も聞かずに、扉を閉めた。
居間のほうから、父の声がした。「かな、これ、賀正に赤ペンで印をつけといて」。父は、家に来た年賀状にも、赤ペンで番号をふる。
俺の頭の中の赤ペンがどこから来たのか、俺は、たぶん知っていた。
◇
六月三日、月曜日。
放課後の図書室は、四月の騒ぎが嘘のように、いつもの人数に戻っていた。白羽さんが閉館まで図書室にいる理由は、もうなくなっていた。依頼は、シラノの本に挟まなくても、文芸部室に二回のノックで届く。
俺は、外国文学の棚の脇の、壁に向いた一人用の机にいた。
閉館の五分前、柳先生の「図書室では静かに」が、今日はじめて聞こえた。それが閉館前の合図だった。
俺は棚へ行き、『シラノ・ド・ベルジュラック』を引き抜いた。
第三幕のページに、紙片が一枚、挟まっていた。
罫線の入ったノートの切れ端だった。四つに折ってあった。開くと、鉛筆の字が二行。止めがしっかりしていて、払いが短い。一画ずつ、駒を置くような字だった。
〔白羽ことはさんへの恋文を、書いてください〕
〔将棋部 桂木歩〕
俺は、その二行を、三回読んだ。
三回読んでも、一行目の最初の五文字は、変わらなかった。白羽ことは。
金曜の夜から、まだ三日しかたっていなかった。
黒いノートの、いちばん奥のポケットには、四つに畳んだルーズリーフが一枚入っている。期待は、あれで殺してある。殺してあるはずだった。
殺してある期待が、紙片の上の五文字を見て、少しだけ動いた。
恋文は、書かない。シラノの決まりの三つ目だ。
だから、この依頼は断る。それで終わりだった。理由を考える必要もなかった。
それでも、頭は勝手に、理由を考えた。
俺がこれを引き受けたら、どうなるか。
俺は、桂木の恋文を書く。白羽さんあての恋文だ。
白羽さんは、それを受け取る。そして、返事は、手紙で。来週の、金曜に。
その返事を書くのは、誰か。
俺だ。
自分で書いた恋文に、自分で断り文句を書く。先手も、後手も、俺が指す。
一人将棋だった。
盤の両側に座って、自分の指した手に、自分で「負けました」と言う。将棋部に頼まれた仕事としては、皮肉が効きすぎていた。
理由は、もう一つあった。
好きな人に向けた、誰かの恋文を、俺が書く。
その形には、覚えがあった。中二の夏と、同じ形だった。
そこまで考えて、俺は考えるのをやめた。
閲覧席の端の机を借りて、返事の紙片を書いた。
依頼人にはいつも、同じページに挟んで返す。読めるように、一画ずつ、できるだけ丁寧に書いた。
〔恋文はお受けしていません〕
十二文字に、三分かかった。
数えてみると、四月に権田先輩が白羽さんに言った告白、〔好きだ! 付き合ってくれ! 押忍!〕と、感嘆符を除けば同じ十二文字だった。どうでもいい一致だった。どうでもいいことを数えずにいられないのは、俺の悪い癖だった。
紙片を第三幕のページに挟んで、本を棚に戻した。
「閉館です」
柳先生の声がした。
俺は鞄を持って、図書室を出た。黒いノートは、鞄のいちばん底に入れた。
断った依頼は、それで終わったはずだった。




