第13話 プロの仕事
白羽さんが、台帳をつけていた。
六月四日、火曜日の放課後。文芸部室の扉が二回ノックされて、白羽さんが入ってきた。片手に購買の紙袋、もう片方の手に、四つ折りの和紙を一枚持っていた。
白羽さんは長机の向かいに座ると、まず和紙を開いて、俺の前に置いた。
〔コロッケパン 台帳〕
〔手紙 六十一通〕
〔支払い 一個(四月十九日)〕
〔未払い 六十個〕
筆ペンの、きれいな楷書だった。表彰状に見えた。
「……これは」
「……借り、です」
白羽さんは言った。
整理券の告白は、あれからも毎日三人ずつ続いていた。量産体制は、もう放課後の日課になっていた。俺は通数を数えていなかった。白羽さんは、数えていたらしい。権田先輩から、昨日の分まで、一通ずつ。
六十一通。そのうち、コロッケパンで払われたのは、四月の一個だけだった。
白羽さんは、紙袋を俺の前に置いた。
口が、二回折ってあった。購買のおばちゃんの折り方だ。中に、コロッケパンが一個入っていた。
「……一日、一個、まで、です」
「何が」
「……おばちゃんが。……一人、一個まで、って」
一日二十個しか売っていないパンを、一人で六十個買われたら、購買が困る。おばちゃんは正しかった。
「……だから」
白羽さんは、少しだけ背筋を伸ばした。
「……分割、です」
分割払いだった。
俺は、頭の中で計算した。
残り六十個。一日一個。土日は購買が開いていない。今日から数えて、夏休みの前までに払えるのは、三十個ちょっと。残りは、二学期に持ち越しになる。
「十月まで、かかるよ」
白羽さんは、うなずいた。最初から分かっていた顔だった。
「代金は取らないって、四月にも言ったけど」
白羽さんの人差し指が、空中で動いた。
〈パン です〉
四月に、体育倉庫の陰で、最初のコロッケパンをもらったときと、同じ空書きだった。代金ではなく、パンです。
論理としては、二か月たっても、何も言い返せなかった。
こうして、俺の放課後には、十月の初めまで毎日、コロッケパンが一個つくことになった。
台帳の字を、もう一度見た。
どの行も、払いの先が、ほんの少し上を向いていた。〔未払い 六十個〕の「六」の点まで、はずんでいるように見えた。
借金の台帳にしては、楽しそうな字だった。
◇
コロッケパンは、昼休みに買ったものなので、すっかり冷めていた。冷めていても、うまかった。
俺がパンを半分食べたところで、白羽さんが口を開いた。
「……恋文は」
俺は、噛むのを止めた。
「……どうして、書かないん、ですか」
シラノは恋文を書かない、というのも、噂の一部だった。去年から、何人も頼んで、何人も断られている。今日の昼休みにも、教室の誰かが「シラノって、恋文だけは書いてくれないんだって」と話していたらしい。
「向いてないから」
俺は言った。
「断り文句のほうが、向いてる」
白羽さんは、俺を見ていた。
それから、右手の人差し指が、胸の前で動いた。二文字だった。
向かい合って書かれた空書きは、左右が逆になる。
読めなかったことにしよう、と俺は思った。
「……今の、何?」
白羽さんは、もう一度書いた。
今度は、さっきの倍くらい大きく、三倍くらいゆっくりだった。一画ずつ、止めとはねまで、空中にきっちり置いていった。
〈う・そ〉
読めないふりができる速さでは、なかった。
五月に、教室で四十人に向かって書かれた〈ち・が・う〉を、ただ一人読めたのは俺だ。今さら、二文字が読めないとは言えなかった。
「……パン、うまいね」
話題を、パンに変えた。
白羽さんは、少しのあいだ俺を見ていた。それから、追いかけてこなかった。
かわりに筆ペンを出して、台帳の下の余白に、二行足した。
〔六月四日 一個〕
〔未払い 五十九個〕
話題は、パンのほうで、きっちり決着がついた。
◇
六月七日、金曜日の昼休み。
俺は文芸部室の窓から、中庭の藤棚を見下ろしていた。藤はとっくに終わって、棚の上は葉ばかりになっていた。その下で、今日も整理券の三人が、三十秒ずつ白羽さんに告白していた。
三人目が、藤棚の下に進み出た。
背の低い、静かな顔の男子だった。胸ポケットに、扇子が一本差してあった。俺は、その顔に見覚えがなかった。名前は、役員が読み上げた。
「七十八番、二年C組、桂木歩さん」
月曜に、シラノの本に紙片を挟んだ人だった。駒を置くような字の人。俺が、〔恋文はお受けしていません〕と返した人。
桂木は、白い封筒を両手で持っていた。
桂木は白羽さんの正面に立ち、きちんと一礼した。
「……お願いします」
対局の始まりの挨拶だった。将棋の棋士は、盤をはさんで、まずそう言って頭を下げる。
役員が、ストップウォッチを押した。
桂木は、頭を下げたまま、封筒を差し出した。それきり、何も言わなかった。
白羽さんは、封筒を見下ろしていた。名前も、「好きです」も、まだ出ていない。練習した一文は、引き金がそろわないと出てこない。白羽さんは、差し出された封筒の前で、背筋を伸ばしたまま固まっていた。
中庭に面した窓のあちこちで、見物人が身を乗り出した。
「十五秒です」
役員が、小さな声で告げた。
桂木は、頭を下げたまま、言った。
「……好きです」
そろった。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
白羽さんは封筒を受け取り、九十度の礼を返した。
「二十六秒です」
桂木は顔を上げ、もう一度、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
対局の終わりの挨拶だった。
将棋は、お願いしますで始まり、ありがとうございましたで終わる。この人の告白も、そうなっていた。
白羽さんの手の中の封筒の角から、赤い紐の端が、ほんの少しだけのぞいていた。
◇
藤棚の三人が終わると、白羽さんはその足で学食へ向かった。金曜の昼は、百瀬の日だ。
俺も、券売機の横の柱の陰へ移った。
百瀬は、学食の真ん中のテーブルの前で、気をつけをして待っていた。白羽さんが八十二回目の手紙を差し出す。九十度。百瀬は両手で受け取り、声に出さずに読み、折り目どおりに畳んで、クリアファイルに入れた。
拡声器を構えた。
「振られ心地、星五つ!」
カチッ。〔82〕。
「『あなたの拡声器は、遠くの人にも、ちゃんと届く』って、書いてくれました!」
今週の手紙の、三段落目に、俺が書いた一行だった。
「だから今日は、近くの人にも届くように、言います!」
百瀬は、拡声器の横のつまみを、いちばん小さいところまで回した。
それから、拡声器を口に当てたまま、ささやいた。
「……好きです。……付き合って、ください」
拡声器を通した、ささやき声だった。
一メートル先の白羽さんには、たぶん、ちゃんと届いた。二百人の学食のほとんどには、届かなかった。届かなかった二百人が、いっせいに身を乗り出して、テーブルが三つほど、がたんと鳴った。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
百瀬は、いつもならここで敬礼して撤収する。
今日は、しなかった。百瀬の目が、白羽さんの手元に吸い寄せられていた。
「白羽先輩、それ!」
拡声器のつまみが、一気に最大まで回された。学食の天井が、びりっと鳴った。
「その赤い紐! 恋文屋さんの栞じゃないですか!」
白羽さんの手には、さっき藤棚で受け取った桂木の封筒があった。角から、赤い紐が一本、のぞいていた。
「恋文屋さん、知りませんか! 二年の、恋文の代筆屋さんです! 依頼を受けて、告白の手紙を書いてくれるんです! 料金は学食の食券三枚! 成功率、九十二・三一パーセント!」
百瀬は、指を折りながら叫んだ。
「廊下の掲示板に、小数点以下二桁まで出てます! 取材は、まだ一回も受けてもらえてません!」
学食が、ざわついた。恋文屋、という名前を知っている人と、知らない人が、半分ずつくらいいた。
俺は、知らなかった。
小数点以下二桁の成功率を掲げる商売が、この学校にあるらしかった。
白羽さんは、手の中の封筒を見下ろしていた。それから、学食のずっと向こう、券売機の横の柱のほうを、ちらりと見た。
◇
放課後、文芸部室の長机に、桂木の封筒が置かれた。
白羽さんは、もう読んだあとだった。封筒から便箋を出し、俺のほうへ向けて、長机の上を滑らせた。
「……読んで、ください」
「白羽さんあての手紙だけど」
「……返事を、書くのは」
白羽さんは、そこで止めた。続きは言わなかった。言わなくても、分かった。
俺は便箋を広げた。
封筒の中には、便箋のほかに、細い赤い紐が一本入っていた。本に挟む栞の紐だった。紐の端が、きれいに結んであった。
字は、桂木の字だった。
月曜に、シラノの本から出てきた紙片と同じ、駒を置くような字だった。一画ずつ、止めがしっかりしていて、払いが短い。桂木が、自分の手で清書したのだと思う。
白羽ことはさまへ
将棋には、「桂馬の高跳び歩の餌食」という格言があります。
前へ跳ぶことしか知らない駒は、跳びすぎると、いちばん小さな歩に取られてしまう。そういう戒めです。
ぼくの名前には、その「桂」の字が入っています。だからぼくは、これまで一度も跳ばずにきました。盤の隅で、自分の番が来るのを待つだけの駒でした。
四月のある朝、廊下ですれちがったあなたの背中を見ました。
まっすぐでした。盤の上のどの駒よりも、まっすぐでした。
あの日から、ぼくの盤面は、あなたのいる一マスを中心に回っています。
詰ませたいのではありません。ただ、同じ盤の前に座りたいのです。
この一手が、歩の餌食になる悪手でもかまいません。
跳ばなかった桂馬のまま、卒業するよりは。
ぼくと、一局、指していただけませんか。
桂木歩
読み終えた。
俺は、胸ポケットから赤ペンを出した。キャップを外した。
他人の文章を読むと、頭の中で赤を入れる。癖だ。権田先輩の十二文字の告白にも、押忍が要らない、と入れた。だから今日も、どこかに赤が入るはずだった。
一行目。格言の引き方が正確で、意味の説明が一文で済んでいる。直すところがない。
二行目。ない。
名前の「桂」に話をつなぐ三行目。うまい。ない。
「盤の隅で、自分の番が来るのを待つだけの駒」。ない。
「あなたのいる一マスを中心に回っています」。比喩が大きすぎないか、と一瞬思った。思っただけだった。前の段落の盤と駒に、きっちり乗っている。ない。
最後の「一局、指していただけませんか」。告白を、対局の申し込みの形に落としている。将棋部の男が言って、いちばん自然な言葉だ。ない。
宛名と署名をのぞいて、十行。
赤ペンの先は、一度も紙に触れなかった。
俺は、浮いたままの赤ペンを見下ろした。それから、キャップを閉めた。閉めるのに、二回かかった。
「……プロの仕事だ」
声に出ていた。
白羽さんが、俺を見た。
「格言で入って、名前に落として、比喩を最後まで一つの盤の上で通してる。構成に穴がない。引用が正確で、一つも浮いてない」
俺は便箋を、もう一度頭から見た。
「ただ」
ただ、と言ったあとが、すぐには出てこなかった。
月曜の紙片の桂木は、二行で頼みごとを書く人だった。〔白羽ことはさんへの恋文を、書いてください〕〔将棋部 桂木歩〕。必要なことだけを、駒を置くように二行。
この手紙の桂木は、十行かけて、高く跳んでいた。
「字は、桂木の字だ。でも、文の中に、桂木がいない」
白羽さんは、少しのあいだ黙っていた。
「……きれい、でした」
白羽さんは言った。
「……でも、桂木くんの、声は」
そこで止まった。続きは、白羽さんの指が、膝の上で書いた。俺には見えなかった。たぶん、俺と同じことを書いた。
俺は、封筒の中の赤い紐を、指でつまみ上げた。
学食で百瀬が叫んだことを、思い出した。恋文の代筆屋。料金は食券三枚。成功率、九十二・三一パーセント。手紙には、赤い紐の栞が一本入っている。
月曜に、俺は桂木の依頼を断った。恋文はお受けしていません、と十二文字で。
桂木は、恋文を諦めなかった。かわりに、別の書き手を見つけた。
その書き手は、俺が直すところを一つも見つけられない恋文を書いた。
俺が断った依頼が、恋文屋の手で帰ってきた。




