第8話 週刊玉砕・号外
自分の書いた文章が、昇降口に貼られていた。
B4一枚に、全文だった。
五月二十日、月曜日の朝。掲示板の前には、人垣が三重にできていた。
俺は、その人垣の前まで出られた。誰も俺に気づかないので、誰にもぶつからずに、隙間を縫って進めた。存在感がないと、人垣の最前列が取れる。今日はじめて知った。
号外は、いつもの週刊玉砕と同じB4だった。ただ、見出しの字が倍あった。
週刊玉砕 号外 玉砕カウンター79
◆白羽ことは先輩の断り文句、全文掲載!
編集長が五月十七日に受け取ったお返事を、白羽先輩の許可をいただいて、全文掲載します!
◆断り文句レビュー
文章 ★★★★★
字 ★★★★★(実物は編集長が持ち歩いています。見せません!)
振られ心地 ★★★★★
痛くなさ ★★★★☆(星一つぶんだけ、ちゃんと痛かったです! それがいい!)
◆特別インタビュー 柔道部主将・権田剛先輩
Q 振られて、どうでしたか。
A 押忍。泣きました。
Q 手紙は、いまどこに。
A 道着の襟の内側っス。毎朝読んでから、乱取りをしています。(編集長注:汗でにじまないように、ビニール袋に入れているそうです!)
Q 地区大会の優勝の秘訣は。
A 受け身っス。
◆検証! 白羽先輩に振られると人生が好転する説
柔道部・権田剛先輩 地区大会、個人優勝!
野球部・大森拓海先輩 紅白戦で、はじめてマスクをかぶる!
三年・早瀬進先輩 朝の勉強の開始が、三十分早くなる!
岩城大河先輩(MCガンキ) 軽音部から、ボーカルのお誘い!
検証結果 四件中、四件、好転!
ただし、編集長が理由を聞くと、四人とも「手紙に書いてあったことを、やっただけ」と答えました。運ではありません! 手紙です!
◆振られ予報
今週金曜の編集長 玉砕確率百パーセント。快晴。
見出しと星のあいだに、先週、俺が文芸部室で読み上げた文章が、活字になって並んでいた。〔百瀬うららさんへ〕から〔白羽ことは〕まで、読点の一つも欠けていなかった。
活字になると、自分の文章は、ますます自分のものに見えなかった。知らない誰かの書いた名文のようだった。清書のときと同じだった。違うのは、それが六百人の通り道に貼ってあることだった。
首の後ろが、痒くなった。
自分の下書きを白羽さんに読み上げたときの痒さが、一だとする。目の前で権田先輩に読まれたときが、三。辞典を本人の前で読み上げたときが、十。
今朝のは、測れなかった。
人垣の中で、声がした。
「『あなたの好きは、軽くない』だって」
「これ、白羽さんが書いたんだよな」
「氷の姫、こんな文章書くんだ」
「書くっていうか、手紙の字もやばいらしいよ。星五つ」
誰も、俺のほうを見なかった。書いた本人が、最前列で痒がっているとは、誰も思わなかった。
〔痛くなさ ★★★★☆〕の一行を、俺はもう一度読んだ。
星一つぶん、ちゃんと痛かった。それがいい、と書いてあった。
あの手紙で、星一つぶん痛くしたのは、三つ目の約束だ。期待を残さない。結論は、はっきり断る。百瀬は、そこまで読んでいた。
それから、検証の欄の最後の二行を読んだ。
運ではありません。手紙です。
正しかった。権田先輩は自分で受け身を取った。大森は自分でマスクをかぶった。手紙は、本人がもう持っていたものを、指さしただけだ。
ただ、人垣の誰も、その二行は読んでいなかった。読んでいるのは、見出しと、星の数だった。
その日の放課後、整理券は四十番台に入った。
◇
その日、俺の文章は、学校じゅうで読まれた。
一時間目のあとの廊下で、二年の女子が三人、号外を写した紙を回していた。二時間目のあとには、一年生の男子が、〔あなたの好きは、軽くない〕を声に出して読み、隣の男子に「重っ」と言われて、笑っていた。三時間目のあとには、誰かが黒板の隅に〔軽くない〕とだけ書いた。四時間目の数学の先生は、それを消さずに授業をした。
昼休み、購買へ向かう途中、学食の前の廊下まで、三年生のテーブルの品評会が聞こえてきた。
「二段落目の、校長と、おばちゃんと、自販機。あの並べ方がいい」
「わかる。三つ並べて、最後が自販機なのがいい」
「でも『大きな声でした』は、ちょっと失礼じゃね?」
失礼ではない。大きな声だったのは事実で、事実を書いたうえで、はじめてです、と受け止めている。あの一文がないと、二段落目の「ちゃんと見る人」が浮く。
俺は、廊下の壁ぎわで、口の中で反論した。口からは、一語も出なかった。いつもどおりだった。
教室では、白羽さんが囲まれていた。
「白羽さん、号外読んだよ」
「すごいね、文章」
「どうやったら、あんなの書けるの」
白羽さんは、そのたびに、小さく頭を下げた。
「……ごめんなさい」
褒めた人たちは、謙遜だと思ったらしい。「えー、謙虚」「さすが」と言いながら、満足そうに離れていった。
俺の席からは、白羽さんの「ごめんなさい」の間が、よく聞こえた。間が長く、言い終わると、必ず目を伏せていた。
謙遜ではなかった。辞典の①、謝罪の「ごめんなさい」だった。
◇
放課後、文芸部室の扉が二回ノックされた。
白羽さんは入ってくるなり、長机の前で、深く頭を下げた。九十度だった。
「……ごめんなさい」
これも、謝罪の「ごめんなさい」だった。今日聞いたうちで、いちばん深かった。
「白羽さんが謝ることじゃ」
「……許可」
白羽さんは、頭を下げたまま言った。
「……わたしが、出しました」
号外の一行目を、俺は思い出した。白羽先輩の許可をいただいて。
「……金曜の、放課後、百瀬さんが、来て。……載せて、いいですかって」
白羽さんは顔を上げた。
「……断ったら、理由を、聞かれます」
そうだった。書いたのは自分ではないから載せないでほしい、とは言えない。二人のルールの一つ目だ。かわりの理由を作れば、それは嘘になる。白羽さんに残っていた答えは、一つしかなかった。
「それで、どうぞ、って」
白羽さんは、うなずいた。
「……相談、しないで」
そこまで言って、白羽さんは口を閉じた。誰に、が抜けていた。抜けていても、分かった。言い終えた口が、きゅっと結ばれていた。
「いいよ」
俺は言った。言ってから、理由を足した。
「あの手紙は、百瀬のものだ。渡した時点で、受け取った人のものになる。百瀬が載せたいなら、載せていい」
白羽さんは、俺を見ていた。
「痒いのは、俺の問題だから」
「……痒い」
「自分の文章が読まれると、首の後ろが痒くなる」
白羽さんは、少し黙った。それから、ほとんど聞こえない声で言った。
「……みんな、わたしが、書いたって」
褒められるたびに、謝罪の「ごめんなさい」。白羽さんは今日一日、自分の書いていない文章で褒められ続けて、そのたびに謝っていた。
「それでいいんだ」
俺は言った。
「そういう決まりにしたのは、俺たちだから。それに、全部が嘘なわけじゃない」
俺は鞄から号外を出して、長机に広げた。〔断り文句レビュー〕の欄を指さした。
「字の星五つは、白羽さんのだ」
白羽さんの目が、星の上で止まった。
「……文章の、星は」
「俺がもらっとく。黙って」
白羽さんはしばらく星を見ていた。それから、人差し指を一本出して、一つ下の行を指さした。〔振られ心地 ★★★★★〕。
「……これは」
「……半分ずつ」
白羽さんは、うなずいた。
残ったのは、〔痛くなさ ★★★★☆〕だった。欠けている星一つは、三つ目の約束を決めた俺のせいだ。それも、もらっておくことにした。
白羽さんの右手が、膝の上で小さく動いた。何を書いたのかは見えなかった。昨日までより、少しだけ、ゆっくりだった。
◇
五月二十一日、火曜日。三時間目は、現代文だった。
担任の北条先生は、国語の先生でもある。教科書の随筆を、出席番号順に、一段落ずつ読ませていく。前の席の男子が読み終えたところで、先生は名簿に目を落とした。
「次。白羽、その段落の終わりまで」
白羽さんが立った。
教科書を両手で持ち、背筋を伸ばした。いつもの定規入りの姿勢に、もう一本足したような立ち方だった。
息を一つ吸った。
読み始めた。
最初の一文で、教室の空気が変わった。
声が、澄んでいた。大きくはないのに、窓際から廊下側のいちばん後ろの俺の席まで、まっすぐ届いた。読点のところで、ほんの少しだけ息をつぐ。句点のところで、一拍置く。その長さが、全部正しかった。書いた人が、ここで息を吸ってほしいと思った場所で、白羽さんは息を吸っていた。
前の席で居眠りをしていた男子が、顔を上げた。シャープペンシルをかちかち鳴らしていた女子の指が止まった。
北条先生が、持っていた教科書を、少しずつ下ろしていった。
段落の終わりが来た。
白羽さんは止まらなかった。
次の段落に入った。先生は止めなかった。止めるのを忘れていた。誰も、止めてほしくなかった。
三つ目の段落。四つ目の段落。ページをめくる音だけが、声の合間に一度ずつ挟まった。
俺は、数えていた。いつもの白羽さんの言葉は、必ず「……」から始まる。一語ごとに止まり、ときどき途中で迷子になる。
四ページのあいだ、「……」は一つもなかった。
最後の一文を読み終えて、白羽さんは教科書を閉じた。
座った。
教室は、しんとしていた。誰かが一度だけ拍手をして、一人だったことに気づいて、やめた。
北条先生は、自分の教科書を閉じて、もう一度開いた。どこまで進んだのか、分からなくなったらしい。随筆は、最後まで終わっていた。
「……ありがとう。じゃあ、白羽」
先生は、咳払いを一つした。
「この筆者は、最後の段落で、どんな気持ちだったと思う?」
白羽さんが、もう一度立った。
口が開いた。閉じた。もう一度開いた。
机の下で、白羽さんの右手の人差し指が、何かを書きかけて止まった。書きかけては、止まった。
「……ごめんなさい」
間が長く、言い終えて、目を伏せた。謝罪の「ごめんなさい」だった。
「いい、いい。座って」
先生は笑って言った。教室の空気がゆるみ、あちこちで小さな声が上がった。音読やば。いまの何。声優かよ。
白羽さんは座り、教科書の表紙の上に、両手を重ねて置いた。それきり、授業の終わりまで顔を上げなかった。
四ページのあいだ一度もつかえなかった人が、自分の考えを聞かれた一言で、止まった。
俺は、ノートの端に線を一本引いて、両側に書き分けた。
つかえないもの。教科書の随筆。LINEの時候の挨拶。拝啓と敬具。俺の書いた断り文句。それから、「返事は、手紙で。来週の、金曜に」。
つかえるもの。「この筆者はどう思ったか」。自分がどう思ったか。
時候の挨拶は、誰かがずっと昔に作った言葉だ。随筆は、筆者の言葉だ。断り文句は、俺の言葉だ。あの練習した一文は、たぶん、何度も練習しているうちに、白羽さん自身のものではなくなったのだと思う。
他人の書いた言葉なら、白羽さんはどこまでもきれいに読める。
そして、一度読み始めると、最後まで止まれない。
俺は、自分の書いたばかりの線を見下ろした。俺の断り文句は、左側にあった。白羽さんの声でいちばんきれいに読まれるのは、白羽さんの言葉ではない言葉だった。
それが、俺の言葉だった。
少しだけ誇らしくて、少しだけ寂しかった。どちらが大きいのかは、分からなかった。
◇
翌日の昼休み。教室で弁当を開けたところで、スピーカーからチャイムが鳴った。
昼の放送の、いつもの音楽ではなかった。チャイムのあと、しばらく何も聞こえなかった。マイクの前で、誰かが息を吸う音だけがした。
それから、震える男子の声がした。
「……二年の、白羽ことはさんに、伝えたいことがあります」
窓側の前から二番目の席で、白羽さんの箸が止まった。




