第7話 玉砕姫、通算七十九回目
拡声器で告白された人を、俺ははじめて見た。
拡声器で告白した人も、はじめて見た。
学食の入口に立っていたのは、小柄な一年生だった。白羽さんより頭一つ低い。明るい茶色の髪を左右の高いところで結んでいて、毛先が四方に跳ねている。左腕に〔報道〕の腕章。首からはデジカメと、手のひらに収まるくらいの、銀色の小さな機械を下げていた。
二百人が、箸を止めて彼女を見ていた。
「百瀬だ」
「玉砕姫だ」
「今度は白羽さんかよ」
ざわめきの中に、「今度は」が混じっていた。どうやら、これがはじめてではないらしい。
彼女は拡声器を構えたまま、テーブルのあいだを、まっすぐ歩いてきた。
白羽さんは、野球部の長テーブルの前で、さっきの直角から戻ったばかりの姿勢のまま立っていた。彼女は白羽さんの一メートル手前で止まり、拡声器を下ろさずに言った。
「一年A組、新聞部、百瀬うららです!」
一メートルの距離で、拡声器だった。白羽さんの前髪が、揺れた。
「先輩が、購買のおばちゃんに、九十度でお辞儀してるの、見ました! パン一個に、九十度! 好きです!」
告白に、理由が一つ付いていた。顔のことでも、髪のことでもなかった。
パン一個に九十度。そのパンの行き先を、俺は知っていた。柱の陰で、俺は少しだけ小さくなった。
白羽さんは、百瀬を見下ろした。
「……ごめんなさい」
間が短く、語尾が上がった。⑦だ。驚いている。当然だった。
それから、白羽さんは一度だけ息を吸った。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
名前と、好きです。両方そろっていた。あの一文は、今日も引き金を選ばなかった。
百瀬の目が、丸くなった。
「手紙!?」
拡声器ごと、一歩前に出た。
「振られるのに、手紙もらえるんですか!? 最高じゃないですか!」
学食の天井で、その声がもう一度跳ね返った。
白羽さんが、頭を下げた。九十度だった。
その瞬間、フラッシュが光った。百瀬が、首から下げたデジカメを片手で構えていた。直角の白羽さんが、新聞に載ることが決まった瞬間だった。
百瀬はデジカメを下ろすと、首から下げた銀色の機械に、親指をかけた。数取器だった。交通量の調査で、人がかちかち押しているあれだ。窓の数字は、〔78〕だった。
親指は、押さなかった。
「カウントは、お手紙をいただいてからにします!」
それから百瀬は、右手を額に当てて、きびきびと敬礼した。
「百瀬うらら、撤収します!」
来たときと同じ速さで、テーブルのあいだを戻っていった。入口で一度振り返り、もう一度敬礼して、消えた。
学食の隅で、きつねうどんを食べていた生徒会の役員が、首から下げたストップウォッチを見つめていた。反射で押してしまったらしい。
「……二十八秒」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。整理券は持っていなかったはずだが、三十秒には収まっていた。
ざわめきが戻ってきた。
白羽さんは、顔を上げたまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと首を回して、券売機の横の柱を見た。
俺のいる柱だった。最初から知っていたらしい。
白羽さんは何も言わなかった。右手も動かなかった。ただ、少しだけ長く、こっちを見ていた。
俺はノートを出して、正の字に一画足した。三つと、四画。
十九通目は、拡声器でやってきた。
◇
月曜の朝、昇降口で、拡声器が鳴っていた。
「週刊玉砕、最新号です! おはようございます! 週刊玉砕です!」
百瀬は下駄箱の前に立ち、登校してくる生徒の一人一人に、B4の紙を一枚ずつ差し出していた。受け取る人も、受け取らない人もいた。受け取らない人にも、百瀬は同じ声で「おはようございます!」と言った。
俺は受け取った。俺に紙を差し出したとき、百瀬は俺の顔を見なかった。俺の手元だけを見ていた。存在感がないというのは、こういうときも便利だ。
週刊玉砕 第五号 玉砕カウンター78
◆編集長、二年の白羽ことは先輩に告白!
五月十日(金)昼、学食にて。返事は、なんと、手紙! 受け取りは来週金曜の予定。振られ心地は、来週号で詳しく報告します!
◆振られ予報
来週金曜の編集長 玉砕確率百パーセント。晴れ。
◆お知らせ
生徒会の整理券は、一年生には配られていないそうです。編集長は持っていません。ごめんなさい!
最後の一行で、俺は少し立ち止まった。俺の書く断り文句には一度も出てこない言葉が、新聞の隅に、感嘆符つきで、軽々と載っていた。
題字の横の玉砕カウンターは、78。数取器の窓と同じ数字だった。
◇
バックナンバーは、図書室にあった。
新聞棚の、地元紙の隣に、紙ばさみが一冊差してあった。背に、柳先生の字で〔週刊玉砕〕。毎週一部ずつ、綴じているらしい。
放課後、俺はいつもの壁向きの机で、第一号から順に読んだ。
第一号は、四月の半ばの号だった。〔編集長紹介〕の欄に、こう書いてあった。〔一年A組 百瀬うらら。中学までの玉砕、通算七十五回。高校でも元気に玉砕します!〕。七十五回の内訳は、どこにも書いていなかった。
同じ号の〔今週の玉砕〕は、校長だった。
校長先生、好きです! 毎朝、校門で、生徒の名前を一人ずつ呼んで「おはよう」と言ってくれるところが好きです! 六百人、全員の名前を覚えているそうです! 告白したら「ありがとう。でも校長先生には、校長先生の奥さんがいます」と言われました! 玉砕! 七十六回目!
第二号は、購買のおばちゃんだった。
購買のおばちゃん、好きです! パンを入れた紙袋の口を、毎回、二回折ってくれるところが好きです! 一回だと開いちゃうから、だそうです! 告白したら「はい、焼きそばパン」と言われました! 返事が焼きそばパンでした! 玉砕! 七十七回目!
俺は、読む目を止めた。
四月十九日、体育倉庫の陰で、白羽さんにもらったコロッケパンの紙袋。口が、きっちり二回折ってあった。俺はあれを、白羽さんの几帳面さだと思っていた。
違った。おばちゃんだった。
毎日あの袋を受け取っていた何百人のうち、二回折ってあることに気づいて、それを好きだと言ったのは、たぶんこの一年生だけだった。
第三号の〔今週の玉砕〕は、一行だけだった。〔今週は、好きなものを探していました! 来週に期待!〕
第四号は、コーンスープの自販機だった。
本館一階のコーンスープの自販機、好きです! 最後の一本まで、ちゃんと熱いところが好きです! 告白した瞬間に、売り切れのランプが点きました! 正直! 玉砕! 七十八回目!
カウンターの中で、柳先生の肩が震えていた。今日の分の地元紙を整理するふりをして、手元に第四号のコピーを広げていた。
図書室では静かに、と俺は言わなかった。
俺は紙ばさみを閉じて、しばらく天井を見た。
校長。購買のおばちゃん。自販機。好きの相手は、めちゃくちゃだった。軽い、と言われても仕方がない。自販機に告白する人の「好き」は、たぶん、誰が聞いても軽い。
でも、どの「好き」にも、理由が一つずつ付いていた。名前を呼ぶ声。二回折る袋の口。最後の一本まで熱いスープ。誰も気にしていなかった良いところを、一つだけ見つけて、それを好きだと言っていた。
学食で白羽さんに言ったのも、顔のことではなかった。パン一個に九十度。
俺がこの一か月、断り文句の二段落目でやっていることと、同じだった。
この一年生は、良いところを見つける天才だった。そして、見つけたものを、大声で本人に言いに行く。俺には、そっちができない。
◇
十三番から十八番の六通は、月曜と火曜で片づいた。量産体制は、もう体に入っていた。
白羽さんは月曜に、筆ペンを箱で買ってきた。十本入りだった。予備の考え方が、先週から変わったらしい。
水曜の放課後、残ったのは百瀬の一通だけだった。
俺は最初、百瀬の声で書いた。相手の言葉に合わせるのは、いつものやり方だ。捕手には捕手の言葉で、韻には韻で返した。新聞の人には、新聞の調子で返せばいい。
「読むよ」
白羽さんがうなずいた。
「百瀬さん! 学食での告白、しっかり受け取りました!」
白羽さんの首が、横に振られた。
一文目だった。
「……わたしは」
白羽さんは、小さな声で、はっきり言った。
「……びっくりマークを、使いません」
俺は、ルーズリーフを見下ろした。感嘆符が、一枚に十四個あった。
これは、白羽さんの名前で出す手紙だった。百瀬の声に化けたら、白羽さんの声のほうが、嘘になる。韻は中身だから踏めた。でも、白羽さんの文に、感嘆符は出てこない。
俺はルーズリーフを裏返した。感嘆符十四個ぶん、遠回りをした。
「白羽さん、これ、読んでみて」
俺は柳先生に借りてきた紙ばさみを、長机に置いた。週刊玉砕の、第一号から第五号まで。
白羽さんは一号ずつ、ゆっくり読んだ。手書きではなく活字なので、白羽さんにもちゃんと読める。校長の号で、少し目が止まった。購買のおばちゃんの号で、もっと長く止まった。
白羽さんは、自分の右手を見た。
それから、もう一度、紙面を見た。
「……袋」
「二回、折ってあった」
「……知りません、でした」
白羽さんは、それきり黙った。
黙ったまま、紙面の〔二回折ってくれるところが好きです!〕の一行を、指でなぞった。四月十八日に、封筒の宛名をなぞったときと、同じ指の動きだった。
部室が、しばらく静かだった。窓の外の中庭で、誰かが笑う声がした。
「……この人は」
白羽さんが、やっと言った。
「……見て、から、好きって、言う人、です」
俺も、そう思った。
感嘆符のない下書きは、一時間でできた。
俺は一文ずつ読み、白羽さんは一文ずつうなずいた。一度も首を横に振らなかった。ある一文のところで、うなずくのが、いつもより少し遅かった。遅かったけれど、深かった。
清書は、新しい箱の一本目でした。
百瀬うららさんへ
学食で、気持ちを伝えてくれて、ありがとうございました。
大きな声でした。あんなに大きな声で、好き、と言われたのは、はじめてです。
あなたの新聞を、第一号から読みました。
校長先生の、名前を呼ぶ声。購買のおばちゃんの、二回折る袋の口。自動販売機の、最後の一本まで熱いスープ。あなたが好きになったものには、ほかの人が気づかなかった良いところが、一つずつ書いてありました。
わたしも、あの袋を受け取ったことがあります。二回折ってあることに、気づきませんでした。
あなたは、好きと言う前に、ちゃんと見る人だと思います。
だから、わたしは、あなたの好きを、軽いとは思いません。
あなたの好きは、軽くない。だから、ちゃんと断ります。
わたしは、あなたとお付き合いすることはできません。
それは、あなたのせいではありません。でも、わたしの気持ちは、あなたと同じではありません。
あなたが次に見つける良いところを、また、新聞で読ませてください。
白羽ことは
五つの約束は、全部守れていた。「ごめんなさい」も、感嘆符も、一つもない。
清書した和紙を、俺は頭から読んだ。止めとはねを見るのは、癖になっている。
「軽」の字だけ、筆圧が強かった。墨が、ほかの字より少しだけ濃く、紙に沈んでいた。軽い、という字を、白羽さんは、いちばん重く書いていた。
◇
五月十七日、金曜日の昼休み。学食は、満席だった。
食べていない人もいた。立っている人もいた。月曜の週刊玉砕に「受け取りは来週金曜の予定」と書いてあったせいだ。先週と違って、今週は二百人全員が、これから何が起きるかを知っていた。
俺は先週と同じ、券売機の横の柱の陰に立った。
百瀬は、学食の真ん中のテーブルの前に立っていた。首に数取器とデジカメ。拡声器は、今日は足元に置いてあった。
白羽さんが入口に現れると、学食が端から静かになった。白羽さんは、まっすぐ百瀬の前まで歩いた。百瀬は、気をつけの姿勢をとり、敬礼した。
「百瀬うらら、受け取りに参りました!」
白羽さんが、白い封筒を両手で差し出した。腰から上を倒していく。九十度。
百瀬は、封筒を両手で受け取った。
その場で開けた。
二百人が、身を乗り出した。百瀬うららなら、声に出して読む。誰もがそう思っていた。俺もそう思っていた。たぶん、拡声器で読む。
百瀬は、読まなかった。
声に出さずに、読み始めた。
学食が、静かになった。さっきまでの静かさとは違った。誰かが、持ち上げかけた湯のみを、音を立てないように机に戻した。
百瀬の目が、便箋の上を下りていった。
ある行で、止まった。
それから、もう一度、いちばん上から読み直した。
唇が一度だけ、何かの形に動いた。声にはならなかった。
十秒。二十秒。三十秒。
百瀬うららが黙っているのを、俺は、このときはじめて見た。
百瀬は、手紙を畳んだ。
白羽さんが折ったとおりの折り目に、指を一本ずつ沿わせて、ゆっくり三つに畳んだ。それから、鞄の中から透明なクリアファイルを一枚出した。何も入っていない、新品だった。手紙を封筒に戻し、その封筒を、クリアファイルの真ん中に、角をそろえて入れた。
クリアファイルを胸に抱えて、百瀬は顔を上げた。
足元の拡声器を拾った。
「振られ心地!」
学食の天井が、びりっと鳴った。
「星、五つ!」
親指が、数取器を押した。
カチッ。
窓の数字が、〔79〕になった。
「七十九回目! 玉砕です!」
二百人が、いっせいに息を吐いた。それから、誰からともなく拍手が起きた。振られた人への拍手は、先週の投手五人から、二百人に増えていた。
拍手がまだ鳴っているうちに、百瀬は拡声器を構え直した。
「白羽先輩!」
学食が、もう一度静かになった。
「『好きと言う前に、ちゃんと見る人』って、書いてくれました! 二回読みました! だから、来週までに、先輩のこと、もっとちゃんと見てきます! 取材です!」
一拍、置いた。
「好きです! 付き合ってください!」
振られて、十秒後だった。
白羽さんは、まばたきを一つした。名前と、好きです。そろっていた。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
「はい! 来週も、受け取りに来ます!」
百瀬は敬礼し、クリアファイルを抱えたまま、来たときと同じ速さで学食を出ていった。
こうして、金曜の昼の学食は、毎週の儀式になった。
百瀬が前の週の返事を受け取り、数取器を押し、その場で次の告白をする。来週は、八十回目だ。
柱の陰で、俺はノートを開いた。正の字の横に、小さく〔百瀬 毎週〕と書いた。書いてから、それがどういう意味か考えて、少しだけ気が遠くなった。
それでも、あの三十秒の沈黙を思い出すと、首の後ろが痒くなった。俺の書いた文の前で、あの声の大きな一年生が、黙った。
嫌な痒さでは、なかった。
◇
月曜の朝、昇降口の掲示板の前に、人だかりができていた。
人垣の向こうに、B4の紙が一枚、四隅を画鋲でとめて貼ってあった。いつもの週刊玉砕より、見出しの字が倍くらい大きかった。
〔週刊玉砕 号外〕
〔白羽ことは先輩の断り文句、全文掲載!〕
その下に、俺の書いた文章が、一字一句そのまま、活字で並んでいた。




