第6話 量産体制
告白に、制限時間がついた。
五月八日、水曜日の昼休み。文芸部室の窓の下、中庭の藤棚の前に、男子が三人並んでいた。整理券の十番、十一番、十二番だ。
藤はもう盛りを過ぎていて、紫の房の先に、花が少し残っているだけだった。その下に、白羽さんが立っていた。背筋は今日も定規入りだった。少し離れたところに久世が手を後ろに組んで立ち、その隣で、昨日の役員がストップウォッチを構えていた。
中庭に面した窓は、全部開いていた。二階の渡り廊下には、手すりに沿って人が鈴なりになっていた。文芸部室は三階にある。いちばん見やすい席だった。この部屋に一年いて、窓の外が役に立ったのは、はじめてだった。
「十番の方、どうぞ」
役員の声で、十番が藤棚の下へ進んだ。手にメモを持っていた。
「白羽さん。僕がはじめてあなたを見たのは、去年の四月、入学式の日の」
入学式から始まった。
「残り十秒です」
十番はメモを見た。まだ半分も来ていなかった。彼は息を吸い、残りの半分を、競りのような速さで読み上げた。最後の「好きです」は、ほとんど一語だった。
「二十九・八秒です」
渡り廊下から、拍手が起きた。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
十一番は、手ぶらだった。藤棚の下に立つなり、言った。
「好きです」
「一・八秒です」
役員は言い、少し間をおいて、付け足した。
「会長の記録を、更新しました」
久世は、深くうなずいた。口が、見事です、と動いたように見えた。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
十二番は、十五秒だった。特に何も起きなかった。
白羽さんの返事は、三回とも、昨日と寸分たがわなかった。
藤棚の柱には、貼り紙が一枚、画鋲でとめてあった。整理券の配布場所の案内らしかった。久世の字だった。誰にも読めなかったので、配布場所を聞きに来る人で、藤棚の横にもう一つ列ができていた。
俺はノートの隅に、正の字を書いた。
昨日の九人に三人を足して、十二。正が二つと、二画。
期限は、全員、来週の金曜だった。
◇
手紙を書くには、まず、その人の本当に好きなものを見つけなければならない。
調査は、俺一人でやった。白羽さんが行けば、柔道場の二の舞になる。俺なら、どこに立っていても、誰も気づかない。
放課後のグラウンドの端に、野球部のブルペンがある。
七番の大森は、そこにいた。試合に出る捕手ではない。控えだ。そのかわり、投手が五人、順番に彼に向かって投げていた。大森は一球ずつ、全部受けた。ミットが鳴るたびに、短く何か言った。「今の、いい」「低め、最高」。言われた投手が、少し笑う。
フェンスの外で、一年生の部員が話しているのが聞こえた。
「大森先輩が受けると、球が速く聞こえるんだよな」
ミットの鳴らし方というものがあるらしい。受けた球を、いちばんいい音にして、投げた人に返す。
大森が本当に好きなのは、受けることだった。
三番の早瀬先輩は、探さなくてよかった。
図書室の窓際の閲覧席に、去年の秋から、毎日閉館までいる三年生がいる。顔は知っていた。名前を知らなかっただけだ。
机の上に、輪ゴムで束ねた単語帳が三冊。どれも角が丸くなっていた。一冊目の表紙の裏に、大学の名前が書いてあった。ほかのページの字は急いでいるのに、そこだけ、一画ずつ丁寧だった。
字を見れば、だいたい分かる。早瀬先輩が本当に好きなのは、その大学だった。
八番の岩城は、駐輪場の裏にいた。
スマートフォンで小さく音楽を流して、一人で韻を踏んでいた。聞いている人はいない。自転車が並んでいるだけだ。俺は植えこみの陰で、十分ほど聞いた。
ばあちゃんの味噌汁のこと。朝のバスの運転手が、毎朝「おはよう」と言ってくれること。購買のおばちゃんが、パンを一個おまけしてくれた日のこと。
十分のあいだ、彼は誰のことも悪く言わなかった。韻を踏んだのは、全部、誰かへのお礼だった。
岩城が本当に好きなのは、韻で、ありがとうと言うことだった。
ほかの人も、同じ要領で調べた。
一番のカーネーションの男子は、駅前の花屋の息子だった。俺の推理は半分当たっていた。彼が好きなのは花で、もっと正確に言うと、花を包むことだった。
二番の五円玉の男子は、御朱印帳を三冊持っていた。作法が正しかったのは、そのせいだった。
残りの人にも、一人ずつ、本気で好きなものがあった。
俺はノートに、十二人の本当に好きなものを並べた。花を包むこと。神社。第一志望。球を受けること。韻で、ありがとうと言うこと。ほかに、六つ。
白羽さん、と書いたのは、九番の欄だけだった。
◇
本当に好きなものが分かっていれば、書くことは決まっている。
水曜の夜に、七通書いた。木曜の休み時間に、三通書いた。残りの二通は、昼休みに書いた。そのあいだ中庭では、十三番から十五番が、三十秒ずつ告白していた。
正の字が、三つになった。
木曜の放課後、文芸部室の長机には、ルーズリーフが十二枚積んであった。
向かいには、白羽さんが和紙の束と筆ペンを並べて座っていた。今日は文鎮が二つあった。
「一番から、読むよ」
俺が一文読む。白羽さんがうなずく。もう一文読む。うなずく。うなずかなかったら、赤ペンで直す。最後まで行ったら、次の一枚。
一通を読むのに二分。嘘がないか確かめるのに三分。直すのに一分。自分の文章を声に出すのは相変わらず痒かったが、十二回目には、痒いのか慣れたのか、もう分からなくなっていた。
七番の大森には、捕手の言葉で書いた。
大森くんは、ど真ん中に、と言いました。
だから、ど真ん中に投げます。わたしは、大森くんとお付き合いすることはできません。
大森くんが受けると、球が速く聞こえる、と一年生の人が話していたそうです。受けた球を、いちばんいい音にして、投げた人に返すのだと聞きました。
大森くんが本当に好きなのは、受けることだと思います。その好きは、本物です。
この返事も、いい音で受けてもらえたら、うれしいです。
三番の早瀬先輩には、下書きの段階で一か所、赤ペンを入れた。
はじめは〔落ち着いて〕と書いていた。受験生への手紙に「落」の字は使えない。〔ゆっくり〕に直した。ついでに全文を見直して、「滑」と「散」がないことも確かめた。断り文句で振るのはいいが、受験で落とすわけにはいかない。
早瀬先輩が好きなのは、わたしではなく、第一志望の大学だと思います。
その好きは、本物です。
先輩の単語帳の表紙の裏には、大学の名前が、一画ずつ丁寧に書いてあると聞きました。好きなものの名前は、誰でも丁寧に書くのだと思います。
だから、わたしは、先輩とお付き合いすることはできません。先輩が本当に好きなものの邪魔は、したくありません。
春まで、ゆっくり、まっすぐ。先輩の春に、桜が咲きますように。
八番の岩城には、韻で返した。
岩城くんは、人生の転機、と言いました。
でも、わたしの返事で変わるのは、せいぜい明日の天気の話題くらいです。
岩城くんを変えるのは、岩城くんの言葉だと思います。駐輪場の裏で、岩城くんは、ありがとうばかりで韻を踏んでいたと聞きました。
だから、わたしも本気で書きます。お付き合いは、できません。
次のマイクも、元気で。
転機。天気。本気。元気。四つ踏んだ。
白羽さんはこれを筆ペンで清書した。韻が、掛け軸になった。
清書は、部室で二通できた。大森と早瀬先輩の分だ。
大森の手紙を乾かしているあいだ、俺は白羽さんの字を、頭から眺めていた。止めとはねを見るのは、もう癖になっている。「受」の字の最後の払いが、すっと伸びて、紙の端でぴたりと止まっていた。
「きれいだ」
口から出ていた。
白羽さんが顔を上げた。
「……字が」
付け足すまでに、二秒かかった。
白羽さんは俺を見たまま、少し黙った。それから小さく言った。
「……ごめんなさい」
声が小さく、語尾がほとんど消えていた。目は伏せなかった。かわりに、右手の人差し指が、膝の上で空中に何か書いていた。今まで見たうちで、いちばん速かった。何を書いたのかは、まったく読めなかった。
照れている、のだと思った。褒められると、空書きが速くなるらしい。
俺は話題を、「受」の字の筆順に変えた。
残りの十通は、白羽さんが持って帰った。家で清書してくるという。
その夜、九時十二分に、LINEが届いた。
【白羽】拝啓 立夏の候、墨田様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
いつもの書き出しだった。便箋三枚分の本文を読み進めると、途中で「謹んでご報告申し上げます」という一文があった。
要約すると、筆ペンが一本、死んだ。五通目の署名の「は」を書き終えたところで、穂先がつぶれたらしい。
十一時四十七分に、二通目が届いた。要約すると、二本目も死んだ。
午前一時三十八分に、三通目が届いた。
今度は、文字がなかった。写真が一枚だけだった。半紙の上に、キャップを閉めた筆ペンが三本、等間隔に並べてあった。並べ方が、果たし合いの前の侍の机と同じだった。
線香が立っていないのが、不思議なくらいだった。
◇
金曜の朝、七時四十分。文芸部室の扉が、二回ノックされた。
白羽さんは、紫の風呂敷包みを両手で抱えて入ってきた。長机の上でほどくと、清書の済んだ封筒が十通、角をそろえて重ねてあった。
「おはよう」
「……ごめんなさい」
間が、長かった。声が低く、いつもよりゆっくりで、語尾が少し伸びた。まぶたが、半分だけ下りていた。背筋は、それでも定規入りだった。
朝の七時四十分だ。朝ごはんを食べずに来たのだろう、と俺は思った。
俺はノートのいちばん後ろのページを開き、一行足した。〔⑤空腹〕。ついでに、保留にしていた二つにも番号を振った。〔⑥読めない〕〔⑦驚き〕。
顔を上げると、白羽さんがこっちを見ていた。
見ていたのは、俺の顔ではなかった。俺の手元のノートだった。
「……それ」
白羽さんが「ごめんなさい」と言うたびに、俺はノートの後ろを開いて何か書いていた。三日も図書室で俺を見張っていた人が、気づかないわけがなかった。
「……何、ですか」
嘘は、つけなかった。ルール2は断り文句の決まりだが、この人の前で嘘をつくのは、それとは別に、ルール違反だと思えた。
「白羽さんの、ごめんなさいを、分類してる」
白羽さんは、まばたきを一つした。
それから、右手の人差し指が動いた。
〈み・せ・て〉
俺はノートを差し出した。
白羽さんは、それを見た。もう一度見た。目が、ページの上を三回往復した。
「……ごめんなさい」
読めません、のほうだった。分類表の上で、分類表に載っている「ごめんなさい」を言われた。
俺はノートを引き取り、読み上げた。
〔ごめんなさい〕
〔①謝罪 ②感動 ③感謝 ④照れ ⑤空腹〕
〔⑥読めない ⑦驚き〕
〔保留 一つ(口をふさいだもの)〕
「今のところ、七種類ある」
自分の下書きを読み上げるのも痒かったが、これは比べものにならなかった。本人の前で、本人の「ごめんなさい」の分類を、本人に向かって読み上げている。全身が痒いのを通り越して、どこにも感覚がなかった。
白羽さんは黙って聞いていた。
「④、照れ」
と読んだとき、白羽さんの人差し指が、膝の上で、また速く動いた。
「⑤、空腹」
と読んだとき、白羽さんの手が、俺の前に出た。手のひらを上にしていた。ノートを、という意味だった。
白羽さんはノートを長机に置き、風呂敷の中から筆ペンを一本出した。昨夜を生き延びた、最後の一本だった。
キャップを外し、背筋をもう一段伸ばして、ページの余白に書いた。
〔⑤は空腹ではありません。眠いです〕
字が、少しだけとがっていた。払いの先が、いつもより鋭かった。
「朝ごはんを、食べてないのかと」
「……食べました」
白羽さんは小さく言い、それから付け足した。
「……一時、三十八分、です」
筆ペンの三本目が死んだ時刻だった。あの写真を撮ったあとで、寝たのだ。
白羽さんが俺に言い返したのは、これがはじめてだった。
白羽さんの筆ペンの先が、余白の上で、もう一度止まった。④のあたりだった。
しばらくそのまま浮いていて、何も書かずに離れた。
白羽さんはキャップを閉め、ノートを俺のほうへ押し戻した。それから、人差し指で空中に書いた。
〈つ・づ・き〉
続きを、書いてください。たぶん、そういう意味だった。
俺のノートのその一ページで、まともに読める字は、白羽さんの一行だけになった。
辞典はこの日から、二人で書くものになった。書くのは俺で、直すのは白羽さんだ。手紙と同じだった。
◇
その日、白羽さんは休み時間のたびに、手紙を渡しに行った。
両手で差し出し、九十度で止まる。権田先輩のときと同じ渡し方だった。一時間目のあとに三通、二時間目のあとに四通。三時間目のあとの四通のときには、廊下に見物人が出るようになっていた。直角の手渡しは、半日で学年の名物になった。
受け取った人たちのその後を、俺は休み時間ごとに、廊下の端から見ていた。
一番の花屋の息子は、手紙を読み終えると、鞄から透明なセロファンとリボンを出した。昼休みが始まる前には、手紙は小さな花束のように包まれていた。
二番は、御朱印帳を開き、いちばん新しい御朱印の隣のページに、手紙を挟んだ。挟む前に、手紙に向かって一礼した。今度は、作法の相手として正しかった。
早瀬先輩は、受け取ったその場で、三年の廊下の窓際で読んだ。読み終えて、しばらく窓の外を見ていた。それから手紙を畳み、輪ゴムで束ねた単語帳の、いちばん上に挟んだ。
九番は、自分の席で、二回読んだ。泣かなかった。丁寧に畳んで、制服の胸ポケットにしまい、そのまま次の授業の教科書を出した。
三時間目のあとに岩城のクラスの前を通ると、教室の後ろから、韻を踏む小さな声が聞こえた。転機、天気、本気、元気。踏んでいたのは、岩城ではない誰かの書いた韻だった。
昼休みの最初の五分で、藤棚の下の三人が終わった。十六番から十八番。三十秒、二十二秒、四秒。
正の字は、三つと三画になった。
それでも、昨日までの十二通は清書まで済んで、あと一通で全部渡し終わるところだった。期限の一週間前だった。
追いついた、と俺は思った。少しだけ、胸を張りたい気分だった。
白羽さんはそのまま、学食へ向かった。
七番の大森に渡す最後の一通が残っていた。野球部は、昼休みは学食の奥の長テーブルに集まって食べるらしい。
俺は、券売機の横の柱の陰に立った。昼の学食は、定食の湯気と、二百人分の話し声でいっぱいだった。その声が、白羽さんが入口を入ったところから、テーブル一つ分ずつ静かになっていった。
野球部の長テーブルの前で、白羽さんは止まった。
大森が、箸を置いて立ち上がった。白羽さんが封筒を両手で差し出し、九十度で止まる。
大森は、封筒を左手だけで受け取った。開いた手のひらを封筒の下に入れて、親指と四本の指で、ぱちんと挟んだ。右手は、背中に回したままだった。投げるほうの手は、守るものらしい。捕手が球を捕る形だった。
その場で開けて、読んだ。
テーブルの野球部員が、全員、箸を持ったまま止まっていた。
大森は最後まで読むと、顔を上げた。直角の白羽さんに向かって、小さく、しかしはっきりと言った。
「……ナイスボール」
投手が五人、同時に立ち上がって、拍手をした。
白羽さんが顔を上げた。
学食に、ざわめきが戻ってきた。俺は柱の陰で、ゆっくり息を吐いた。今週の分は、これで終わりだ。あとは、六通。来週の金曜まで、放課後は五回ある。今度こそ、掛けても大丈夫な数だった。
学食の入口で、キーン、という音がした。
拡声器のハウリングだった。
二百人が、いっせいに入口を振り返った。そこに、小柄な女子が一人、立っていた。明るい茶色のツインテールに、首から何かを下げている。手にしているのは、運動会でしか見ないような、白い拡声器だった。
彼女は拡声器を口に当て、学食の奥の白羽さんに向かって、まっすぐ叫んだ。
「白羽先輩! 好きです! 付き合ってください!」




