第47話 返事は……手紙で
「……赤い、紐」
十一月一日、金曜日の朝。昇降口で封筒を持ったまま固まっていたら、いつのまにか隣に白羽さんが立っていた。
白羽さんの目が、封筒の角の赤い紐を見ている。それから、宛名の〔墨田先輩へ〕を見た。
白羽さんは何も言わずに、上履きに履きかえる。
右と左が、逆だった。
白羽さんは黙って脱いで、もう一度履きかえたけど、また逆だった。
三回目で、やっと合う。
「……ごめんなさい」
声の高さが、一語の中で二回変わった。辞典の⑧、動揺の「ごめんなさい」だ。
なんで、白羽さんが動揺するんだ?
考えると期待しそうになるので、考えるのはやめた。期待をつぶすための第十一稿は、先週、鹿のお腹に入ってしまった。
白羽さんは、背筋をいつもより一段まっすぐにして、階段を上がっていく。
◇
朝のホームルームの前に、三階の文芸部室で、封筒を開けた。
便箋は二枚で、字は丸くて小さい。
〔六月の終わりに、図書室のカウンターで、青い表紙の本を見つけてもらった一年生です〕
〔題名も覚えていなかったのに、先輩は、三つの手がかりだけで、一冊を持ってきてくれました〕
〔五月に、わたしが泣きながら本を返したことを、先輩は覚えていてくれました〕
〔あの日から、図書室のカウンターは、わたしにとって、いちばん明るい窓です〕
〔先輩のことが、好きです。今日の放課後、図書室で、待っています〕
〔一年A組 相沢まひる〕
一行目で自分が誰かを言い、二行目で出来事、三行目で好きになった理由、四行目にたとえを一つだけ置いて、五行目で好きです。
たとえは一つだけで、毎週火曜と金曜に赤を入れ合っている俺には、すぐ分かる。これは、紅林の文章だ。
そこで、ぜんぶの謎がつながった。帰りの新幹線の「一通だけ、見せられないのがあるの」と、「依頼人の相手に、下書きを見せるわけにいかないでしょう」と、あの三秒だ。
紅林の今年いちばんの一通は、俺宛てだった。
それに、この手紙には、俺の書いた言葉が一つも出てこない。書いてあるのは、六月に俺がしたことだけだ。
八日前の夜、俺はホテルの一階で、白羽さんに言った。俺の書いた言葉は、好かれる。俺は、好かれない。
それから八日で、例外が届いた。
便箋を持つ指が、むずむずする。自分の文章をほめられたときとは、痒いところが違う。
どうしろって言うんだ、これ。
一時間目は現代文で、白羽さんが音読に当たった。
白羽さんの音読は、いつもなら教室じゅうを黙らせるのに、今日は三行目で一回だけつかえた。
教室じゅうが、ざわっとする。四月から、はじめて聞くつかえ方だった。教科書の三行目には、「手紙」という言葉があった。
理由を考えるのは、また、やめた。
◇
昼休み、俺はD組の教室の入り口に立った。
紅林は、窓ぎわの席で、誰かの下書きに赤を入れていた。
「……これ、お前の『今年いちばん』だろ」
「依頼人の名前は、言えないわ」
「名前、書いてある」
「あら。じゃあ、言わなくて済むわね」
紅林は、少しだけ得意そうに続けた。
「手ごわかったわよ、あなた宛ては。比喩を一つに減らすのに、三晩かかったわ」
紅林は、ペンを止める。
「新幹線で、あなたの顔を三秒見たでしょう。気づくかどうか、見てたの」
「……気づかなかった」
「でしょうね。あなた、自分のことになると、急に読むのが下手になるもの」
ひどいけど、当たっている。
紅林は、まっすぐ俺を見た。
「返事は、あなたが書くのよ。いつもみたいに、誰かの代わりじゃなくて」
「……分かってる」
「分かってる顔じゃないわね。……結果は、必ず聞くわよ。依頼人の結果を聞くまでが、恋文屋の仕事だから」
そのとき、廊下の向こうの学食から、百瀬の声が響いてきた。
「九十七回目、玉砕しましたー! 九十八回目、いきまーす!」
九十七回振られても、百瀬は今日も元気で、うらやましい。
◇
放課後の図書室には、窓から西日が入っていた。
カウンターの奥で本の修理をしていた柳先生は、俺の顔を見ると、何も言わずに書庫へ引っこんだ。気をつかわれているのか、これは?
日本文学の棚の前に、小柄な一年生の相沢まひるが立っている。
胸に抱えているのは、六月に俺が棚から抜いてきた、青い表紙の一冊だ。
「……読んで、くれましたか」
「読んだ」
「あの、字、汚くなかったですか。紅林先輩の下書きを、十回、写したんです」
「……きれいだった」
本当だった。丸くて小さい字の中で、「好」の字だけ、ほかより少し大きい。
「自分で書いたら、三つしか書けなかったんです。図書室で、本で、好きです、みたいな」
青くて、犬で、泣けるやつ。六月の手がかりと、同じ数だ。
相沢は、青い表紙の本を、ぎゅっと抱え直した。
「わたし、先輩がしゃべってるところ、ほとんど見たことないです。いつも黙ってるから」
それは、事実だ。教室での俺の台詞は、一日に「あ、うん」が三回くらいしかない。
「でも、先輩がしてくれたことは、覚えてます。手紙は、紅林先輩に書いてもらいました。だけど、これは、自分で言います」
すうっと息を吸う音が、静かな図書室によく聞こえた。
「好きです」
四文字で、たとえも飾りもついていない。
頭の中の赤ペンが、何か言うより先に、俺の口が動いた。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
言ってから、耳を疑った。
今の、俺の声か?
「……」の長さも、「金曜に」で少し下がるところも、白羽さんと同じだった。四月から、何十回も聞いてきた一文だ。半拍まで、きっちり合っていた。聞いているうちに、耳が勝手に覚えてしまったらしい。
いちばん驚いたのは、言った俺だ。
「……はい!」
相沢の顔が、ぱっと明るくなった。
「待ってます! 来週の金曜、ここで!」
ここで、と言われても、俺はまだ一行も書いていない。
相沢は、カウンターに頭がつくくらい深くお辞儀をして、走って出ていった。
図書室で走ってはいけないが、柳先生は、今日も何も言わなかった。
来週の金曜は、十一月八日だ。百瀬の九十八回目の返事と、同じ日になる。
金曜の断り文句は、二通。一通は白羽さんの名前で、もう一通は、俺の名前で書かなきゃいけない。
白羽さんの名前の断り文句なら、四月から何十通も書いてきた。でも、自分の名前で出す返事は、まだ一通も書いたことがない。
「……それ」
入り口のほうから、小さな声がした。
白羽さんが、図書室の入り口に立っていた。背筋は、朝よりさらに一段まっすぐだ。
「……部室に、来なかった、ので」
どうやら、俺を探しに来たらしい。
「……それ、わたしの、です」
よりによって、本人に聞かれていた。
「……どこから、聞いてた?」
「……『好きです』、から」
それは、ほぼ全部じゃないか。
白羽さんは少し下を向いて、もう一言だけ足した。
「……三百回、練習した、のに」
三百回?




