第46話 奈良の鹿は、お辞儀をする
「……お辞儀、されました」
十月二十五日、金曜日の朝。奈良公園の芝生で、白羽さんが鹿せんべいを胸の前に持ったまま、固まっていた。
目の前で、小さな鹿が、ぺこりと頭を下げている。
せんべいは、さっき白羽さんが売店で買った一束だ。お金を払うときも、売店のおばさんに九十度だった。
俺は寝不足だ。ゆうべの第十一稿は、一行目で止まったまま、制服の胸ポケットに入れてある。二行目を思いついたら、すぐ書けるように。
白羽さんは、鹿に向かって、九十度で礼を返した。
律儀か。
「……白羽さん、せんべい、せんべい」
「……礼を、された、ので」
相手が鹿でも、礼を返さないのは失礼らしい。
しおりの奈良公園の欄には、ちゃんとこう書いてある。
〔鹿がお辞儀をしたら、早めに鹿せんべいをあげること〕
白羽さんが顔を上げて、せんべいを差し出そうとする。その前に、鹿がまたお辞儀をする。
白羽さんの背中が、また九十度に折れた。
礼をされたら、礼を返す。祖母の書院で十年、そう教わってきたせいで、体が勝手に折れるらしい。
これで二往復だ。気がつくと、まわりに、よその学校の修学旅行生が集まっていた。
「見て、鹿と人間が、お辞儀し合ってる」
「人間のほう、角度がすごくない?」
鹿のお辞儀が、だんだん速くなってきた。どう見ても催促だ。
五メートル向こうで、振られ男子の会の六人が、そわそわしている。
「班長! 鹿が、五メートルの内側に入ってる!」
大森、鹿は会員じゃない。
三往復目。
鹿は、白羽さんではなく、俺のほうを向いて、頭を下げた。
えっ、俺?
つられて俺も頭を下げたけど、猫背なので、角度はほとんど変わらない。
その瞬間、胸ポケットから、四つ折りのルーズリーフが、すっと抜かれた。
顔を上げると、鹿の口に、俺の第十一稿がくわえられていた。
お辞儀じゃない。取引だった。
「あっ、それは、だめだ、それは!」
鹿は、もぐもぐと口を動かしながら、のんびり去っていく。一行目の〔お手紙、ありがとうございました〕から、順番に食べられていく。
「班長! 追うか!」
五メートル向こうで、大森が捕手の構えをした。
「……いい、追わなくていい!」
とっさに、そう言っていた。自分でも、なんでそう言ったのか分からない。
白羽さんが、背筋をまっすぐに戻した。
「……今のは」
白羽さんの目が、鹿の口もとの紙を見ている。
四つ折りのルーズリーフだ。九月から白羽さんが持っている第十稿と、同じ紙の、同じ折り方だ。
「……じゅう、いち、ですか」
「……あ、うん」
言ってから、しまったと思った。
俺の「あ、うん」は、九月の文化祭から、学校じゅうで「はい」ということになっている。
白羽さんは、去っていく鹿の背中を見送って、小さな声で言った。
「……よく、噛んで、ください」
よく噛ませるな。
それから白羽さんは、鹿のあとを早足で追いかけて、残りの鹿せんべいを、全部その鹿にあげた。
一枚、二枚、三枚と、一枚ずつ九十度の礼つきで。
「……今の、なんのお礼?」
白羽さんは答えずに、狐の面を、すっと顔に下ろした。
狐なので顔は見えないけど、たぶん、答える気がないときの顔だ。
第十一稿は、二行目を書く前に鹿のお腹に入って、期待をつぶすための紙が、なくなってしまった。
困ったことに、あんまり困っていない。
◇
帰りの新幹線で、白羽さんは駅弁を二つ食べた。
一つ目を、きれいに食べた。二つ目も、ご飯一粒残さず、きれいに食べた。
ふたを閉めて、輪ゴムを元どおりにかけてから、白羽さんは窓の外を見て言った。
「……ごめんなさい」
間が長くて、語尾がとろけていて、目が半分閉じている。
辞典の⑤、眠いの「ごめんなさい」に似ているけど、両手がお腹の上に乗っている。
俺は黒いノートの辞典のページを開いて、⑪の下に書きこんだ。
〔⑫満腹〕
五月には、⑤に「空腹」と書いて、本人に〔⑤は空腹ではありません。眠いです〕と直された。今度こそ、お腹のほうで合っているはずだ。
「……合ってる?」
答え合わせの直しは、入らなかった。白羽さんは、背筋をまっすぐにしたまま、もう寝ていた。器用だな。
そのとき、肘かけが、こん、こん、こん、と三回鳴った。
「金曜日よ」
D組の紅林が、九号車からまた来ていた。行きの新幹線は「火曜日よ」だった。赤ペン同盟は、帰りの新幹線でも休まないらしい。
紅林は、空いている通路側の席に座って、今週の下書きの束を俺の膝にのせた。
「……いつもより、一通少なくないか?」
「一通だけ、見せられないのがあるの」
「なんで?」
「依頼人の相手に、下書きを見せるわけにいかないでしょう」
それはそうだ。恋文屋にも、守る決まりはある。
「依頼人って、誰?」
「言うわけないでしょう」
「その一通、うまく書けたの?」
「ええ。今年いちばん」
紅林が、自分の書いた手紙をこんなふうにほめるのは、めずらしい。いつもは、どこかに赤を入れたがる。
紅林は、眠っている白羽さんをちらっと見てから、なぜか、俺の顔を三秒見た。
「……何?」
「別に。赤は、来週の火曜日に返してちょうだい」
北条先生が「帰れ」と言うより先に、紅林は自分で九号車へ帰っていった。
今の三秒は、なんだったんだ?
口のまわりを触ってみたけど、駅弁の米粒はついていなかった。
◇
十月二十八日、月曜日の朝。昇降口に、週刊玉砕の京都特集が貼り出された。
〔京都で告白七件! 白羽先輩、修学旅行でも返事は手紙で〕
写真は、特派員の俺が清水坂で撮った一枚だ。看板と看板が、向かい合っている。
記事のいちばん下には、太い字で〔情報提供 斎藤〕と載っていた。
「載ってる! 墨田、俺、載ってる!」
斎藤が、記事を指さして跳ねている。
「これ、はがして額に入れていい?」
「はがすな」
これで、二〇五号室の約束は果たした。額は、自分で買ってもらう。
「墨田先輩!」
人ごみをかき分けて、百瀬が飛んできた。
「京都で、告白しなかったんですか!」
「……してない」
「特派員なのに! 自分の特ダネを、自分で逃してどうするんですか!」
特派員の仕事に、そんな項目はない。
「金曜日は、あたしの九十七回目の玉砕なので、見に来てくださいね! 先輩の告白は、そのあとでいいです!」
百瀬は、言うだけ言って、走っていった。
順番待ちにするな。俺が告白する予定なんて、どこにも書いてないんだけど。
そして、その金曜日、十一月一日の朝。
同じ昇降口で下駄箱を開けると、上履きの上に、白い封筒がのっていた。
封筒の角から、赤い紐が一本、のぞいている。
赤い紐の栞は、恋文屋の手紙の印だ。白羽さん宛ての恋文で、何度も見てきた。
白羽さんの下駄箱と、間違えたのか?
念のため、名札を確かめる。墨田。間違いなく、俺の下駄箱だ。
宛名は、丸くて小さい字で、〔墨田先輩へ〕。裏を返しても、差出人の名前はない。
……え、俺?




