第45話 自販機の前で
京都の川べりでは、みんな、なぜか等間隔に座るらしい。
十月二十四日、木曜日の夕方五時。ホテルのそばの鴨川に下りてみたら、本当に、カップルが等間隔に座っていた。
「……隣に、聞こえない、距離です」
狐の面の中から、白羽さんが小さく言った。
「……調べたの?」
「……ガイドブックの、すみに、ありました」
しおりどころか、ガイドブックのすみまで読んできたらしい。予習が細かい。
七通の返事を渡す場所は、白羽さんが決めた。振られるところを、誰にも聞かれずに済むからだ。
七人への知らせは、班長の俺が斎藤に頼んだ。
「五時に鴨川ね。一人ずつ? 了解!」
十五分で、七人に届いた。顔が広いと、伝言も速い。
川べりを見ると、七人とも、ちゃんと等間隔に座っている。
そのあいだに、振られ男子の会の六人も、五メートルおきに座っていた。見守り係が、すっかり景色になっている。
一人目は、C組の山岳部だ。
白羽さんは、渡す前に、狐の面を頭の上にずらした。返事は、顔を出して渡すらしい。
両手で差し出された和紙を、山岳部はその場で開いた。
〔山が好きだと、聞きました〕
「……斎藤か」
山岳部はぽつりと言って、手紙をもう一度見た。
「でも、山のことを書いてもらったの、はじめてだ」
二人目は、F組の行列好きだ。おととい、音羽の滝の行列で、順番が来る前に告白している。
「……斎藤ですね」
開いて二秒で言った。早い。
「次は、順番が来てから言います」
行列の決まりには、うるさいらしい。
三人目は、D組の数学だ。
読み終わると、D組は顔を上げて、川べりをきょろきょろ見回した。
「……斎藤は?」
指さされた先で、斎藤は、等間隔をまるで無視して、よその学校の制服の輪のまん中にいた。
「おーい、墨田! この人たち、福岡から来たんだって!」
もう友だちになっている。京都に来て三日で、顔の広さが県をこえたのか?
本気の四人は、誰も斎藤とは言わずに、黙って二回読んだ。
A組の背の高いやつは、手紙を胸ポケットにしまうと、川のほうを向いたまま、しばらく動かなかった。
七通目は、清水坂でしおりのメモ欄を破り、〔好きです〕と書いて掲げたC組の三人目への返事だ。便箋は、金色でホテルの名前が刷ってある。
「……ホテルの、便箋だ」
C組の三人目は、そう言って、少し笑った。
それから、しおりの次のページに何か書いて、掲げた。
〔ありがとうございました〕
白羽さんの和紙は、もう一枚もない。
白羽さんは少し迷ってから、人差し指で空に書いた。
〈は・い〉
向こうからは左右が逆に見えるはずなのに、C組の三人目は、ちゃんとうなずいた。
「……七通、お渡し、しました」
白羽さんの報告で、配達完了だ。
白羽さんが、狐の面を、すっと顔に戻す。
出張代筆、京都支店は、本日で店じまいです。
◇
夜の九時半。消灯の三十分前に、LINEが一行だけ来た。
【白羽】自販機のところに、います
拝啓も、時候の挨拶も、敬具もない。四月から、白羽さんのLINEはいつも便箋三枚分だったのに、今夜は一行だ。
白羽さんの文が短くなるのは、急いでいるときだけだ。
まさか、八件目の告白か?
俺は二〇五号室を飛び出して、階段を一階まで駆けおりた。
自販機コーナーの長椅子に、ジャージの白羽さんが座っていた。
背筋はいつもどおりまっすぐで、ジャージのポケットだけが、両方ともふくらんでいる。
「……どうした? 何かあった?」
「……消灯まで、三十分、なので」
それで、拝啓を省いたらしい。
「……おにぎりの、お返し、です」
白羽さんは、右のポケットからお茶を一本出して、俺に差し出した。
明日はもう奈良で、そのまま帰る。お返しは今夜のうちに、ということらしい。もらいっぱなしには、しないのだ。
受け取ったら、手のひらがひやっとした。
「……冷たい」
自販機を見る。青い字で、つめた〜い。赤い字で、あたたか〜い。
白羽さんが押したのは、どう見ても青いほうだ。しかも二本とも。
「……ごめんなさい」
間が短くて、声がいつもより低い。辞典の①、本当に謝るほうの「ごめんなさい」だ。
白羽さんは俺の手からお茶を取り返すと、左右のポケットに一本ずつ入れて、両手でぎゅっと押さえた。
「……温め、ます」
コンビニの店員か?
五百ミリのペットボトルを二本、自分の体温で、消灯までの三十分で温めるつもりらしい。間に合うわけがないのに、本人はいたって真剣だ。
「……俺、温かいの、買ってくるよ」
ポケットから小銭を出したら、白い紙が一枚、いっしょに床へ落ちた。
昨日、安井金比羅宮で貼らずに持って帰った、俺の形代だ。
白羽さんが拾ったその紙には、俺の字で、期待、と書いてある。
「……期待」
読まれた。四月から俺の下書きを全部読んできた白羽さんには、この字が読める。
白羽さんは形代を両手で持ったまま、長いあいだ黙っていた。
それから、一語ずつ置いた。
「……どうして、期待を、切るん、ですか」
いまの期待のことは、言えるわけがない。
でも、期待しないと決めた理由なら、言える。
頭の中で、下書きを始めかけた。いつもなら十二稿まで直して、口から出るのは「あ、うん」だ。
今夜は、それをやめた。
下書きなしで、しゃべる。
「……ちょっと、長くなるけど」
白羽さんが、小さくうなずいた。
「中二の夏に、恋文を書いたんだ」
「親友に頼まれて。野々村っていう、いいやつで」
「相手は、同じクラスの早川って子だった」
頭の中の赤ペンが、ここから先は要らない、と言った。
無視した。
「……俺も、ちょっと、気になってた子だった」
白羽さんは、何も言わない。ポケットの上に両手を置いたまま、まっすぐ俺を見ている。
「早川は、その手紙を読んで、真っ赤になった。それで、野々村と付き合い始めた」
「赤くなったのは、俺の文章でだ。でも、早川が好きになったのは、野々村だった」
「二人は、今も続いてる。高校は別だけど、毎年、連名で年賀状が来るんだ」
〔文也のおかげです♡〕
「早川の字で、そう書いてある。ハートの右の線が、ちょっと長い」
そんなところだけ、しっかり覚えているのが我ながら情けない。
赤ペンが、また、要らない、と言った。
また無視した。
「それで、分かったんだ。俺の書いた言葉は、好かれる。俺は、好かれない」
「だから、恋文だけは書かない。期待も、しないことにしてる」
三回目の「要らない」は、来なかった。赤ペンのほうが、先に黙った。
白羽さんは、最後まで、一度も口を挟まなかった。
五月の雨の日に、文芸部室で、白羽さんは三十二分、自分の家の話をした。俺は、そのあいだ一度も口を挟まなかった。
今夜は、それが逆になった。
自販機の上の時計を見ると、十一分たっていた。
三十二分の、三分の一だ。短い。それでも、俺が生まれてからいちばん長くしゃべった十一分だ。
「……最後まで、聞きました」
白羽さんが言った。
第十稿の一行を、思い出した。白羽さんの声で、俺が書いた一行だ。
〔最後まで聞いてもらえると、わたしの言葉は、間に合います〕
下書きなしの言葉が、本当に、最後まで出た。
「……うん」
白羽さんが、左のポケットからお茶を出して、形代といっしょに、俺の手にのせた。
「……ぬるい」
つめた〜い、と、あたたか〜い、のあいだの、自販機にはないボタンの温度だ。
十一分で、ここまで温めたのか?
白羽さんは、人差し指を上げて、空に何か書きかけた。
横に一本、線を引いたところで指が止まり、手は膝の上に下りた。
「……おやすみ、なさい」
白羽さんは立ち上がって、背筋をまっすぐにしたまま、階段を上がっていった。
もう一本のお茶は、右のポケットに入れて持っていった。
◇
午前二時。
二〇五号室の枕元の明かりだけつけて、俺は黒いノートを開いた。
自分宛ての断り文句、第十一稿。期待しそうになった夜に、白羽さんの声で書いて、期待をつぶしてから寝る、あれだ。
書き出しは、いつもと同じだ。
〔お手紙、ありがとうございました〕
次の行が、なかなか書けない。
左手には、ぬるいお茶をまだ持ったままだ。
隣のベッドで、斎藤が寝返りを打った。
「……情報提供、斎藤……」
寝ても顔が広いのか、お前は。




