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第44話 三階の窓、二階の窓

「C組の飛び降りるやつ? あいつは山岳部。高いところが好きなんだよ」


 十月二十三日、水曜日の夜。ホテルの二〇五号室で、斎藤はベッドに寝ころんだまま答えた。


 俺の首には、百瀬に頼まれた特派員のデジカメが下がっている。週刊玉砕の京都の告白特集という名目で、七人のことを聞いているところだ。


「F組のやつは、行列が好き。ラーメン屋に、毎週並んでる」


 順番が来る前に告白したのは、行列で鍛えたせいか。


「D組のは、数学。来年の受験で、運がほしいんだって」


「それで、恋愛の水を飲んだのか?」


「そう」


 学業を飲めよ。


「てか墨田、なんで特派員が、好きなものまで聞くの?」


「……告白した人の、素顔の特集」


「素顔! いいじゃん」


「で、A組の背の高いやつは、本気」


 斎藤が、急に声を小さくした。


「一年の春から、ずっと。振られたいって言ってるのは、本気だってばれるのが恥ずかしいからだって」


 碑の前で、列のいちばん後ろへ走っていった背中を思い出した。あれは、本気の走り方だったらしい。


 これで、本気が四人、振られたいだけが三人で決まりだ。


 七人分を、斎藤は二分でしゃべりきった。顔が広いにも、ほどがある。


「それ、週刊玉砕に載るの? 俺の名前も出して。情報提供、斎藤って」


「……百瀬に言っとく」


「よし。じゃ、行ってくる。消灯まで、あと八部屋回るから」


「八部屋?」


「顔が広いと、夜も忙しいんだよ」


 扉が閉まって、二〇五号室には俺しかいなくなった。


 本気の三人の下書きは、夕食の前に書いてある。残りは、A組の一通と、振られたいだけの三人に本当に好きなものを書く三通だ。


 黒いノートに、山岳部の一通を書き上げたとき、窓ガラスが、こん、こん、と二回鳴った。


 二回のノックは、白羽さんだ。


 ここ、二階なんだけど?


  ◇


 窓を開けると、目の前に紫の風呂敷がぶら下がっていた。


 四隅を結んで袋にしてあって、上には、浴衣の帯を何本もつないだ紐が、夜の中へまっすぐ伸びている。


 見上げると、三階の窓から、白羽さんの顔がのぞいていた。


 真上だ。


「……白羽さん?」


 小声で呼ぶと、白羽さんは人差し指を口に当ててから、その指で空に何か書いた。


 真上から書かれた空書きは、左右どころか上下まで逆で、一文字も読めない。


 袋の中には、小さく畳んだ紙が一枚入っていた。


  〔しおりの部屋割りで、二〇五と三〇五でした〕


  〔真上なら、班長から、離れていません〕


  〔二階には、紐しか、入っていません〕


 両方、守っている。


 しおりには、班長から何メートル以内とは書いていない。屁理屈なのに、どこも間違っていないのがすごい。


 俺は、書き上げたばかりの山岳部の一通を風呂敷に入れて、紐を二回引いた。


 風呂敷が、するすると三階へ上がっていく。


 文化祭では、舞台の床下から紙を押し上げた。今度は、窓の下から送り上げている。バルコニーの下の男は、京都でもやっぱり下にいるらしい。


 隣の窓が、がらっと開いた。大森が身を乗り出している。


「班長。告白か」


「違う」


「分かってる。言わなくていい。見張りは、俺と音無でやる」


 何も分かっていない。でも、違うとは言えない。


 三分後に下りてきた袋の中には、紙が一枚入っていた。


  〔山岳部、とは、見ていません〕


「……そうだよな。聞いただけだもんな」


 ルール2は京都でもきびしくて、白羽さんが自分で見ていないことは、見たようには書かない。


 俺は下書きに〔と、聞きました〕と書き足して、また二回引いた。


 〔見ていません〕が下りてくるたびに〔聞きました〕を足して、また上げる。


 帯の紐は、二通目、三通目、四通目と、京都の夜を何十回も上り下りした。


 五通目のあと、下りてきた紙は、いつもと少し違った。


  〔便箋が、あと三枚です〕


  〔「は」が、言うことを、聞きません〕


「……三枚?」


 でも、三枚より先に目に入ったのは、二行目の「は」だった。紙の上で、思いきり跳ねている。


 白羽さんの字は、うれしいと「は」が跳ねる。九月の終わりからずっと手本どおりで、跳ねる「は」は、一度も見ていなかった。


 それが今夜は、断り文句を清書するたびに、勝手に跳ねるらしい。跳ねるたびに書き直して、便箋がなくなったというわけだ。


 思い当たることは、一つしかない。


 昼間の、碑の前の、四と五だ。


 首の後ろが、かあっと熱くなった。勘弁してくれ。


 俺は、下書きの余白に書いて、上げた。


  〔跳ねてても大丈夫。読めるのは、俺だけだから〕


 振られる側には、字の機嫌までは読めない。四月から清書を全部見てきたのは、俺だけだ。


 袋は、なかなか下りてこなかった。


 一分かかって、紙が一枚だけ下りてきた。


  〔……だから、困ります〕


 どういう意味だ、と書きかけて、やめた。


 聞いたら、たぶん俺のほうが困る。


  ◇


 六通目で、和紙の便箋は、とうとう一枚もなくなった。


 五十枚あっても、足りなかった。清水の看板に二枚、六通で四十八枚、一通に八枚だ。


 次に下りてきた紙は、金色でホテルの名前が刷ってある便箋だった。


  〔部屋の机に、ありました。七通目は、これに書きます〕


 四月から、白羽さんの断り文句は、全部、書院の和紙だった。これが、はじめての和紙じゃない一通になる。


 七通目は、清水坂でしおりのメモ欄を破って掲げた、C組の三人目への返事だ。その場の紙で来た相手に、その場の紙で返す。ちょうどいい。


 下書きを風呂敷に入れようとしたとき、廊下から、小さな声がした。


「……ぴんぽんぱんぽん」


 扉の外の音無が、右手を口の前で握って、マイクにしているらしい。


「二階の皆さまに、お知らせいたします。ただいま、北条先生が、階段を上がっております」


 まずい。


「繰り返します。北条先生が、二階に、到着しました」


 繰り返すたびに、近づいてくるな。


 あわてて手を動かしたら、七通目の下書きが指からすべって、窓の外へ落ちた。


「オーライ!」


 隣の窓から、大森の左手が、夜の中へにゅっと伸びた。


 ぱしっ。


 二階の窓から身を乗り出して、捕手みたいに左手一本で、紙一枚を捕った。すごいけど、落ちるなよ。


 大森が、捕った紙を窓明かりにかざして、首をかしげる。


「……班長。これ、何語だ?」


 何語でもない、俺の字だ。


 字が汚くて助かったのは、生まれてはじめてだ。


 廊下の足音が、近づいてくる。


 帯の紐は、まだ窓の前にぶら下がっていて、このままでは見つかる。


 俺は、窓枠に置いてあったものを、とっさに風呂敷に放りこんで、紐を二回引いた。


 風呂敷が、三階へ上がっていく。


 上がっていくのを見送りながら、やっと気づいた。今放りこんだのは、夜食のおにぎりだった。


「班長。今、何を上げた?」


「……おにぎり」


「……そうか」


 そうか、じゃない、なんでだ。


 三階の窓の中で、結び目をほどく音がした。


 それから、小さな声が、夜の中を降ってきた。


「……ごめんなさい」


 風で紐が揺れていて、間も、声の高さも、聞き取れない。辞典の何番かは、分からなかった。


 扉が開いた。


「墨田。風呂は」


「……あとで、入ります」


「なんで窓が開いてるんだ?」


「……換気、です」


「閉めろ。寒いだろ」


 北条先生は、それだけ言って、隣の部屋へ行った。


「……北条先生は、二〇四号室へ、移動しました。以上、お知らせでした」


 扉の外で、音無が小さく締めくくった。


 足音が遠ざかるのを待って窓を開け直すと、隣の窓から、大森が下書きを差し出していた。


「ほら、班長。大事な球だろ」


 受け取って、俺は紐を二回引いた。


 下りてきた風呂敷には、おにぎりのラップが、きれいに四つに畳んで入っていて、紙が一枚添えてあった。


  〔おにぎり 一個 いただきました〕


 コロッケパン台帳と、同じ書き方だった。


 七通目の下書きを上げて、二十分後。最後に下りてきた紙は、短かった。


  〔七通、そろいました。明日、京都で、お渡しします〕


「……おやすみ」


 窓の上に小声で言うと、三階から、もっと小さな声が降ってきた。


「……おやすみ、なさい」


 今度は、ちゃんと聞き取れた。


 四月から、パンをもらってばかりだったけど、はじめて一個、返せたらしい。


 おにぎりだけど。

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