第43話 縁切り縁結び碑
清水坂を下りるあいだに、斎藤は三回、言いわけをした。
「だって、聞かれたんだもん」
「誰に」
「二十三人に。白羽さんの班、午後どこ行くのって」
数えてたのか。
「班決めの日の昼休みから、廊下で、学食で、トイレで。俺、顔が広いから」
広すぎるだろ、トイレでまで広げるな。
「で、全員に答えたのか」
「答えた。安井金比羅宮。なんか有名だから」
それで、七人の班の午後が、そろって同じ神社になったわけだ。
七人どころか、二十三人が、班ごと来る。
清水寺から坂を下りて二十分の安井金比羅宮は、思っていたより小さな神社だった。
「え、なにあれ? 白いもふもふがいる」
斎藤が指さした先に、白くて大きな、毛むくじゃらのものがうずくまっている。
近づいてみると、正体は石だった。
高さは俺の肩くらいで、幅は両手を広げたより広い。
その全面に、白い紙のお札が、何千枚も重ねて貼ってあって、石がほとんど見えない。
まん中に、四つん這いでやっと通れるくらいの、丸い穴が開いていた。
白羽さんが、しおりを開いた。
〔縁切り縁結び碑 本殿にお参りしてから、形代に願い事を書く。表から裏へくぐって悪縁を切り、裏から表へくぐって良縁を結ぶ。最後に、形代を碑に貼る〕
白羽さんにとって、しおりは法律だ。今日は、くぐる向きまで決まっている。
穴の前には、もう行列ができていた。
並んでいるのは、ほとんど天神坂の制服で、今朝の七人も、全員いる。
斎藤が授与所のお守りの前で迷いはじめたので、俺は白羽さんに小声で言った。
「……調べたい七人が、向こうから一列に並んでくれてる」
列のまん中あたりで、今朝「二番目ですけど」と叫んだA組の背の高い男子が、隣のやつにささやいている。
「裏から戻ったら、だめだぞ。結ばれちゃうから」
「結ばれたら、まずいのか?」
「振ってもらえなくなるだろ。だから、切るほうだけな」
「おう、切るほうだけ」
大まじめだった。
白羽さんに振られるといいことがある、という学校じゅうの噂を、こいつらは本気で信じている。
しおりの法律を、堂々と半分破る気か。
でも、おかげで助かる。
「……戻ってくるかどうかで、本気かどうか分かるな」
「……本気で、ない、相手には」
「本当に好きなものを書く。五月に決めたやつだ」
本気じゃない相手に「わたしの気持ちは、あなたと同じではありません」と書くと、嘘になる。どっちも相手を好きじゃないなら、気持ちは同じだからだ。
列が、一人ずつ穴に吸いこまれていく。
飛び降りるつもりのC組は、裏へ抜けたきり、戻ってこなかった。
二番目のA組も、戻ってこない。
恋愛の水を飲んできたD組まで、戻ってこない。何のために飲んだんだ。
戻ってきたのは、三人だけだった。
危ないので飛び降りないE組と、今日しかないC組の二人目と、清水坂で紙を掲げたC組の三人目だ。
三人目は、表に戻ってくると、碑に向かって深く一礼した。
白羽さんが、しおりのメモ欄に、小さく書いた。
〔本気 三人〕
〔振られたい 四人〕
しおりどおりに戻っただけのやつも、いるかもしれない。そこは、夜に確かめよう。
俺たちも、そろそろ並ぶ番だ。
◇
本殿にお参りしてから、碑の左の台へ行く。
賽銭箱に百円を入れて、形代という白い紙のお札を一枚もらった。
白羽さんは、筆ペンを出すと、自分の形代を胸の前で隠して書いた。
「……見ないで、ください」
「見てない。見てないって」
中身より先に字の機嫌が見えてしまったら困るので、本当に見ていない。
俺も、自分の形代に、期待、と書いた。
期待しそうになるたびに、白羽さんの声で自分宛ての断り文句を書いて、つぶしている、あれだ。まとめて切ってもらえるなら、百円は安い。
問題は俺の字で、神様用の早見表は、たぶんない。
読めなかったら、切ってもらえない。読まれたら、それはそれで恥ずかしい。どっちに転んでも困るって、どういう願い事だ。
形代を持って並ぶと、すぐに俺の番が来た。
「……鞄、持ちます、か?」
「いい。ノートが入ってる」
今夜、七人の下書きを書く黒いノートだ。外に置いていくわけにはいかない。
四つん這いになって、頭から穴に入る。右手を先に入れて、左手は、形代と鞄の紐をつかんだまま後ろに残した。
頭が抜けて、右の肩も抜けた。
そこで、止まった。
猫背の背中が、穴の天井につかえている。斜めにかけた鞄は、穴の縁に引っかかっている。首のデジカメが、胸と石のあいだに挟まっている。
前にも、後ろにも、一センチも動かない。
裏側に顔だけ出した俺の前で、戻る番を待っている天神坂の男子が、三人並んでいた。
「……班長が、生えてる」
生えてない、挟まってるんだ。
「班長! もっと低く! キャッチャーの構えだ!」
五メートル向こうから、大森の声が飛んできた。穴の中で、どうやって構えろって言うんだ。
「……右に、一マス」
将棋盤じゃないんだぞ、桂木。
「前にも抜けない、後ろも抜けない、班長の縁は、今日は切れない!」
岩城の韻は、今日もいちばん役に立たない。
白羽さんが穴のすぐ前にいるので、六人とも、五メートルより近くには来ない。こんなときまで律儀か。
「……引っぱろうか?」
裏で待っていた男子の一人が、俺の右手に手を伸ばしてきた。
頼む、と言いかけたとき、穴の外に残っていた俺の左手を、誰かがつかんだ。
ひんやりした指が、親指と人差し指と中指で、俺の手を持っている。
筆の持ち方だった。白羽さんだ。
ぐっ、と、一回だけ引かれた。
俺の体は、穴の中をずるずると後ろへ戻っていき、頭が抜け、肩が抜けて、表側の地面にしりもちをついた。
裏へは、とうとう抜けられなかった。
期待は、切れなかった。
白羽さんは、背筋をまっすぐにしたまま、まだ俺の手を持っていた。
七月と九月の下駄箱で、俺の手の隣に来た白羽さんの手は、二回とも、きっちり三秒で離れた。
一、二、三。
離れない。
四、五。
白羽さんは、俺を見ていなかった。碑の白いお札の山を、まっすぐ見ている。
耳だけが、頭の上の狐の朱より赤かった。
「……前方、異常あり」
五メートル向こうで、大森が言った。
「……後方も、異常あり」
桂木が、低い声で返す。
白羽さんの手が、ぱっと離れた。
「……抜け、ました」
それから、頭の上の狐の面を、両手で顔までおろした。
朝、清水の舞台で引退した狐が、半日で復帰した。
四と五のことは、考えないことにした。
考えはじめたら、たぶん、穴の中にいたときより動けなくなる。
◇
白羽さんは、狐の面のまま、しおりをもう一度読んだ。
それから形代を持って、四つん這いになり、背筋をまっすぐに保ったまま、穴にすっと入っていった。
四つん這いまで、教科書の図みたいだ。
俺が挟まった穴を、白羽さんは一度も止まらずに抜けた。
そして、しおりのとおり、裏から表へ、もう一度くぐって戻ってきた。
表の列が、どよめいた。
「戻ってきた!」
「結んだ!」
「白羽さんが、縁を結んだ!」
「誰と?」
「……俺か?」
「いや、俺だろ」
「お前は、さっき戻ってこなかっただろ」
「……並び直してくる!」
二番目のA組が、頭を抱えて、列のいちばん後ろへ走っていく。今度は、戻ってくるつもりらしい。
白羽さんが、しおりのメモ欄の数を、二本線で直す。
〔本気 四人?〕
〔振られたい 三人?〕
調べている最中に、一人動いた。
白羽さんは背伸びをして、碑のいちばん高いところに、自分の形代を貼った。
何が書いてあるかは、見ていない。
俺の形代は、貼らずにポケットに入れた。穴を抜けていないのに貼るのは、ずるい気がする。百円は、返ってこない。
「残りは、夜にホテルで聞こう」
斎藤がお守りを選び終える前に、俺は小声で言った。
「特派員の取材ってことにすれば、七人とも話してくれる」
「……下書きは、どうやって、受け取れば」
そこで、二人とも黙って、しおりの夜のページを開いた。
〔班員は、班長から離れないこと〕
〔男子は三階に、女子は二階に、立ち入らないこと〕
「下書きは、俺が二階で書く。清書は、白羽さんが三階で」
「……はい」
あいだには、階段が一本と、北条先生が一人いる。
白羽さんは、二つの法律を三回読み比べて、狐の面の中から言った。
「……しおりが、けんか、して、います」
それから、面を少しだけ持ち上げて、俺を見た。
「……両方、守り、ます」
どうやって。




