第42話 清水の舞台から
「白羽さん! 好きです!」
C組の男子は、もう一度、名前まで叫んだ。
十月二十三日、水曜日の朝。清水の舞台は、修学旅行生と観光客でぎっしりだ。
その舞台の向こう端、手すりの前で、さっき「飛び降りるつもりで来ました」と叫んだ男子が、まだ片手を挙げている。
ちょうど五メートル先で、会の六人の囲みの外側だ。
近づけないなら叫べばいい、と考えたらしい。考えるな。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
狐の面の中から、いつもの一文が、いつもの半拍で、いつもの小さな声で出た。
「え? 何て?」
向こうで、C組の男子が耳に手を当てている。
舞台の上は、いろんな国の言葉と、修学旅行生の歓声と、シャッターの音でいっぱいで、小さな声は届かない。
俺の三十センチ隣で、狐の面が、ゆっくりこっちを向いた。
〈ば・れ・て・ま・す〉
「……うん」
〈い・つ・か・ら〉
「昨日の、千本鳥居の、三分目から」
狐の面はこっちを向いたまま止まって、面の横からのぞく耳だけが、みるみる赤くなっていった。
〈い・じ・わ・る〉
速いのに、左右が逆でも、一文字も迷わずに読めた。
「……ごめん」
「……いつ、言うつもり、でしたか」
「……奈良あたりで」
「……遅い、です」
白羽さんは、面を額の上へ押し上げた。狐は、頭の上に引退したらしい。
それから三秒考えて、鞄から和紙の便箋を一枚と、筆ペンを一本取り出した。
「……背中、お借り、します」
「え、ここで?」
返事をする前に、俺の背中に便箋が当てられた。
「……動かないで、ください」
筆ペンが、肩甲骨の上をさらさら走る。くすぐったい。でも、動いたら字が曲がるので、動けない。
白羽さんは、書き上げた便箋を、看板みたいに両手で高く掲げた。
〔返事は、手紙で。来週の、金曜に〕
俺の背中で書いたとは思えない、舞台の端からでも読める見事な楷書だった。
C組の男子が、紙を読んで目を輝かせた。
「待ってます!」
深々と頭を下げて、満足そうに帰っていく。
それでいいのか。
そして、それが合図になった。
「僕も、飛び降りるつもりで来ました! 二番目ですけど!」
舞台の反対の端で、A組の背の高い男子が手を挙げる。看板が上がる。
「俺は、飛び降りません! 危ないので! でも、好きです!」
E組の男子が、わざわざ手すりから一歩下がって叫んだ。それが正しい。看板が上がる。
舞台で三件。掲げた便箋は、三回とも同じ一枚だった。
会の六人は、そのたびに一歩ずつ離れて、黙って立っていた。
「……まだ、誰も振られてない。異常なし」
大森が、真顔で報告してくる。そりゃそうだ、返事は来週の金曜だ。
来週の金曜は十一月一日で、百瀬の九十七回目の返事の日でもある。
十一月一日が、どんどん混んでいく。
◇
音羽の滝の行列は、舞台の下の石段のあたりから、ぐるりと折り返していた。
並んでいるあいだに、三件来た。
「白羽さん! 順番が来る前に言います!」
五メートル前に並んでいたF組の男子が、振り返って一件。
「今日しかないと思って! 好きです!」
行列の後ろのほうから、C組の二人目が一件。
「いま、恋愛のを飲んできました! 好きです!」
滝から戻ってきたD組の男子が、口もとをぬぐいながら一件。
飲んでから来るな、順番がおかしいだろ。
便箋は、そのたびに上がった。
三回目で滝のしぶきを浴びて楷書が少しにじんだので、白羽さんは黙って二枚目を書いた。今度も、俺の背中で。
便箋は、残り四十八枚になった。
ようやく、俺たちの順番が来る。
音羽の滝は、岩の上から三筋に分かれて落ちていた。
「三つあって、学業と、恋愛と、長寿って言われてるらしいよ。飲むのは一つだけなんだって」
斎藤が、スマートフォンを見ながら教えてくれた。
とたんに、行列に並んだ天神坂の男子が、白羽さんがどの筋を飲むか、全員でものすごく見はじめた。
白羽さんは長い柄杓を両手で持って、しおりを開いた。
〔音羽の滝 清めの水を、柄杓で汲んでいただく〕
三筋の違いは、しおりには書いていない。
柄杓の先が、三筋の上を、右へ、左へ、行ったり来たりする。
一つの筋の下で、ぴたりと十秒止まった。
「……あれ、恋愛のやつじゃない?」
斎藤が、スマートフォンと見比べて、ささやいた。
行列が、息をのむ。
柄杓は、すっと隣の筋へ移った。
「……学業、です」
白羽さんは、学業の水をていねいに一口飲んだ。
「……おいしい、です」
行列の男子が、いっせいに肩を落とす。
「……学業だ」
「……学業かあ」
「でも、学業も似合う!」
来年は受験生だから正しいけど、ため息がすごい。
柄杓が、俺の前に回ってきた。
俺は、受け取らなかった。
手を伸ばしたら、三つのうちどれに伸びるか、自分でもよく分かっていたからだ。
「……飲まないん、ですか」
「……今日は、いい」
白羽さんは少しだけ首をかしげて、柄杓を元の場所に戻した。
俺たちのすぐ後ろで、天神坂の男子が三人続けて、学業の水を飲んだ。
来年の天神坂の三年生は、成績が上がるかもしれない。
◇
七件目は、清水坂の土産物屋の前で来た。
「え、C組、三人目じゃん」
斎藤が、八つ橋の袋を抱えたまま言った。C組、どうなってるんだ。
そいつは、叫ばなかった。
五メートル先で、しおりのメモ欄を一枚破り、油性ペンで何か書いて、黙って胸の前に掲げた。
〔好きです〕
看板には、看板で来た。
白羽さんは少しだけ目を大きくしてから、二枚目の便箋を掲げ返した。
〔返事は、手紙で。来週の、金曜に〕
坂のまん中で、五メートルをはさんで、紙が二枚、向かい合う。
誰もしゃべらず、坂を下りてくる観光客が、両側をよけて通っていく。
「……あんたら、何してはるの。お茶、出そか?」
八つ橋の店のおばさんが、試食の皿を持ったまま固まっていた。
「……いえ、おかまいなく」
告白と、その返事です、とは言えない。
首のデジカメが、急に重くなった。そうだ、俺は百瀬に頼まれた特派員だった。
「……撮って、いい?」
白羽さんは、看板を掲げたまま、目だけでうなずいた。
向こうの男子の顔は入れずに、向かい合った二枚の紙と、紙を持つ手だけを一枚撮る。特派員の一枚目は、これになった。
C組の三人目は深く一礼して、坂を下りていった。
「……七、件、です」
白羽さんが、指を折って数えた。午前中だけで、七件だ。
掲げた便箋は二枚で、期限は全部、来週の金曜の十一月一日だ。
学校に戻ってからでは四日しかないうえに、七人とも別の班で、俺が知っているのは顔とクラスだけだ。
俺は、しおりの最後に挟んである紙を開いた。
班決めのあとに配られた、全部の班の自由行動の行き先の一覧だ。今なら七人とも、どこにいるか分かるし、夜は同じホテルに泊まっている。
斎藤が八つ橋の試食に吸いこまれているあいだに、俺は小声で言った。
「京都にいるうちに、調べよう」
すると、白羽さんは、頭の上の狐ごとうなずいた。
「……京都で、言われた、ので」
一語ずつ、置いていく。
「……京都で、答えたい、です」
便箋は四十八枚、筆ペンは十本ある。
あの念のためは、このための念のためだったらしい。
出張代筆、決定だ。
「斎藤、さっきの七人、名前分かる?」
「分かるけど、なんで?」
「……班長として、一応」
「班長、関係ある? まあいいや。全員分かる。俺、顔が広いから」
斎藤が七人の名前を言い、俺がしおりの一覧で探していく。
午後の行き先の欄で、指が止まった。
一人目の班も、二人目の班も、三人目の班も、午後は同じ神社へ行くことになっていた。七人とも、全部だ。
〔安井金比羅宮〕
縁切りと縁結びで有名な神社だ。
「……三班も、そこ、です」
白羽さんが、自分のしおりを指さした。
班会議で「なんか有名だから」と行き先に書いたのは、斎藤だった。
「……斎藤」
「え、俺のせい?」
お前のせいだ。たぶん、ちょっとだけ、お前のおかげでもあるけど。




