第48話 わたしが、書きます
白羽さんの三百回には、ちゃんと内わけがあった。
「……お風呂で、百回。鏡の前で、百回」
図書室の入り口で、白羽さんは指を折って数えた。
「……弟に、聞かれて、五十回。……弟に、実況されて、五十回」
実況されて、の意味が分からない。
四月の最初の週に、三百回だそうだ。その一文を、俺は聞きかじりで、半拍まで再現してしまったことになる。
白羽さんは、少し考えてから、言った。
「……使用料を、いただきます」
「使用料?」
「……コロッケパン、一個、です」
四月から、白羽さんにはパンをもらってばかりだった。今度は、俺が払う側らしい。
「……払います」
白羽さんは、こくりとうなずいた。それから、相沢が走っていったほうを見て、小さく聞いた。
「……お返事、書くん、ですか」
「……書く。俺の名前で」
白羽さんは、もう一度うなずいて、背筋をまっすぐにしたまま帰っていった。
怒っているのか、そうでもないのか、顔ではまったく分からない。
◇
十一月四日、月曜日の振替休日。俺は朝から、自分の部屋の机で、相沢への返事を書いていた。
一通目の書き出しは、こうなった。
〔お手紙、ありがとうございました〕
白羽さんの断り文句の、いつもの書き出しだ。消した。
二通目は、書き出しを変えた。
〔相沢へ〕
よし、と思ったら、二行目で手が勝手に書いていた。
〔わたしは〕
わたしって誰だ。消した。
三通目から十一通目までは、もっとひどい。読点が多くて、言い直しがあって、「……」で一回止まる。どれも、白羽さんの文になっていた。
七通目にいたっては、気がつくと紅林の文章の講評になっていた。〔構成が完璧で、比喩は一つ〕。これは返事じゃなくて、赤ペン同盟の宿題だ。
四月から、白羽さんの声で断り文句を書いてきた。自分宛ての断り文句も、白羽さんの声で十一稿書いた。手が、すっかりその声を覚えてしまっている。
十二通目は、一行目から「俺」と書いた。
〔俺は、相沢と、お付き合いすることは、できません〕
そのとき、扉がノックなしで開いた。
「お兄ちゃん、お昼、焼きうどんだって」
中二の妹のかなは、扉を開けてから用件を言う。ノックという仕組みを、まだ知らないらしい。
かなは、俺の肩ごしに机をのぞきこんだ。
「何それ。手紙?」
「……見るな」
「見えちゃった。……ねえ、これ、女の子が男の子を振る手紙じゃん」
一言で、当てられた。
「『俺』って書いてあるのに、読むと女の子の声がする。お兄ちゃん、こういうの、どこで覚えたの?」
どこで、と言われても困る。四月から毎日だ。
「で、これ、誰に出すの?」
「……一年生」
「え、お兄ちゃん、告白されたの!?」
かなは、目をまんまるにして、廊下へ飛び出していった。
「お父さーん! お兄ちゃんが、告白されたー!」
居間のほうから、父の「ほう」が一つだけ聞こえた。家じゅうに、知れ渡った。
かながいなくなってから、机の上を数えた。
十二通。頭の中ではいつも十二稿まで直して、口から出るのは「あ、うん」だった。紙の上の十二通は、十二通とも白羽さんの声だ。
俺の声は、どこにいったんだ?
昼の焼きうどんの席で、かなが早速しゃべった。
「それでね、お兄ちゃん、返事を女の子の声で書いてるの」
今度は、父が箸を止めて身を乗り出した。辞書を作っている父は、告白より、こっちのほうが気になるらしい。
「声色の用例か。見せてくれ」
「見せない」
父は少し残念そうに焼きうどんに戻ってから、ついでのように言った。
「用例はな、誰が書いたか分かる文が、いちばんいいんだ。読んだだけで、ああ、あいつの文だ、と分かるやつだ」
俺の十二通は、読んだだけで、白羽さんの文だと分かる。父の辞書には、たぶん載せてもらえない。
◇
十一月五日、火曜日の昼休み。俺は購買でコロッケパンを一個買って、白羽さんの机に置いた。
白羽さんはパンを両手で受け取ると、九十度で礼をした。
払ったのは俺なのに、なんで礼をされているんだ?
白羽さんはパンを鞄にしまわずに、机の上に置いたまま、五時間目が始まるまで眺めていた。食べないのか。
◇
放課後の文芸部室では、白羽さんがいつもの座布団に正座していて、俺の机の上には、白い原稿用紙が一枚ある。十二通の下書きは、黒いノートにはさんだままだ。
火曜日なので、扉が三回鳴った。
「火曜日よ」
紅林は、部室に入ってくるなり、赤い万年筆を持った手で、自分の目をふさいだ。
「見ないわよ。依頼人の相手の返事は、見ないことにしているの」
指のあいだから、片目が出ている。
「……見えてるだろ」
「見えてないわ」
紅林は、指のすきまから原稿用紙をじっと見て、言った。
「……白紙ね」
見えてるじゃないか。
「白羽さん、あなたは見たの?」
「……見て、いません」
白羽さんは、正直に首を横にふった。まだ見るものが一行もないので、これは本当だ。
紅林は今週の下書きの束を置くと、白羽さんに軽く手を上げて、扉に向かった。
「木曜までに一行も書けなかったら、相談に乗ってあげる。食券三枚でね」
恋文屋は、こんなときでも商売を忘れない。
扉が閉まると、部室には、俺と白羽さんと、白い原稿用紙が残った。
白羽さんの前で、十三通目を書こうとした。
〔相沢へ〕
そこから、ペンが一ミリも進まない。
白羽さんは、しばらく原稿用紙を見ていた。
「……下書きを、見せて、ください」
ノートにはさんだ十二通を渡すと、白羽さんは一枚ずつ、背筋をまっすぐにしたまま読んでいった。
十二枚目で、手が止まる。
「……ぜんぶ、わたしの、声、です」
ばれた。いや、ばれるも何も、相手は本人だ。
「……わたしが、書きます」
「え?」
「……相沢さんへの、お返事。わたしが、書きます」
頭の中の赤ペンが、ぴたりと止まった。
「いや、でも、白羽さんは、自分の考えを書くのが……」
言いかけて、やめた。記述問題の「あなたの考えを書きなさい」で毎回白紙を出していることは、本人の前で言わないほうがいい。
白羽さんは、右手の人差し指を上げた。
空に、大きく、ゆっくり書く。
〈か・く〉
払いが、刀みたいに長い。向かい合って左右が逆なのに、はっきり読めた。九月に〈や・る〉と書いたときと、同じ強さだ。
「……墨田くんは、いつも、わたしの声で、書いてくれます」
白羽さんは、指を下ろして、続けた。
「……だから、今度は、わたしが、墨田くんの声で、書きます」
俺の声なんて、俺にもまだ見つかっていないのに?
「……三日、ください」
今日は火曜で、相沢への返事は金曜だ。三日あれば、ちょうど間に合う。白羽さんが、はじめて自分の考えで書く一通を、俺の名前で出すことになる。
「……書いている、ところは、見ないで、ください」
白羽さんが和柄の筆箱から筆ペンを一本出したのを見届けて、俺は言われたとおり、椅子ごと壁のほうを向いた。
背中で、筆ペンのキャップが、ぽん、と抜けた。




