第39話 弓道場の背中
「三年E組の、桐生です」
藤棚の下で、背の高い先輩が名乗った。
白羽さんがベンチから立って藤棚の前まで歩いていき、俺はパンの紙袋を膝にのせたまま、その場で固まった。
先輩の髪は肩の上でまっすぐに切りそろえてあって、立っているだけなのに、かかとから首まで一本の線が通っている。
「弓道部の、元主将です。夏で、引退しました」
中庭の話し声が、テーブル一つずつ小さくなっていく。
「購買のおばちゃんにも、九十度で頭を下げるでしょう? 三年間、礼ばかり練習してきたけど、あんなにきれいな礼は、見たことがなかった」
先輩は、そこで一度だけ息を吸った。
「白羽さん。好きです」
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
いつもの一文が、いつもの半拍で出た。
先輩は笑わずに、ほんの少しだけ目を細めて、白羽さんに頭を下げた。
腰から上が一枚の板のまま前に倒れて、止まったところでぴたりと動かなくなる。白羽さんの九十度と、ほとんど同じ深さだった。
先輩は顔を上げると、もう一度だけ小さく会釈して、校舎のほうへ帰っていった。
中庭の誰も、笑わなかった。
ひやかす声もざわめきも出ないまま、隣のベンチの三年生が、黙って箸を持ち直しただけだ。
気がつくと、俺は紙袋を握りしめていて、中のパンが少しつぶれていた。何をやってるんだ、俺は。
「……墨田くん」
戻ってきた白羽さんが、ベンチの前で背筋を伸ばした。
「うん」
「……同じじゃ、ない、です」
「本気、ってことだよな」
「……はい」
本気の相手には、決まった言い方で、まっすぐ書く。四月から、ずっとそうしてきた。
「調べるなら、弓道場か」
「……はい。……朝、です」
「朝?」
「……花壇で、水を、やっていると、毎朝、聞こえます。……ぱん、って」
白羽さんは、両手で小さな丸を作ってみせた。的のつもりらしい。
「矢が当たる音か」
「……はい。……七時より、前から、です」
二年B組の窓の下の花壇からは、植えこみの向こうに弓道場の屋根が見える。毎朝七時に水をやりながら、白羽さんは矢の音を聞いていたらしい。
嫌な予感がした。
七時より前って、俺がまだ布団の中にいる時間じゃないか?
◇
「……ごめんなさい」
十月十六日、水曜日の朝六時四十分、弓道場の裏の植えこみの陰で、白羽さんが言った。
間が長くて声が低く、語尾がのびて、まぶたが半分下りている。
辞典の⑤、眠いの「ごめんなさい」で、五月に俺が「空腹」と書いて余白で直された番号でもある。
「だから、俺ひとりで来るって言ったのに」
「……調査、です、から」
「眠いなら、植えこみに寄りかかっていいぞ」
「……寄りかかったら、植えこみが、倒れます」
そっちの心配か。
植えこみのすき間からは、屋根の下の射場の板の間が見えて、その端に、桐生先輩が一人で立っていた。
先輩が弓を引くと、弦が、ぱん、と鳴った。
矢は芝生の上をまっすぐ飛んで、向こうの土の山に並んだ的の、いちばん端に刺さる。
「……これ、です」
「毎朝聞いてた『ぱん』は、これか」
四本引いて、当たったのは二本で、外れた二本は的の横の土に刺さっている。
先輩は弓を置き、芝生を歩いて、矢を取りに的のほうへ向かった。
的に当たった二本を、すっと抜く。
それから、土に刺さった外れた矢の前で立ち止まって、一礼した。
昨日の藤棚と同じ、腰から上がまっすぐに倒れる礼だ。
抜いて、もう一本の前でも一礼して、また抜く。
礼をしたのは、外れた二本の前だけだった。
「……外れた、矢に」
隣で白羽さんがつぶやいたときには、まぶたはもう半分も下りていなかった。眠気、どこへ行ったんだよ。
七時前になると、一年生がばらばらとやってきた。
そのうちの一人が、植えこみのほうを見て、びくっと跳ねる。
「うわっ。……置物かと思った」
俺のことだ。二十分近く同じ場所で固まっていたせいで、植えこみの一部になっていたらしい。
まあ、ここまでは、いつもの俺だ。慣れている。
ところが、矢を抱えて戻ってきた桐生先輩が、まっすぐこっちを見た。
「その二人なら、六時四十分からいたわよ」
「えっ」
一年生が固まって、ついでに俺も固まった。
「的を見るのが仕事だもの。動かないものほど、よく見えるの」
先輩は少しだけ笑って、付け足した。
「見学なら、中で見ればいいのに」
見えていたのか。最初から。二十分間、全部?
存在感のなさが、ここではまったく通じない。弓道部の目は、ずるいだろ。
◇
「……当たった矢には、礼を、しません、でした」
放課後の文芸部室で、白羽さんが言った。朝から、ずっとそのことを考えていたらしい。
「外れた矢にだけ、だったな」
「……はい。……なぜ、でしょう」
「外れた矢のほうが、がんばったから、とか?」
「……先輩に、聞かないと、分かりません」
「だよな」
理由は分からないから、手紙には見たことだけを書く。外れた矢への一礼が、桐生先輩のいちばんいいところだと、二人とも思っている。
下書きを読み上げると、白羽さんが一文ずつうなずいていく。
桐生先輩へ
気持ちを、まっすぐに伝えてくださって、ありがとうございました。
購買での礼を、見ていてくださったと聞いて、少し、恥ずかしかったです。
水曜日の朝、弓道場で、先輩を見ました。
先輩は、外れた矢を抜く前に、一本ずつ、一礼していました。
当たった矢より、外れた矢のほうに、ていねいでした。
だから、はっきり書きます。
わたしは、先輩と、お付き合いすることはできません。
それは、先輩のせいではありません。でも、わたしの気持ちは、先輩と同じではありません。
卒業までの朝も、一年生が、先輩の礼を見ていると思います。きっと、まねをします。
白羽ことは
最後の行までうなずいてから、白羽さんがぽつりと言った。
「……お辞儀を、見られていたの、知りませんでした」
「俺は、知ってる」
口から出ていた。
「……え」
「……毎回、九十度だから」
付け足すまでに、二秒かかった。
白羽さんの右手が、膝の上で、ものすごい速さで何かを書きはじめた。速すぎて一文字も読めないし、たぶん読ませる気もない。
何を言ってるんだ、俺は。
◇
十月十七日、木曜日の朝、弓道場の入口で、白羽さんは清書した手紙を桐生先輩に渡した。
今日の俺は植えこみに隠れず、射場の外の芝生の端に堂々と立っている。どうせ見えているんだから、隠れるだけ損だろ?
先輩はその場で封を開けて、最後まで読んだ。
手紙をていねいに畳んで胸ポケットにしまうと、射場の板の間に上がり、的のほうを向いて一礼する。
腰から上がまっすぐに倒れる、あの礼だった。
それから白羽さんのほうに向き直って、もう一度。白羽さんも九十度で返して、二つの礼が同じ深さでぴたりと止まった。
射場の奥で、一年生たちが顔を見合わせている。
「……今の、やる?」
「やる」
一人が的のほうを向いて、ぎこちなく頭を下げ、もう一人があわててそれに続いた。
まねをしている。手紙の最後の一行が、渡して三分で本当になったわけだ。早すぎるだろ。
◇
その日の帰りのホームルームで、北条先生が言った。
「明日、修学旅行の班を決める。出席番号順で、だいたい六人ずつだ」
出席番号順?
頭の中で名簿をめくると、し、の次は、す。白羽の、次は。
……墨田だ。
ちょっと待て。




