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第38話 白い側の口

「……取れ、ました」


 白羽さんの手のひらに、朝顔の黒い種が三つ乗っている。


 十月十日、木曜日の朝。二年B組の窓の下の花壇で、白羽さんは九月から毎朝、朝顔に水をやっている。


 鉢の縁には、八月にメキシコへ発った水野先輩のカードが、まだ差してある。


  〔種は、十月に取れます。来年の分です〕


「本当に十月に取れたな」


「……はい。律儀な、朝顔、です」


「律儀なのは、朝顔より白羽さんだろ」


「……え」


 九月から一日も休まずに水をやっているんだから、どう考えてもそっちだ。


 白羽さんは、和紙で折った小さな封筒に、種を一粒ずつ落としていく。


 その横で、俺は、名前のない恋文への、名前を呼ばない返事の下書きを広げた。


「読むよ。止めたいところで、止めて」


「……はい」


 一文読むたびに、白羽さんがうなずくか、止まるか。四月から、このやり方は変わらない。


   お手紙、ありがとうございました。

   名前がなかったので、教室で、全員に、お辞儀をしました。


 種をつまんだ指が止まって、ぽろっと一粒、土に落ちた。


「……それ、書くの、ですか」


「本当のことだろ?」


「……本当、です、けど」


「じゃあ、書く」


 白羽さんは三秒考えて、うなずいた。耳にかかった髪が、ちょっとだけ揺れている。


 照れてるよな、これ。


   あの箱を、見に行きました。

   紅と白の境目に、にじみが、一つもありませんでした。

   夏のあいだ、二百人が紙を入れる口に、やすりがかけてありました。指を入れても、ひっかかるところはありませんでした。


「……やすり」


「どうした?」


「……わたしは、触って、いません」


 そうだった。昨日、あの口に指を入れたのは俺で、白羽さんはそのころ、輪のまん中で九十度のモデルをしていた。


「じゃあ、『あったそうです』に直す?」


 白羽さんは、首を横に振った。


「……今日、触りに、行きます」


「確かめてから書くのか」


「……はい」


 ルール2は、今日もきびしい。


   見ていただけ、と書いてありました。

   でも、あなたは、会ったことのない二百人の指を、先に守っていました。

   だから、はっきり書きます。

   わたしは、あなたと、お付き合いすることはできません。

   それは、あなたのせいではありません。でも、わたしの気持ちは、あなたと同じではありません。

   次の絵も、境目がまっすぐだと思います。見られる日を、楽しみにしています。


   白羽ことは


 最後まで、白羽さんはうなずいた。


 それから、土に落ちた一粒を拾って封筒に入れ、表に筆ペンで小さく書いた。


  〔来年の分〕


「……水野、先輩と、同じ、です」


  ◇


「はい、今日の最後の一個!」


 購買のおばちゃんの声が、昼休みの廊下に響く。


 限定のコロッケパンは一日二十個で、昼休みが始まって三分で売り切れる。


 その三分間、購買の前には三年生の壁ができる。


 壁のすき間を、背筋のまっすぐな黒髪が、すっと抜けていった。


 無表情のまま一歩も迷わず、気がつけば最後の一個が白羽さんの手の中にある。


「今の、誰?」


「速すぎだろ」


「背筋しか見えなかった……」


 三年生たちが、ぽかんと口を開けている。白羽さんは、もうおばちゃんに頭を下げていた。


 おばちゃんが、紙袋の口を二回折った。一回だと開くからだ。


 五分後、その紙袋は中庭のベンチで、俺の膝に置かれた。


「……今日の、分、です」


「だから、要らないって」


「……払い、ます」


 手紙の代金を、白羽さんは六月から、一日一個のパンで払っている。何度断っても、聞いてもらえたためしがない。


 白羽さんが、鞄から四つ折りの和紙を出す。コロッケパン台帳に、筆ペンで一行が足された。


  〔十月十日 一個〕

  〔未払い 〇個〕


「……終わったな」


 四月の権田先輩の手紙から数えて、六十一通ぶんのパンが、今日で払い終わりだ。


 白羽さんは答えずに、〇の字をじっと見ている。十秒くらい、見ていた。


 それから、筆ペンが台帳の下の余白へ動いた。


  〔手紙 六月四日から九月三十日までの分 百七十二通〕

  〔未払い 百七十二個〕


「……増えてない?」


「……数えました」


「数えたのか」


「……清書したのは、全部、覚えて、います」


 一日一個なら、百七十二日だ。土日と長い休みを抜いたら、来年の夏までかかるぞ?


「……減らないね」


 白羽さんが、右手の人差し指を胸の前に上げた。


  〈パ・ン・で・す〉


 左右が逆でも、ちゃんと読める速さだった。


 パンで払います、ということだ。それは分かる。分かるけど。


 来年の夏まで、毎日、昼休みに、白羽さんがパンを一個持ってくる。それって、つまり、毎日会うってことか?


 待て。考えるな、俺。


 とりあえず、今日のパンを食べた。うまい。これが来年の夏まで続くらしい。


  ◇


 その日の放課後、白羽さんは美術室で投票口に指を入れて、「……ひっかかり、ません」と一人でうなずいた。清書は、その夜に済ませた。


 金曜日の放課後、清書を四つに折って、もう一度美術室へ。俺は、扉の窓からのぞく係だ。


「あっ、モデルさん! 今日も?」


 一年生が立ち上がる。白羽さんは小さく首を横に振って、今日は九十度をしなかった。えらいぞ。


 窓ぎわには、今日も、こっちに背中を向けた男子がいる。


 白羽さんは棚の上の箱の前に立ち、白い口に、四つ折りの和紙を差しこんだ。


「……すっと、入り、ました」


 扉の窓越しでも、その小声は聞こえた。やすりのおかげだ。


 窓ぎわの背中は、振り向かない。耳だけが、また赤くなっていく。


  ◇


 三連休が明けた、十月十五日の火曜日。


 昼休みの中庭のベンチに、白羽さんが紙袋を一つと、画用紙の小さな四角を一枚持ってきた。


「……朝、箱を、見て、きました」


「返事は?」


「……白い、口から、なくなって、いました。……紅い、口に、これが」


 白羽さんが、それを俺の手のひらに載せる。


 名刺くらいの大きさの、絵だった。


 学食の投票箱の前に、白い紙を一枚持って立つ、腰までの黒髪の背中。背筋は、定規を当てたようにまっすぐだ。


 鉛筆の線の上に、紅と白が、にじまずに置いてある。名前は、どこにもない。


 それから、絵のいちばん隅に、柱が一本描いてあった。


 柱の陰で、前髪の長い男が、両手で耳をふさいでいる。


「……え、俺?」


「……はい。……猫背、です」


 消しゴムのかすくらいの大きさなのに、間違いなく俺だった。前髪の長さまで合っている。


 あの男子は、学食で、白羽さんだけじゃなく、柱の陰の俺まで見ていたのか。


 白羽さんの肩が、小さく震えている。笑いをこらえているときの震え方だ。


「……墨田くんも、見られて、いました」


「描かれるとは思わないだろ、普通」


「……耳、ふさいで、います」


「ふさいでたからな!」


 白羽さんは、絵を両手で持ち直すと、筆箱の中にそっとしまった。


 名前のない手紙に、名前を呼ばない返事を出したら、名前のない絵が返ってきた。


 この学校の郵便は、だいたい名前が足りない。


「白羽さん」


 藤棚のほうから、声がした。


 背の高い女子が、まっすぐこっちを見ている。上履きのゴムは緑だから、三年生だ。


 背筋が、白羽さんと同じくらいまっすぐだった。


 定規入りの背中が、中庭で二本、向かい合った。

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