第37話 差出人のない恋文
十月八日の朝、二年B組の三十九人が、いっぺんに振られた。
正確に言うと、白羽さんが、教室の全員に九十度のお辞儀をした。
俺も、その三十九人に入っていた。
始まりは、白羽さんの机の中だった。
朝のホームルームの前、白羽さんは教科書を出そうとして、手を止めた。
机の中から、四つに折った紙を一枚、引き出した。
便箋ではない。
白い画用紙だった。
俺の席は、廊下側のいちばん後ろだ。
教室の全部が見える。
白羽さんは紙を開いて、読んで、もう一回読んで、裏返して、表に戻して、また裏返した。
三回目の裏返しで、分かった。
名前を探している。
白羽さんは、すっと立ち上がった。
くるりと後ろを向いた。
教室を、端から端まで、一人ずつ見た。
窓側から廊下側へ。
前から後ろへ。
最後に、俺と目が合った。
告白には、いつもあの一文で答える。
返事は、手紙で。
来週の、金曜に。
ところが、その一文を言う相手が、どこにもいない。
紙は好きですと言ってくれても、名前までは言ってくれないらしい。
白羽さんは、教室のまん中に向き直って、深く頭を下げた。
九十度だった。
三十九人が、固まった。
「……え、何?」
「今の、何?」
「振られた? 俺、いま振られた?」
「全員じゃない?」
教室じゅうが、ざわっと沸いた。
窓際の男子が、自分の顔を指さして、隣の男子に確かめている。
告白もしていないのに、振られたかどうかを確かめ合う教室なんて、たぶん日本じゅうでここだけだ。
白羽さんは、顔を上げると、何事もなかったように座った。
画用紙を四つに畳み直して、筆箱の下にしまった。
背筋は、今日も定規入りだった。
北条先生が入ってきて、「どうした、静かにしろ」と言った。
三十九人は黙って、それぞれ自分の胸に手を当てていた。
痛くないか、確かめているらしい。
一時間目が終わると、ポケットのスマートフォンが震えた。
【白羽】拝啓 爽秋の候、墨田様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
便箋三枚分のうち、二枚半が時候の挨拶とお詫びだった。
今朝、教室を騒がせたことのお詫びが、ていねいに一枚分ある。
用件は、三枚目のいちばん下の一行だけだった。
名前の書いていない手紙が届いたので、放課後に見てほしい。
今日は、火曜日だ。
赤ペン同盟の日でもある。
つまり、紅林も来る。
四畳半が、また混む。
◇
放課後、ノックが三回鳴って、紅林が来た。
いつものように、ソファの座布団に書き損じの束を積んで、その上に座った。
もう誰も何も言わない。
白羽さんは、長机の上の画用紙を両手で押さえたまま、しばらく黙っていた。
それから、顔を上げた。
「……紅林、さん」
「なに」
「……文で、書いた人が、分かりますか」
紅林の片眉が、上がった。
「分かるわよ。仕事だもの」
紅林は、手のひらを上に向けて出した。
「依頼人の手紙は、外に出さない。誰の手紙でもね。恋文屋の決まりよ」
白羽さんは、三秒考えて、画用紙を紅林と俺のあいだに置いた。
字は、全部同じ大きさで、同じ太さだった。
一字ずつ、四角い枠の中に、きっちり収めて書いてある。
白羽ことはさんへ
夏休みの前の金曜日、学食で、あなたは毎週、白い紙を一枚持って、箱の前に立っていました。
入れないのは、迷っているからだと思っていました。
最後の金曜日、あなたは、白い口の上で一秒止まって、紅い口に入れました。
紅と白を塗り分けるとき、いちばん難しいのは境目です。にじまないように、片方が乾くのを待ってから、もう片方を置きます。
あの一秒は、乾くのを待つ時間に見えました。
好きです。
名前は、書きません。見ていただけなので。
紅林が、画用紙を持ち上げた。
俺も、身を乗り出した。
「字が」
「文が」
同時だった。
白羽さんの首が、右、左、と動いた。
「……どうぞ」
「……どうぞ」
また同時だった。
白羽さんの首が、もう一往復した。
「あなたからでいいわ。どうせ、私のほうが早いもの」
「じゃあ言う。字が、全部同じ大きさだ」
「レタリングね。ポスターの字」
「それを今、言おうとした」
紅林の口の端が上がった。
勝負の顔だった。
そこから先は、もう、どっちが先かの殴り合いだった。
「紙は、画用紙だ。端の切り口が、まっすぐすぎる。カッターと定規だ」
「比喩が一つだけ。乾くのを待つ。しかも、自分の手の仕事から作ってる」
「それに、この紙、手ざわりに覚えがある。六月と七月に、俺が四回、白に入れた紙と同じだ」
「塗り分ける、境目、乾く。色を塗る人の言葉よ。それも、二色の境目を塗った人」
「投票用紙を切ったのは」
「紅と白の箱を塗ったのは」
「「美術部!」」
ぴったり重なった。
白羽さんの首が、三往復目に入った。
テニスの観客の首の動きだった。
「今のは、私が先よ」
「同時だった」
「〇・一秒、私が早かったわ」
「測ったのか」
「心の中で」
それは測ったとは言わない。
「で、美術部の」
「美術部の」
二人そろって、そこで止まった。
「「……誰?」」
また重なった。
四畳半が、しんとした。
名探偵が二人いて、どっちも、そこから先を知らなかった。
「……毎週、箱を、運んで、きた、人、です」
白羽さんが、小さな声で言った。
俺と紅林が、同時に白羽さんを見た。
今日、何回目の同時だ。
「……金曜の、お昼に、学食の、入口から、箱を、抱えて、きました」
白羽さんは、自分の両手を、胸の前で四角く構えてみせた。
「……箱の、角を、両手で、こう。……ぶつけない、ように」
「……そこまで見てたの?」
「……毎週、お礼を、しました」
毎週、九十度。
投票箱を運んできただけの男子に、毎週。
そりゃあ、見る。
俺だって見る。
紅林が、万年筆のキャップを唇に当てて、天井を見た。
「……箱を運んできた子なら、顔は覚えてるわ。夏に四回、あの箱に投票したもの。名前は知らない。依頼人じゃないから」
「俺は、柱の陰で耳をふさいでた」
「知ってるわよ」
知られていた。
「「……負けた」」
最後の同時は、二人そろって白羽さんに負けた声だった。
白羽さんは、画用紙を両手で持ったまま、ほんの少しだけ顎を上げた。
かわいい、と思った。
思っただけだ。
口には出していない。
たぶん。
◇
次の日の放課後、三人で、特別棟の二階のいちばん奥にある美術室へ行った。
白羽さんは、返事を書くために。
俺は、その下書きのために。
紅林は「名乗らない恋文なんて、恋文屋の商売の敵よ。顔を見ておくわ」と言って、勝手についてきた。
扉の窓からのぞくと、中には石膏の胸像がずらりと並んでいた。
イーゼルが五つ、輪になっている。
壁ぎわの棚の上に、紅と白に塗り分けた段ボール箱が、ちょこんと載っていた。
四番勝負の投票箱だ。
そして、窓ぎわに一人、こっちに背中を向けて、キャンバスに絵の具を置いている男子がいた。
「あの子よ」
紅林が、小さく言った。
白羽さんが、扉に手をかけた。
調査のときの白羽さんは、迷わない。
変装をしていないぶん、今日は話が早い。
早すぎた。
扉が開いた瞬間、イーゼルの輪の中から、一年生らしい女子が飛び上がった。
「あっ、モデルさんですか!」
白羽さんの背筋は、今日も定規入りだ。
美術部の目から見ると、たぶん、立っているだけでポーズになっている。
「……ごめんなさい」
間が長く、目を伏せる。
辞典の①、謝罪の「ごめんなさい」だった。
人違いです、のつもりだったはずだ。
「遅れたのは大丈夫です! どうぞ、こちらへ!」
部員たちは、遅れてごめんなさい、と聞いたらしい。
同じ①でも、何を謝っているのかまでは、辞典に載っていない。
白羽さんは、輪のまん中の丸椅子の前まで、ていねいに案内された。
「ポーズ、お願いします! 五分です!」
白羽さんは、少しだけ固まった。
それから、自分が知っているいちばん美しい姿勢をとった。
九十度のお辞儀だった。
「……お辞儀!」
「斬新!」
「動かないでください!」
鉛筆の音が、いっせいに走り出した。
輪の五人が、白羽さんのお辞儀を描いている。
白羽さんは、髪の一本も揺らさずに、九十度で止まっていた。
五分間、ぴくりともしない。
六月の将棋部では、着物で女流の先生に間違えられた。
今日は、美術部のモデルだ。
どこへ行っても、本物に間違えられている。
扉の外で、紅林が肩を震わせていた。
「いい機会じゃない。調査よ」
紅林は、美術室の中へ、すっと入った。
部員のふりをして、窓ぎわのほうへ、ゆっくり歩いていく。
腕を組んで、片眉を上げて、どう見ても部員ではなかった。
五人の視線が白羽さんに集まるあいだに、俺は石膏像の列のうしろを、かがんで進んだ。
石膏のギリシャ人、少し場所を借りるぞ。
棚の前で、投票箱を見上げた。
紅と白の境目が、まっすぐだった。
よく見ても、にじみがどこにもない。
片方が乾くのを待ってから、もう片方を置いている。
手紙に書いてあったとおりだ。
投票口に、指を入れてみた。
切り口が、ひっかからなかった。
段ボールの断面に、やすりがかけてある。
二百人が紙を入れても、誰も指を切らないように。
夏に四回、俺はこの白い口に紙を入れた。
そのとき、指が痛くならなかった理由を、今日はじめて知った。
「はい、五分です! ありがとうございました!」
白羽さんが、九十度から、まっすぐに戻った。
部員たちの拍手の中で、部長らしい三年生がスマートフォンを見て、首をかしげた。
「……あれ? モデルの子、今日はお休みって連絡、来てる」
美術室が、しんとした。
「じゃあ、あなたは……?」
「……二年、B組の、白羽、です」
五人の鉛筆が、いっせいに止まった。
窓ぎわの筆も、止まった。
キャンバスの前の背中は、それでも、振り向かなかった。
耳だけが、ゆっくり赤くなっていった。
紅林が、その横で、何も言わずに腕を組んでいた。
白羽さんは、輪の全員に、本物の九十度をした。
それから、窓ぎわの背中にも、もう一度だけ頭を下げた。
背中は、最後まで、こっちを向かなかった。
その日の美術部のスケッチブックには、九十度のお辞儀が五枚残った。
廊下に出ると、白羽さんが立ち止まった。
「……名前を、呼ばない、返事に、します」
振り向かなかった背中を、白羽さんも見ていた。
名乗らないと決めたのは、向こうだ。
それなら、こっちから名前を呼ばない。
「渡し方は?」
白羽さんは、美術室の扉の窓を、ちらっと振り返った。
棚の上の、紅と白の箱のほうだった。
「……箱に、入れます。……白い、ほうに」
四番勝負の投票で、白羽さんは一度も、白い口に紙を入れなかった。
今度は、そこに返事を入れるつもりらしい。
投票箱が、郵便受けになる日が来た。




