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第36話 四畳半に四人

 百瀬への返事から、虹が消えた。


 消したのは、俺ではない。


 白羽さんだ。


 火曜日に紅林が〔もう一回だけ、格好つけなさい〕と赤を入れたので、俺は水曜日、二重線を引いた虹の行を、こっそり復活させた。


 白羽さんは、それを読んで首をかしげた。


「……学食で、虹は、見たことが、ありません」


 白羽さんの名前で出す手紙に、嘘は書かない。


 四月に決めたルールの二つ目は、比喩にまで効くらしい。


 たはは。


 かわりに、白羽さんが自分で一行くれた。


「……百瀬さんの、声のあとは、学食が、少し、明るい、です」


 これは本当だ。


 俺も毎週、柱の陰で見ている。


 だから、その一行を入れた。


 紅林に言われた格好つけは、白羽さんが代わりにやってくれたというわけだ。


 十月四日、金曜日の昼。


 俺は今日も、学食の入口の柱の陰にいた。


 百瀬は、白羽さんから返事を受け取ると、いつものように黙って読んだ。


 折り目どおりに畳んで、クリアファイルにしまった。


 カチッ。


 首から下げた数取器が、〔94〕になった。


 それから、百瀬は拡声器を構えた。


「『あなたの声のあと、学食は、少しだけ明るくなります』って、書いてくれました!」


 二百人が、いっせいに天井の蛍光灯を見上げた。


 明るさを確かめているらしい。


 確かめるな。


「だから今日は、とびきり明るくします!」


 百瀬は、拡声器の音量のつまみを、いちばん右まで回した。


 嫌な予感しかしなかった。


「白羽先輩! 好きです!」


 窓ガラスが、びりびり鳴った。


 奥の長テーブルで、野球部の湯のみが一列そろって跳ねた。


 明るくなったかどうかは知らない。


 でも、二百人の目は確実に覚めた。


「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」


 白羽さんの一文は、いつもの音量だった。


 最大音量のあとだと、ほとんどささやき声だ。


「ありがとうございます! それから!」


 百瀬が、拡声器をくるりと回した。


 先っぽが、まっすぐ俺の柱を向いた。


 待て。


 待て待て待て。


「墨田先輩! 放課後、取材します! 告白の予定について!」


 二百人が、柱を見た。


 柱は、俺を隠すには、細すぎた。


 百瀬は、九月の文化祭の日に、ノックなしで文芸部室に入ってきたことがある。


 場所は、とっくに知られている。


 そして今日の放課後、あの四畳半には、恋文屋と白羽さんと、俺の下書きの山がそろう。


 金曜も来る、と火曜日に紅林が言ったからだ。


 そこへ、新聞部の編集長が、拡声器ごと乗りこんでくる。


 終わった。


  ◇


「休まないわ」


 放課後の文芸部室で、紅林は言い切った。


 今日も、ソファの座布団の上に書き損じの束を積んで、その上に座っている。


「勝負は、毎週よ。それに、あの子の声は、廊下の端から聞こえるわ。聞こえてから隠せばいいでしょう」


 理屈は、合っていた。


 百瀬の声は、拡声器を通さなくても天井が鳴る。


 白羽さんは、何も言わずに、膝の上に紫の風呂敷を広げて置いた。


 九月に、俺の下書きを全部持ち帰ったときの風呂敷だ。


 念のため、らしい。


 準備が、いちばんいい。


 問題は、俺の下書きのほうだった。


 百瀬には、俺の字は読めないはずだ。


 ただし、一か所だけ例外がある。


 署名だ。


 〔白羽ことは〕だけは、なぜか手がていねいに書いてしまう。


 火曜日に、それを全校放送の声で教えてもらったばかりだ。


 下書きの最後の行に、読める字で〔白羽ことは〕。


 それを、新聞部の編集長が見る。


 考えただけで、首の後ろが痒い。


 それでも、赤ペン同盟は始まった。


 長机の上に、俺の今週の下書きが扇形に広がった。


 紅林の赤が、片っぱしから入っていく。


 白羽さんは、俺の向かいの椅子で、俺が水曜日に貸したロスタンを読んでいた。


 黄色い付箋が、もう二十枚くらい飛び出している。


 三日で、ずいぶん進んだらしい。


「……鼻の、ところ、読みました」


 白羽さんが、本から顔を上げた。


「……悪口が、二十、ありました」


「……数えたの?」


 紅林の赤ペンが止まった。


「……はい」


 白羽さんは、うなずいた。


 それから、長机の端の早見表に、ちらっと目をやった。


「……墨田くんの、字の、悪口のほうが、多い、です」


 紅林が、また噴いた。


 俺は、反論できなかった。


 数えたことはないが、たぶん、勝っている。


 勝ちたくなかった。


 白羽さんの肩が、少しだけ得意そうだった。


 火曜日に置いていかれた分を、三日で取り返しに来ている。


 追いつくのが、速すぎる。


 そのときだった。


 扉が、音もなく、五センチ開いた。


 隙間から、白い拡声器の先が、にゅっと入ってきた。


 足音は、しなかった。


 声も、しなかった。


 廊下の端からどころか、扉の前に来るまで、何一つ聞こえなかった。


 百瀬が、忍び足で来ていた。


 そんな機能があるなんて、聞いてない。


 一秒目。


 紅林が、長机の上の俺の下書きを両腕でかき集めて、尻の下の書き損じの束に重ね、その上にどすんと座り直した。


 二秒目。


 白羽さんが、紅林の腕からこぼれた三枚と、長机の端の早見表を、膝の上の風呂敷で包んだ。


 結び目は、一瞬で、きれいな真結びになった。


 速い。


 三秒目。


 俺は、何もしなかった。


 隠すものが、もうない。


 俺自身を隠す場所も、ない。


 四畳半には、柱すらない。


 扉が、全開になった。


「取材は、奇襲が基本です!」


 百瀬が、敬礼していた。


 百瀬は、部屋の中を見回した。


 ソファの紅林。


 風呂敷包みを抱えた白羽さん。


 手ぶらの俺。


 百瀬の目が、きらっと光った。


「分かりました!」


 何がだ。


「墨田先輩、告白のお手紙を、恋文屋さんに頼んだんですね!」


 違う。


「しかも、白羽先輩ご本人の前で打ち合わせ! 斬新です!」


 全然違う。


 でも、違うとは言えなかった。


 違うなら、どうして四畳半に三人でいるのかを説明しなければならない。


 説明できるわけがない。


 紅林が、ゆっくり脚を組んだ。


 尻の下で、俺の下書きが、くしゃっと鳴った。


「……ええ。依頼人よ」


 声が、楽しそうだった。


 目は、もっと楽しそうだった。


 百瀬は、座る場所を探した。


 椅子は、俺と白羽さんでふさがっている。


 白羽さんが、風呂敷包みを抱えたまま立ち上がって、九十度で自分の椅子を示した。


「……どうぞ」


「いえ! 取材相手を立たせるわけにはいきません!」


 百瀬は、元気よく、紅林の隣に飛びこんだ。


 ソファが、ぎいいいいい、と、火曜日より長く鳴いた。


 百瀬が、沈んだ。


 深く、深く、沈んだ。


 長机の端から、百瀬の顔が消えた。


 残ったのは、左右のツインテールの先だけだった。


 二本そろって、机の縁からぴょこんと立っている。


 火曜日の俺の予想は、見事に当たった。


 うれしくない。


「では、取材を始めます!」


 声は、机の下から聞こえた。


 それから、白い拡声器の先が、机の縁の上にぬっと出てきた。


 潜水艦の潜望鏡だ。


「質問一! 告白は、いつですか!」


「……あ、うん」


「近いうち! 月曜日と同じですね!」


 拡声器の横から、ボールペンの頭だけがのぞいて、何かを書いた。


 膝の上にメモ帳を置いているらしい。


 ツインテールと拡声器とボールペンだけの記者が、取材を進めていく。


「質問二! 白羽先輩の、どこが好きですか!」


 首の後ろが、一気に熱くなった。


 答えは、ある。


 山ほどある。


 その本人が、目の前で風呂敷包みを抱えて、背筋を定規みたいに伸ばして、こっちを見ている。


 言えるわけがない。


「……あ、う」


「それは、言えないわ」


 紅林が、先に答えた。


「誰のどこを好きかは、話せないわ。手紙に書くまで、依頼人の秘密よ」


 六月の店でも、紅林は依頼人の名前を残さず、聞き取りのメモまで本人に渡していた。


 本物の秘密の守り方で、嘘の打ち合わせを乗り切るつもりだ。


 助かった。


 と、思った。


「ただ、一つだけ教えてあげる」


 紅林の口の端が、上がった。


「この人、署名のところだけ、字がていねいなの」


 白羽さんの腕の中で、風呂敷の結び目が、ぎゅっと締まった。


「ていねいな署名! メモします!」


 メモしなくていい。


 ソファが、もう一度きしんだ。


 百瀬が、机の下で身を乗り出したらしい。


 紅林の体が、百瀬のほうへ少し傾いた。


 尻の下から、ルーズリーフの角が一枚、じわっとはみ出した。


 俺の字だった。


 しかも、いちばん下の行のほうの角だ。


 あと三センチで、〔白羽ことは〕が出る。


 俺は、目で紅林に知らせようとした。


 紅林は、机の縁の拡声器を楽しそうに眺めていて、こっちを見ない。


 拡声器の先が、くるりとこっちへ回りかけた。


 白羽さんが、動いた。


 風呂敷包みを片腕に抱え直して、空いた手で、ロスタンの文庫本を高く持ち上げた。


 二十枚くらいの黄色い付箋が、旗みたいにひらひらした。


「……これ、です」


「白羽先輩、その本! 付箋だらけです!」


 百瀬は、いつも人の手元を見る。


 いまこの部屋で、いちばん目立つ手元は、白羽さんの手元だった。


 百瀬が本に釘づけになっているあいだに、白羽さんの目が、一度だけ紅林を見た。


 それから、紅林の尻の下を見た。


 紅林が、気づいた。


 片手を腰の後ろへ回し、角をすっと押しこんだ。


 そのまま、何事もなかったように座り直した。


 敵どうしの連携が、完璧だった。


 なんでそんなに息が合うんだ。


 夏の学食では、手紙で殴り合っていたくせに。


「何の本ですか!」


「……ロスタン、です」


「ロスタン! 誰ですか!」


「フランスの劇作家よ」


 紅林が、楽しそうに口をはさんだ。


「自分の好きな人に、ほかの男の名前で、手紙を書いてあげる男の話」


 心臓が止まるかと思った。


 紅林、それは助けてない。


「代わりに、書く!」


 机の縁で、ツインテールが二本とも跳ねた。


「つまり、恋文屋さんのお話ですね!」


「……そういうことね」


 紅林は、平気な顔でうなずいた。


 俺の心臓は、まだ動き出していなかった。


「質問三!」


 拡声器の先が、白羽さんのほうへ回った。


 椅子を勧めてから、白羽さんはずっと立ったままだった。


 座るのを忘れているらしい。


「白羽先輩は、墨田先輩の告白、受けますか!」


 四畳半が、止まった。


 紅林の組んだ脚が止まった。


 俺の息が止まった。


 ソファのきしみまで止まった。


 白羽さんは、風呂敷包みを抱えて、背筋を伸ばしたまま、口を開いた。


「……ごめんなさい」


 声の高さが、「ごめ」で上がって、そのまま上で止まった。


 下りてこなかった。


 目が、机の縁の拡声器と俺のあいだを、右、左、右、左、と二往復した。


 ①謝罪なら、間が長くて、目を伏せる。


 ⑧動揺なら、声は一語の中で上がって、また下がる。


 今のは、上がったきり戻ってこない。


 目まで、ちっとも落ち着かない。


 困っている。


 ものすごく、困っている。


「玉砕確定ですね!」


 机の下から、元気な声がした。


 百瀬の辞典には、ごめんなさいが一種類しか載っていない。


「見出し、決まりました! ありがとうございました!」


 百瀬は、立ち上がろうとした。


 立てなかった。


 ソファが、百瀬を離さなかった。


 机の縁で、ツインテールが二本、じたばたした。


「……あれ?」


 紅林は、手を貸せない。


 立てば、尻の下から俺の一週間が出てくる。


 白羽さんは、風呂敷包みで両手がふさがっている。


 残っているのは、手ぶらの俺だけだった。


 俺は、机の縁から突き出た拡声器の先をつかんで、引っぱった。


 すぽん、と、百瀬がソファから抜けた。


「ありがとうございます! 墨田先輩、意外と力持ちです!」


 百瀬は、拡声器ごと敬礼した。


 扉のところで、くるりと振り返った。


「月曜の週刊玉砕、お楽しみに!」


 扉が閉まった。


 今度は、ちゃんと足音がした。


 廊下の端まで、ずっと聞こえていた。


 帰りは忍ばないらしい。


 紅林が、ようやく立ち上がった。


 ソファの上に、俺の今週の下書きが残っていた。


 一枚残らず、しわしわだった。


 丸めて伸ばしたティッシュの束みたいになっていた。


 白羽さんが、やっと椅子に座った。


 風呂敷包みをほどいて、しわしわの一枚を長机に置き、手のひらで端からゆっくり伸ばし始めた。


 半紙を伸ばす手つきだった。


「……しわの、ほうが」


 一枚目を伸ばしながら、白羽さんが言った。


「……少し、読みやすい、です」


「どういう意味だ」


 紅林が、肩を震わせた。


 今週、三回目だった。


 俺は、黒いノートのいちばん後ろを開いて、⑩怒りの下に一行足した。


  〔⑪困惑〕


 白羽さんが、しわを伸ばす手を止めて、それを見た。


 朱の筆ペンのキャップを外して、余白に、一言だけ書いた。


  〔とても〕


 火曜日の怒りは〔……少しだけ、です〕で、今日の困惑は〔とても〕だった。


 正直な辞典に、なってきた。


  ◇


 十月七日、月曜日の朝。


 昇降口で、百瀬が拡声器を構えていた。


「週刊玉砕です! 特報です!」


 見出しは、大きかった。


  〔墨田先輩、玉砕確定!〕


 その下の振られ予報の欄に、俺の名前が載っていた。


  〔振られ予報 墨田先輩 玉砕確率 百パーセント〕

  〔恋文屋さんのお手紙でも、晴れません!〕


 下駄箱の前で、俺は紙を両手で全部隠した。


 上も下も、自分の手だけで隠した。


 紙より、自分の顔のほうを隠したかった。


 降水確率百パーセントの日は、傘を持ってくればいい。


 玉砕確率百パーセントの日は、何を持って学校に来ればいいんだ。

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