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第35話 赤で書く

 赤ペン同盟の、最初の議題は、座布団だった。


 文芸部室にあるのは、長机が一つ、椅子が二脚、古いソファが一つ、座布団が一枚。


 人間は、今日から三人になった。


 椅子は、どう数えても一脚足りない。


 白羽さんが、ソファの上の座布団を両手で持ち上げて、紅林に差し出した。


 九十度だった。


「……どうぞ」


「敵に、座布団を出すの?」


「……お客様、です」


 書院の娘の礼儀は、勝負の相手にも出るらしい。


 紅林は座布団をソファに敷いて、腰を下ろした。


 ソファは、長机の短い辺にくっつけて置いてある。


 ソファが、ぎいい、と長く鳴いた。


 紅林の体が、座布団ごと沈んだ。


 長机の端に、顎から上だけが残った。


「……このソファ、底なし沼ね」


 沈みながら、紅林は言った。


「いえ、沼は大げさね。せいぜい、水たまり」


 そこで止まった。


 紅林の比喩は、たいてい三つ目で着地に失敗する。


 今日は二つ目で引き返した。


 沈んでいて、余裕がないらしい。


 紅林は、抱えてきた下書きの束を座布団の上に置いて、その上に座り直した。


 今度は、肩まで長机の上に出てきた。


「ちょうどいいわ」


「……それ、見せる約束の束だろ」


「見せるのは、いちばん上の一枚よ。下は全部、書き損じ。今週の分」


 一週間の書き損じが、辞書一冊ぶん。


 しかも、もう座り直している。


 俺は捨てずに積んでいたが、座ったことまではない。


 紅林は、尻の下の束からいちばん上の一枚だけを抜いて、長机に滑らせた。


「依頼人のことは、言えないわ。相手の名前も、いつもどおり聞いてない。明日、渡す分よ」


 俺は、赤いボールペンのキャップを外した。


 先週の火曜日、図書室のカウンターに置いていかれた、〔K〕のペンだ。


   あなたの笑う声は、一番だしのようです。最初のひと口で、その日の味が決まります。

   僕は、何でも弱火です。でも、弱火でも、ちゃんと煮えます。

   あなたは、僕の毎日の、隠し味でした。


 うまかった。


 一番だしの一行は、特にうまい。


 悔しいが、俺には一生書けない。


 それから、三つの段落の横に、赤で同じことを三回書いた。


  〔一つでいい〕

  〔一つでいい〕

  〔一つでいい〕


 紅林は紙を引き寄せて、眉を寄せた。


「……何て書いてあるの」


 そうだった。


 俺の字だった。


「一つでいい、って」


「三回も?」


「比喩が三つあるから」


 紅林の片眉が、ゆっくり上がった。


「三つとも、依頼人の話から作ったのよ」


「でも、依頼人が自分で言ったのは、弱火だけだろ」


「……どうして分かるの」


「弱火のところだけ、文が下手だ」


 弱火でも、ちゃんと煮えます。


 紅林なら、絶対にこうは書かない。


 ほかの二つの段落は、紅林の声がした。


 弱火の一行だけ、会ったこともない依頼人の声がした。


「だから、弱火を残す。一番だしと隠し味は消す」


「一番だしは、自信作よ」


「知ってる。三つの中で、いちばんうまい」


「じゃあ、どうして」


「いちばんうまいから、紅林の声がする」


 紅林が、黙った。


 怒るかと思った。


 紅林は、万年筆のキャップの先を唇に当てた。


 目が、明るくなっていた。


「……言うわね」


 身を乗り出した。


 尻の下で、書き損じの束がみしっと鳴った。


「いいわ。弱火の段落を、もっと下手にしましょう。依頼人の下手に、ぴったり合うくらいに」


 机の下で、また紙がみしっと鳴った。


 紅林、いったん座り直せ。


 下書きもソファも、これ以上はもたない。


 白羽さんは、俺の向かいの椅子で、小さく一回うなずいていた。


 弱火の一行を見て、もう一度うなずいた。


 六月に俺の下書きから声が消えたときと、同じところを聞いているらしい。


「じゃあ、次はあなたの番ね」


 紅林が、俺のほうに手のひらを出した。


 もう片方の手で、さっきまで唇に当てていた赤い万年筆のキャップを、すぽんと抜いた。


 六月に、宣戦布告を書いたときと同じ手つきだった。


 仕返しをする気、満々だった。


  ◇


 俺は、今週いちばん新しい下書きを渡した。


 金曜日に、学食で百瀬に渡す返事だ。


 紅林は、赤い万年筆を構えて、下書きを見た。


 構えたまま、止まった。


 紙を横にした。


 縦に戻した。


 逆さにした。


「……これ、日本語?」


「日本語だ」


「楷書? 草書?」


「……楷書の、つもり」


 紅林は、紙を目の高さまで持ち上げて、窓の光に透かした。


 透かしても、俺の字は読めるようにならない。


「……早見表が要るわね」


 冗談のつもりだったらしい。


 白羽さんの右手が、長机の端に動いた。


 そこには、筆ペンと、和紙と、四つ折りの和紙がもう一枚、等間隔に並んでいる。


 右手は、四つ折りのほうの上に、そっと置かれた。


「……あります」


 紅林が、白羽さんを見た。


 それから、和紙を見た。


「……あるの?」


 白羽さんは、うなずいた。


 顔は少しも動かなかった。


 肩だけが、昨日よりもう少し得意そうだった。


 紅林が、和紙に手を伸ばした。


 白羽さんは、和紙を両手で取って、胸に引き寄せた。


 九月二十二日に、俺の第十稿を返さなかったときと、同じ持ち方だった。


「……わたしが、読みます」


 貸す気は、ないらしい。


「じゃあ、この最初の字」


 紅林が、下書きの一行目を指さした。


 白羽さんは、和紙を開いた。


 背筋が、もう一段伸びた。


 息を、一つ吸った。


 五月に、現代文の授業で教室を黙らせた声が出た。


 昼の放送で、全校の箸を止めた声だった。


「墨田くんの字、早見表」


「あ。つぶれた『お』に見えます。上の横棒が短いほうが、『あ』です」


「た。『に』と、ほぼ同じです。前後の字で、見分けてください」


「の。ほどけています」


「す。結び目が、二つあります。一つです」


「ご。点々が、遠くに行っています。隣の字の点々では、ありません」


「白。『日』から、髪の毛が一本、生えています」


「好。『女子』に見えます。一字です」


 紅林が、噴いた。


 長机に突っ伏した。


 肩が跳ねた。


 声が出た。


「あはははは!」


 紅林が声を出して笑うのを、はじめて聞いた。


 思っていたより高くて、思っていたより長かった。


 笑うたびに、尻の下の書き損じの束が、みしみし鳴った。


 壁が、こん、と鳴った。


 隣の図書室からだった。


「……図書室では、静かに」


 柳先生の声が、壁の向こうから届いた。


 ここは図書室ではない。


 壁一枚、隣なだけだ。


 紅林は口を両手でふさいだ。


 ふさいだ指のあいだから、まだ漏れていた。


 白羽さんは、止まらなかった。


 この人は、一度読み始めた文を、最後まで止められない。


 他人の文でも、自分で書き終えた文でも、同じらしい。


 間も、抑揚も、放送のときのまま、最後の行に来た。


「白羽ことは。署名のところだけ、ていねいです」


 紅林の笑いが、ぴたりと止まった。


 柳先生にも止められなかった笑いだった。


 紅林は、ゆっくり顔を上げた。


 目尻に、涙がたまっていた。


 その目が、俺を見た。


 それから、白羽さんを見た。


 白羽さんは、読み終えた姿勢のまま、固まっていた。


 自分が何を読み上げたのかに、一行遅れで気づいたらしい。


 和紙を畳んだ。


 四つ折りにした。


 もう一回折った。


 八つ折りになった。


 もう一回折ろうとしたが、和紙はもう折れない厚さになっていた。


「……署名のところだけ、ね」


 紅林は、涙を指で払いながら言った。


 口の端が、上がりきっていた。


 首の後ろの痒さは、目盛りを振り切っていた。


 五月の号外の朝と同じ、測れないほうだ。


 自分の手が、署名のところでだけゆっくりになることを、俺は九月に早見表をもらうまで知らなかった。


 それを今日、恋文屋に、全校放送の声で知らされた。


 勘弁してくれ、と言う元気もなかった。


  ◇


 それから、白羽さんが俺の下書きを読み上げて、紅林が赤を入れた。


 白羽さんは、早見表を八つ折りにしたまま読んだ。


 文化祭の前から、早見表なしで俺の字が読める。


 読めない字の上に、読める赤が一つずつ乗っていった。


 三行目で、白羽さんの声が止まった。


「……ここは、二重線、です」


「読んで。二重線を引いたところも、って言ったでしょう」


 白羽さんが、俺を見た。


 俺は、うなずいた。


 約束だった。


「……あなたの声は、毎週金曜の学食に、虹をかけます」


 消した理由を、読まれた瞬間に、全身で思い出した。


 痒い。


「どうして消したの。いい行じゃない」


「百瀬の返事に、虹は出てこない。白羽さんの手紙にも」


「シラノなら、虹くらい平気でかけるわよ」


 紅林の赤が、二重線の横に入った。


  〔もう一回だけ、格好つけなさい〕


 ちゃんと読める字だった。


 腹が立つくらい、きれいだった。


「シラノが格好いいのは、格好つけないときだ」


 口から出ていた。


「あら」


 紅林の目が、また明るくなった。


「第一幕を忘れたの? 鼻をからかわれて、自分の鼻の悪口を、自分で何通りも言ってみせるのよ。あれで格好つけてないって言うの?」


「あれは、からかったやつより、うまく言ってみせただけだ。いちばんいいのは、第五幕だ」


「暗くなって、読めないはずの手紙を、最後まで読むところね」


「そう。暗記してたから、読めた。それで、ばれる」


「分かってるじゃない。でも、決闘も忘れないで。詩を作りながら戦って、詩の最後の一行で、突くのよ」


 紅林が、赤い万年筆を、剣のように俺に向けた。


 俺の右手が、勝手に〔K〕のボールペンを上げていた。


 長机の上で、赤と赤が、かちんと鳴った。


「ほら。あなたも格好つけるじゃない」


「つけてない。防いだだけだ」


「防ぐのも、格好つけのうちよ」


 気がつくと、二人とも立ち上がっていた。


 自分の声が、自分の耳にうるさかった。


 六月に紅林に言い当てられた、教室で一日に話す百字を、たぶん、もう三日分は使っていた。


 しゅっ、と、短い音がした。


 紙の上を、筆が走った音だった。


 俺は、言いかけた台詞の途中で、白羽さんのほうを見た。


 白羽さんは、八つ折りの早見表を広げ直して、長机に置いていた。


 右手には、筆箱から出した朱色の筆ペンがあった。


 七月の勉強会で、俺の漢字に直しを入れた朱だ。


 いちばん下の、〔白羽ことは 署名のところだけ、ていねいです〕の、さらに下に、一行増えていた。


  〔墨田くんは、ロスタンの話をすると、声が大きくなります〕


 字の早見表に、字ではない項目が足されていた。


 「大」の右の払いが、和紙の端まで、まっすぐに伸びていた。


 刀だった。


 怒っている。


 九月の終わりから読み取れなかった機嫌が、和紙の端まで伸びていた。


 まずい。


 今の俺、赤ペンで剣を受けている場合じゃない。


 紅林も、その一行を見ていた。


 朱は、逆さまからでも読めるらしい。


 紅林は、万年筆にキャップをはめた。


 かちっ、と鳴った。


「……今日は、ここまでにしましょう」


 尻の下から書き損じの束を引き抜いて、両腕に抱えた。


 ソファが、ほっとしたように、ぎい、と鳴った。


 扉のところで、紅林は一度だけ振り返った。


 口の端が、上がったままだった。


「金曜も、来るわ」


「……毎週、じゃなかったか」


「毎週よ。週に一回とは、言ってないわ」


 口答えされると、やっぱり楽しそうだった。


「そうそう。百瀬さんが、廊下で叫んでたわよ。今週中に、墨田先輩の告白の予定を取材します、って」


 扉が閉まった。


 恋文屋は、百瀬の予告を置いて帰っていった。


 ついでに、怒っている白羽さんと俺を、四畳半に二人きりで置いていった。


 たぶん、わざとだ。


  ◇


 白羽さんは、朱の筆ペンにキャップをはめた。


 早見表は、広げたままだった。


 刀の払いが、長机の上で、まだこっちを向いていた。


 俺は、座り直した。


 立ち上がったままだったのを、今ごろ思い出した。


「……怒ってる?」


 白羽さんは、少しだけ俺を見た。


「……ごめんなさい」


 間が、短かった。


 声が、低かった。


 言い終えて、目を伏せるのではなく、横にそらした。


 窓のほうへ。


 ①謝罪なら、間が長くて、目を伏せる。


 ⑦驚きなら、間は短いが、語尾が上がる。


 今のは、短くて、低くて、語尾が下がって、目が逃げた。


 どれでもなかった。


 でも、今日は迷わなかった。


 答えは、さっき朱の払いで、先に読んでいた。


 俺は、黒いノートのいちばん後ろを開いた。


 〔分類不能 一つ目〕の下に、一行足した。


  〔⑩怒り〕


 白羽さんの手が、伸びてきた。


 朱の筆ペンのキャップを、もう一度外した。


「……貸して、ください」


 ノートを向けると、白羽さんは、⑩の横の余白に、朱で書いた。


 迷いのない速さだった。


  〔⑩は、怒りではありません〕


 書き終えたところで、筆ペンが止まった。


 白羽さんは、自分の書いた一行を見ていた。


 三秒、見ていた。


 それから、目が一度、右上を見た。


 考えるときの目だった。


 白羽さんは、書いたばかりの〔ではありません〕に筆先を戻した。


 筆ペンが動いた。


 〔ではありません〕の上に、朱の線が二本、まっすぐ引かれた。


 その下に、小さく、一行。


  〔……少しだけ、です〕


 少しだけ、か。


 ノートに書いてくれて助かった。


 さっきの長い払いだけなら、かなり怒っていると思うところだった。


 白羽さんは、キャップをはめて、ノートを俺のほうへ押し戻した。


 顔は、少しも動かなかった。


 空書きもしなかった。


 両手が、膝の上で、ぎゅっと筆ペンを握っていた。


 少しだけ、怒っている。


 理由は、だいたい分かった。


 紅林と俺がロスタンの話で立ち上がっているあいだ、白羽さんは一人で座っていた。


 三人で始めた会で、一人だけ置いていかれたら、誰だって怒る。


 それ以外の理由は、考えないことにした。


 考えたら、今夜、自分宛ての断り文句を、もう一稿書くことになる。


「……ロスタン、うちに一冊ある」


 白羽さんの目が、窓から戻ってきた。


「貸そうか」


「……読み、ます」


 即答だった。


 間が、ほとんどなかった。


「……第五幕、から」


「最初から読んで。頼むから」


 白羽さんは、少しだけ不満そうに、うなずいた。


 不満そうに見えたのは、筆ペンを握る指に、もう一段、力が入ったからだ。


 まずは、うちのロスタンを鞄に入れよう。


 第五幕を先に開かれないように、最初のページに栞も挟もう。


 読み終えたら、今度は三人で話せる。


 金曜日には、紅林がまた来る。


 今週中に、百瀬も来るらしい。


 百瀬は、紅林よりずっと背が低い。


 あのソファに座ったら、たぶん、ツインテールしか残らない。


 座布団を、あと二枚、買っておくべきかもしれない。

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