第4話 百二キロの男が泣くと、校庭が揺れる
四月十九日、金曜日の放課後。俺は体育倉庫の陰にいた。
柔道場の裏は、武道場の壁と野球部のグラウンドのフェンスにはさまれた、細長い砂利の通路になっている。体育倉庫はその端にあって、裏手に回ると、トタンの壁と植えこみのあいだに、人ひとりがしゃがめるくらいの隙間がある。俺はそこから、通路の真ん中を見ていた。
白羽さんが立っていた。
両手で、白い封筒を胸の前に持っている。背筋は今日も定規入りだった。フェンスの向こうでは野球部がノックを始めていて、金属バットの乾いた音が、一定の間隔で響いていた。
練習が始まる前の、十分間。それが、権田先輩に頼んだ時間だった。頼んだのは白羽さんで、頼み方は、もちろん手紙だった。
柔道場の裏口の戸が開いた。
道着姿の権田先輩が、首にタオルを掛けて出てきた。砂利を踏む音が、近づくにつれて重くなる。白羽さんの三メートル手前で止まった。
二人は向かい合った。
五秒、何も起きなかった。
白羽さんが、動いた。封筒を両手で差し出したまま、腰から上を、ゆっくり前に倒していく。三十度。六十度。
九十度で止まった。
九十度の告白には、九十度で返すことにしたらしい。
権田先輩は、目の前に差し出された封筒と、その向こうで直角に折れている白羽さんを、しばらく見下ろしていた。それから、なぜか自分も、腰を折った。
九十度だった。
砂利の通路の真ん中で、学年一の美少女と百二キロの柔道部主将が、互いに直角に頭を下げ合っていた。間には白い封筒が一通。試合が始まりそうだった。
先に顔を上げたのは、権田先輩だった。
白羽さんは、まだ直角のままだった。権田先輩は少し迷ってから、太い指で、封筒をそっと受け取った。白羽さんの両手から重さが消えた。それでも白羽さんは、顔を上げなかった。
権田先輩は、その場で封を開けた。
持ち帰って読むのだろうと思っていた。違った。三メートル先に差出人が直角になっている状態で、百二キロの男は、手紙を広げた。
読み始めた。
俺は、体育倉庫の陰で、息を止めた。
自分の書いた文章が、目の前で読まれている。三行目あたりで、首の後ろが痒くなった。昨日と同じだった。ただし今日は、声に出して読んでいるのは俺ではない。誰も声に出していない。それでも痒かった。
権田先輩の目が、行を下りていく。
あるところで、止まった。たぶん、仮入部の一年生のところだ。
もう少し下りて、また止まった。二年生の一本のところ。
それから先は、なかなか動かなかった。
最初に聞こえたのは、鼻をすする音だった。
次に、肩が揺れた。道着の肩が、上下に大きく揺れた。
それから、声が出た。
泣き声というより、地鳴りだった。百二キロの体の底から、おう、とも、ああ、ともつかない音が湧き上がってきて、砂利の通路いっぱいに広がった。
フェンスの向こうで、ノックの音が止まった。
金属バットを構えたまま、野球部の監督がこちらを見ていた。外野に散らばっていた部員たちも、グローブを下ろして、柔道場の裏を見ていた。誰も、何が起きているのか分からないという顔をしていた。分かっているのは、俺と、白羽さんだけだった。白羽さんは、まだ直角だった。
権田先輩は、手紙を最後まで読んだ。
読み終えると、それを丁寧に折りたたみ、元の封筒に戻した。道着の襟の内側に、そっと差しこんだ。
そして、一歩下がった。
「押忍! ありがとうございましたッ!」
直角の白羽さんに向かって、権田先輩は叫んだ。叫んで、深く礼をした。
礼をしたまま、体が前に傾きすぎた。
百二キロが、砂利の上で前に回った。
ざっ、と砂利が鳴った。見事な前回り受け身だった。肩から入り、背中で転がり、片腕で地面を叩く。砂利が少し跳ねて、元の場所に落ちた。権田先輩は転がった勢いのまま立ち上がり、何事もなかったように道着の砂を払った。
受け身の名人は、感極まっても受け身を取るらしかった。
白羽さんが、ようやく顔を上げた。
権田先輩は、真っ赤な目のまま笑った。
「いい手紙だった」
それから、少し照れたように頭をかいた。
「俺、投げられるの、得意なんだ。知らなかった。……知ってたけど、知らなかった」
それだけ言うと、権田先輩は柔道場の裏口へ戻っていった。戸を開ける前に一度だけ振り返り、白羽さんに向かって、もう一度頭を下げた。
「押忍」
戸が閉まった。
中から、「練習始めるぞ!」という大声が聞こえた。二十人分の「押忍!」が、それに答えた。
フェンスの向こうで、ノックの音が戻ってきた。
俺は体育倉庫の陰で、しゃがんだまま、一昨日の、頭の中の赤ペンを思い出していた。
押忍は要らない、と俺は直した。
あれは、要った。
◇
白羽さんは、体育倉庫の陰まで歩いてきた。
俺がしゃがんでいる場所を、最初から知っていたらしい。まっすぐ来て、俺の前で止まった。見下ろされる形になったので、俺はあわてて立ち上がった。トタンの壁に頭をぶつけた。いい音がした。
白羽さんは、それには何も言わなかった。
かわりに、少しだけ息を吸って、言った。
「……ごめんなさい」
声の高さは、いつもと同じだった。間が、短かった。言い終わったあと、白羽さんは俺の目を見たまま、そらさなかった。謝るときの彼女は、言い終わると必ず目を伏せる。今日は伏せなかった。
ありがとう、だと思った。
ありがとうと言いたくて、口から出たのが、いつもの言葉だった。たぶん、そういうことだ。
「……どういたしまして」
俺がそう言うと、白羽さんの右手の指が、胸の前で小さく動いた。何を書いたのかは見えなかった。速すぎた。
それから白羽さんは、鞄から紙袋を出した。
茶色い紙袋の口が、きっちり二回折ってある。差し出されたので受け取ると、ずっしり重かった。中をのぞくと、ラップに包まれたコロッケパンが入っていた。
購買の、限定コロッケパンだった。一日二十個。昼休みが始まって三分で売り切れる。俺は一年間、一度も買えたことがない。
「いや、代金は取らないって」
シラノの決まりの二つ目だ。俺は紙袋を返そうとした。
白羽さんは首を横に振り、人差し指で空中に書いた。
〈パン です〉
代金ではなく、パンです。
論理としては、何も言い返せなかった。
白羽さんは一礼して、校舎のほうへ帰っていった。
俺は体育倉庫の陰で、コロッケパンを一口かじった。昼休みに買ったものだから、すっかり冷めていた。冷めていても、一年間食べられなかった味がした。
その味の理由は、翌週の月曜日に分かった。
教室の後ろで、男子が三人、声をひそめて話していた。金曜の昼休み、購買の前に行列ができていた。いつもは運動部の三年生が最前列を占めている。その最前列に、白羽ことはがいた。表情一つ変えず、背筋を伸ばしたまま、ラグビー部の三年生の肩のあいだを抜けて、いちばん最初にコロッケパンをつかんだ。
「あの白羽さんが、パンのために」
「何があったんだ」
「分からん。分からんが、俺は見た」
俺は黒板消しをはたきながら、それを聞いた。
何があったのかは、知っていた。
その日の放課後、俺は黒いノートのいちばん後ろのページに、一行足した。
〔③感謝〕
◇
柔道場の裏の一件は、野球部経由で、その日のうちに学年じゅうに広まっていた。
百二キロの柔道部主将が、白羽ことはに手紙で振られて、泣いた。泣いて、砂利の上で前回り受け身を取った。
ここまでは、事実だった。
そこから先が、少し違った。
月曜の朝、権田先輩は頭を丸めて登校してきた。
丸刈りの百二キロが、昇降口で一年生に「おはようございます」と頭を下げた。下げられた一年生のほうが、驚いて九十度で固まった。
火曜には、渡り廊下に落ちていた空き缶を拾って、購買の前のごみ箱まで捨てに行った。水曜には、雨の中、傘を忘れた女子の集団に自分の傘を渡し、自分は道着の袋を頭にのせて帰った。
「権田先輩が丸くなった」と三年生が言い、「頭が?」と二年生が聞き返した。両方だった。
四月二十八日、日曜日。地区大会。
権田先輩は、個人戦で優勝した。
俺がそれを知ったのは、連休の谷間の火曜日、図書室の新聞棚に差してある地元紙の地域面でだった。写真つきの小さな記事で、丸刈りの権田先輩が、金色のメダルを首から下げて、歯を見せて笑っていた。
記事の最後に、一行だけ、本人の言葉が載っていた。
〔「振られて、強くなりました」と権田主将は笑った。〕
誰に、とは書いていなかった。
書いていなくても、全校が知っていた。
俺はその記事を、二回読んだ。
振られて強くなった、というのは、正確ではない。あの人は、最初から強かった。誰よりも上手に投げられる人だった。俺はそれを、一枚の紙に書いただけだ。
でも、新聞の一行を読み返しているうちに、首の後ろが、また少し痒くなった。今度の痒さは、嫌ではなかった。
カウンターの中で、柳先生が言った。
「図書室では静かに」
俺は何も言っていなかった。たぶん、顔がうるさかったのだと思う。
記事の切り抜きは、翌日には昇降口の掲示板に貼られていた。誰が貼ったのかは分からない。生徒指導の先生がはがし、次の朝にはまた貼られていた。
連休のあいだに、噂は形を変えた。
白羽さんに振られると、強くなるらしい。
白羽さんに振られると、運がよくなるらしい。
白羽さんに振られると、人生が好転するらしい。
五月七日、火曜日。ゴールデンウィークが明けた朝。
教室に入ると、白羽さんの机の前に、男子が三人並んでいた。
三人とも、別のクラスの顔だった。一人は花束を持っていた。一人は賽銭のように五円玉を握っていた。三人目は、なぜか合掌していた。
先頭の男子が、大きく息を吸った。
「白羽さん! 俺を、振ってください!」




