第3話 押忍は要らない
断り文句には、五つの約束がある。
俺が決めた。昨日の夜、決めた。
四月十七日、水曜日の放課後。文芸部室の長机をはさんで、俺はそれを白羽さんに説明した。
「一つ目。最初に、告白してくれたことへのお礼を書く」
白羽さんは鞄から筆ペンと和紙を出し、書きとめた。
〔一、御礼〕
「二つ目。相手の良いところを、一つ書く。本人も気づいていないところなら、なおいい」
〔二、美点〕
「三つ目。結論は、はっきり断る。期待を残さない」
白羽さんの筆が止まった。筆ペンを持ったままの右手のかわりに、左手の人差し指が空中で動いた。
〈む・り〉
「白羽さんが言うんじゃない。手紙が言うんだ」
白羽さんは少し考えて、筆を動かした。
〔三、明断〕
「四つ目。断る理由を、相手の欠点にしない」
〔四、非難セズ〕
「五つ目。最後に、相手が次へ進める一言を置く」
〔五、餞〕
はなむけ、と読むらしい。
書き上がった和紙を見て、俺はしばらく黙った。昨日の夜、俺が布団の中で考えた五つの思いつきが、どこかの道場の壁に掛かっている部訓になっていた。柔道場に貼れば、そのまま通用しそうだった。
「それと、これは約束じゃなくて、俺の癖みたいなものだけど」
俺は付け足した。
「断り文句には、『ごめんなさい』とは書かない」
白羽さんが顔を上げた。
「ごめんなさいって言われると、言われたほうは『いいよ』って返すしかなくなる。振られた上に、許す役までやらされる。だから謝るなら、別の言葉で謝る」
白羽さんは長いあいだ俺を見ていた。それから、小さく口を開いた。
「……ごめんなさい」
言ってから、白羽さんは自分の口を手でふさいだ。
顔は動かなかった。手だけが、口の上で固まっていた。
◇
次に、権田先輩が何と言ったのかを、白羽さんに書いてもらった。
白羽さんは迷わず筆を動かした。一字一句、覚えているらしかった。
〔好きだ! 付き合ってくれ! 押忍!〕
十二文字。感嘆符を入れれば十五文字。
俺は頭の中で赤ペンを持った。簡潔で、力強い。主語も目的語もないのに、誤解の余地が一つもない。告白として、ほとんど完璧だった。
押忍が要らない。
押忍とは、もとは「押して忍ぶ」という意味だと、どこかで読んだことがある。告白の最後に忍ばれても、言われたほうは困る。
「この、押忍のところで」
俺が指さすと、白羽さんは小さくうなずいた。
「……お辞儀、されました」
「深く?」
「……九十度、です」
百二キロの九十度。告白というより、試合の開始の礼だった。白羽さんが「返事は、手紙で」と言って逃げたくなった気持ちが、少し分かった気がした。
下書きは、その夜、家で書いた。
机に向かってから書き終えるまで、三時間かかった。いちばん時間を使ったのは、良いところの段落だった。
あの人が誰もいない柔道場で縫っていた、六本の帯のことは、書かなかった。帯のことを書けば、手紙はもっと温かくなる。でも、良いところは一つでいい。二つ書くと、ほめ言葉になる。一つなら、発見になる。
それに、あれは誰に見せるつもりもない、あの人だけの時間だった。
◇
翌日の放課後、下書きを持って文芸部室に行くと、白羽さんは先に来ていた。
長机の端に、和紙が三枚と、筆ペンが二本と、文鎮が一つ、等間隔に並んでいた。準備が、果たし合いの前の侍だった。
俺は下書きのルーズリーフを渡した。
白羽さんは、それを見た。三秒見て、俺に返した。
ごめんなさい、すらなかった。
「……読むよ」
俺は自分の下書きを、自分の声で読み上げた。
自分の文章を、声に出して人に聞かせるのは、生まれてはじめてだった。三行目あたりで、首の後ろが痒くなった。六行目で、背中まで痒くなった。最後まで読み終えたとき、全身のどこが痒くないのか分からなくなっていた。
白羽さんは、しばらく黙っていた。
右手が、胸の前で筆ペンを握りしめていた。
「……ごめんなさい」
声が、いつもより少しだけ高かった。
昨日までのどの「ごめんなさい」とも違った。謝っているのではない。たぶん、読み終えた本を胸に抱えるときのような、そういう「ごめんなさい」だった。
感動、と俺は頭の中で名前をつけた。自分で書いた文章に感動された男が、自分でそう名前をつけるのは、かなり恥ずかしかった。
「ルールの二つ目」
俺は言った。
「嘘が一つでもあったら、言って。白羽さんの名前で出す手紙だから」
白羽さんは、ルーズリーフをもう一度のぞきこんだ。読めないので、すぐにあきらめて、俺の顔を見た。
「もう一回、読む?」
うなずく。
二回目は、一文ずつ区切って読んだ。白羽さんは一文ごとに、小さくうなずいた。
八文目で、うなずかなかった。
〔先輩の練習を、ずっと見ていました〕
白羽さんは首を横に振り、小さな声で言った。
「……二分、です」
見ていたのは二分だった。そのうち一分は、主将が宙を舞っていた。
俺は赤ペンでその一文に線を引き、かわりに書いた。〔先輩のことを、一つ知りました〕。
嘘が一つ、消えた。
◇
清書は、その場で始まった。
白羽さんは和紙を一枚、長机の真ん中に置き、文鎮で押さえた。筆ペンのキャップを外した。
背筋が、もう一段伸びた。定規が二本になった。
息を一つ吸って、書き始めた。
紙の上で、穂先がかすかにこすれる音がした。止め、はね、払い。手首だけが動いて、肩は少しも揺れない。一行ごとに、和紙の白いところが、墨の黒に少しずつ場所をゆずっていく。
俺は、自分の下書きと彼女の手元とを見比べた。
同じ文章のはずだった。
でも、俺のルーズリーフの上では暗号だったものが、和紙の上では、知らない誰かの書いた名文に見えた。読点の一つまで、そこにあるのが当然という顔をしている。
自分の文章が、他人の名作に見えた。
少しだけ悔しくて、かなりうれしかった。
十五分後、白羽さんは筆を置いた。
でき上がった手紙を、俺はもう一度、頭から読んだ。今度は、声に出さずに。
権田剛先輩へ
先週の火曜日、気持ちを伝えてくださって、ありがとうございました。
まっすぐな言葉でした。あれだけ短い言葉を口にするのに、どれだけの勇気がいるか、わたしには少し分かるつもりです。わたしは、短い言葉を言うのが、いちばん苦手だからです。
返事を書く前に、先輩のことを知りたいと思いました。それで、柔道場をのぞきました。練習のお邪魔をして、申し訳ありませんでした。
先輩のことを、一つ知りました。
先輩は、仮入部の一年生に、毎日、自分を投げさせているそうですね。慣れない一年生に投げられるのは危ないのに、自分から引き受けている、と聞きました。百二キロの先輩をきれいに投げた一年生は、柔道をやめないそうです。
あの日、二年生の方が先輩から一本を取りました。先輩はその方の背中を叩いて、誰よりも喜んでいたと聞きました。
先輩は誰よりも強い人だと、みんなが言います。
わたしは、先輩は誰よりも上手に投げられる人だと思いました。
だから、はっきり書きます。
わたしは、先輩とお付き合いすることはできません。
それは、先輩のせいではありません。でも、わたしの気持ちは、先輩と同じではありません。
柔道は、礼に始まり、礼に終わると聞きます。
この手紙も、礼で終わらせてください。
先輩なら、この手紙も、きっと上手に受けてくださると思います。そして、受け身のあとには、必ず立ち上がる人だと思います。
先輩の次の一本を、応援しています。
白羽ことは
五つの約束は、全部守れていた。「ごめんなさい」も、一度も書いていない。
白羽さんは和紙が乾くのを待って、三つに折り、白い封筒に入れた。封筒の表に「権田剛先輩」と書き、封をする前に一度だけ、その宛名を指でなぞった。
◇
白羽さんが帰ったあと、俺は黒いノートを開き、いちばん後ろのページに書いた。
〔ごめんなさい〕
〔①謝罪 ②感動〕
二つ書いて、ペンが止まった。
月曜の「読めません」は、どちらにも入らなかった。保留にした。昨日の、口をふさいだやつも、保留にした。
なぜこんなものを書き始めたのかは、自分でもよく分からなかった。分からないことにしておいた。
手紙はできた。
明日の放課後、柔道場の裏で、白羽さんがこれを権田先輩に渡す。
渡すだけでいい。
それが、白羽さんにはいちばん難しい。




