第2話 柔道部主将の良いところを述べよ
昼休み、机の中に和紙が一枚入っていた。
四つ折りを開くと、昨日と同じ筆で、二行。
〔本日放課後 調査に同行いたします〕
〔変装して参ります〕
参らないでほしい、と俺は思った。
教室の前のほうの席で、白羽ことはは、いつもどおり背筋を伸ばして弁当を食べていた。こちらは一度も見ない。代筆のことは誰にも言わない、という約束を、彼女は昨日の今日で完璧に守っていた。人の机に果たし状の続きを入れていくこと以外は。
断り文句には、相手の良いところが要る。
それも、誰でも知っている良いところでは足りない。「優しいところが素敵です」と書かれて救われる男はいない。優しい男は、自分が優しいことを、たいてい何回も言われてきている。
権田剛について、俺が知っていることは三つあった。三年。柔道部主将。百二キロ。
全校生徒が知っていることも、同じ三つだった。
◇
放課後、図書室の隣の旧視聴覚準備室で待っていると、扉が二回ノックされた。
ここは文芸部の部室だ。四畳半ほどの広さに、古いソファと長机が一つずつ。部員は俺しかいないので、この部屋の扉をノックする人間が来たのは、この一年ではじめてだった。
待ち合わせの場所は、手紙には書いていなかった。それでも彼女は、俺が放課後ここにいることを知っているはずだった。三日も見張っていた人だ。
「どうぞ」
扉が開いた。
サングラス。マスク。ニット帽。
四月十六日。天気は快晴。最高気温は二十一度だった。
「……お待たせ、しました」
声で白羽さんだと分かった。いや、声を聞く前から分かっていた。ニット帽の下から、腰まである黒髪がそのまま流れ出ている。それに、あの姿勢だ。背中に定規が入った不審者は、この学校に一人しかいない。
「その髪、出てるけど」
白羽さんは自分の背中に手をやり、髪の束をつかんで、しばらく考えた。それからニット帽を脱ぎ、髪を全部、帽子の中に押しこみはじめた。
一分かかった。
かぶり直したニット帽は、さっきの倍の大きさにふくらんでいた。頭の上に、もう一つ頭が乗っているように見えた。
「……どう、ですか」
どう、と言われても。
俺が言葉を選んでいるあいだに、白羽さんの右手の人差し指が空中で動いた。
〈か・ん・ぺ・き〉
自己採点だった。
柔道場は、武道場の一階にある。
本館から渡り廊下を抜けると、まず掛け声が聞こえてくる。それから、人が畳に落ちる音。乾いた重い音が、一定の間隔で続いている。入口の引き戸は、風を通すために半分開いていた。
俺たちは引き戸の陰から中をのぞいた。
白い道着が二十人ほど。畳の上で、二人一組になって組み合っている。乱取りという練習らしい。奥のほうに、ひときわ大きな背中が見えた。権田先輩だ。相手の二年生より頭一つ大きく、横幅は一・五人分ある。
最初に気づいたのは、入口のいちばん近くで受け身の練習をしていた一年生だった。
彼は引き戸のほうを見て、固まった。サングラスとマスクと、頭の上の二つ目の頭を見て、それから俺を見た。俺のほうは見なかったことにしたらしく、すぐに視線を戻した。
「……不審者です」
小さな声だったが、柔道場は急に静かになった。二十人が、いっせいにこちらを向いた。
誰かが言った。
「いや、待て。あの姿勢」
「白羽さんだ」
「白羽さんだ」
ざわめきが、奥へ伝わっていった。
権田先輩が、組み合ったまま、首だけをこちらへ回した。
次の瞬間、百二キロが宙を舞った。
相手の二年生の背負い投げだった。きれいな弧を描いて、権田先輩は畳に落ちた。ばん、と、建物ごと揺れるような音がした。
「……一本」
誰かがつぶやいた。投げた二年生は、自分の両手を見下ろしたまま動かなかった。どうやら、はじめて主将から取った一本らしかった。
「なにを見てる! 続けろ!」
奥から大人の声が飛んだ。顧問の先生だろう。俺は白羽さんの腕を引いて、引き戸の陰から離れた。
渡り廊下の途中で、白羽さんはサングラスを外した。
顔は、いつもどおり何も読み取れなかった。そのかわり、右手の指が、さっきの三倍の速さで空中に字を書いていた。
〈な・ぜ〉
「髪と、姿勢」
俺は答えた。
「変装は顔を隠してたけど、髪と姿勢は隠してなかった。白羽さんを白羽さんだと分からせるものの、上から二つ」
白羽さんは、ふくらんだニット帽にそっと手をやった。それから、自分の背中を振り返ろうとして、背中は自分では見えないことに気づいたらしく、途中でやめた。
「……ごめんなさい」
昨日、図書室の棚の陰から出てきたときの「ごめんなさい」に、よく似ていた。謝っている。調査を台なしにしたことを、本気で。
「いいよ。空気は分かったし」
あの人が後輩に投げられたあと、柔道場の誰も笑わなかった。それだけでも、来た意味はあった。
「夕方、練習が終わるころに、一人でもう一回見てくる。その格好じゃなければ、俺は目立たないから」
白羽さんは少し考えてから、うなずいた。
「調べたことは、あとで伝える。……連絡先、聞いてもいい?」
白羽さんは鞄からスマートフォンを出した。俺たちはLINEを交換した。表示された彼女のアイコンは、硯の写真だった。
◇
午後六時。
武道場の外の、植えこみと壁のあいだの細い隙間に立つと、柔道場の横の窓から中が見えた。窓は換気のために少し開いていて、蛍光灯の白い光が、外の植えこみに四角く落ちている。
練習は終わっていた。部員たちはもういない。
畳の端に、権田先輩が一人で座っていた。
道着のまま、あぐらをかき、膝の上で何かをしている。目を凝らすと、帯だった。もとは白かったらしいが、端がほつれて、糸が何本も垂れている。
権田先輩は、針を持っていた。
百二キロの男が、太い指で、針に糸を通そうとしている。窓の外からでも分かるくらい、目を細めている。一回、外れた。二回、外れた。糸の先をなめて、三回目。外れた。四回目。
五回目で通った。
権田先輩は小さく「押忍」と言った。誰に言ったのかは分からない。
縫っているのは、部室の箱に入っている貸し出し用の古い帯だった。あとで知ったことだが、仮入部の一年生は、自分の帯を買うまで、それを借りて巻く。ほつれた帯は、投げられたときに解けやすい。
権田先輩は、ほつれを一本ずつ縫いとめていった。全部で六本あった。縫い終わった帯を一本ずつ丁寧に畳んで、箱に戻した。
それから立ち上がり、畳の真ん中へ出た。
後ろに倒れた。ばん。
起き上がって、また倒れた。ばん。
受け身の練習だった。後ろへ、横へ、前へ回って。俺は数えた。三十回を過ぎたころ、窓ガラスが音に合わせて細かく震えはじめた。五十回を過ぎても、音の間隔は少しも乱れなかった。
七十二回目のとき、俺のポケットが鳴った。
ぽこん、という、間の抜けた音だった。
俺のスマートフォンに家族以外から連絡が来たのは、半年ぶりだった。だから、マナーモードにする習慣がなかった。
あわてて音を消そうとして、指がすべった。通知が開いた。
【白羽】拝啓 若葉の候、墨田様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
時候の挨拶だった。
LINEで、時候の挨拶だった。
続きを読む前に、背中のほうで声がした。
「そこで何してる」
今度は、俺が不審者だった。
ジャージ姿の大柄な男が立っていた。柔道部の顧問で、体育の大熊先生だった。去年一年間の体育の授業で、俺はこの人に一度も名前を呼ばれたことがない。
「……文芸部、です」
嘘ではなかった。
「部活をしている人を、文章にする練習をしていて」
これも、半分くらいは嘘ではなかった。
大熊先生は、俺と、開いた窓と、窓の向こうで受け身を続けている主将とを、順番に見た。それから、なぜか少し笑った。
「あいつを書くのか。そりゃあいい」
大熊先生は植えこみの縁に腰を下ろした。俺もなんとなく隣にしゃがんだ。窓の向こうで、ばん、と音がした。
「あいつはな、うちでいちばん、投げられるのがうまい」
「……強い、じゃなくて」
「強いのは強い。でも、あいつのいちばんは、そっちだ」
大熊先生は、窓のほうへ顎をしゃくった。
「仮入部の一年が来るだろ。最初に、投げ込みをやらせる。相手を投げる練習だ。下手な一年に投げられると、受けるほうは危ない。変な角度で落ちる。あいつは、それを毎日、自分から引き受ける。一年が全員、一回はあいつを投げる。百二キロをきれいに投げた一年は、柔道をやめない」
ばん。
「投げられるほうが上手じゃないと、投げるほうは上手くならない。あいつは、それを一年のときから分かってた」
俺はスマートフォンを握ったまま、窓の向こうの背中を見た。
「最後の、あの受け身は」
「自分の分だ。一日じゅう人に投げられて、最後に、自分のために落ちる練習をする。怪我しない体じゃないと、受けは務まらないからな」
それから大熊先生は、思い出したように笑った。
「今日は、二年の佐々木に一本取られた。あいつ、練習のあと、佐々木の背中をばんばん叩いて喜んでたよ。一年かかって、やっと取った一本だからな」
さっきの背負い投げだ、と俺は思った。主将が投げられたのは、入口の不審者のせいだった。でも主将は、それを後輩の一本として喜んだ。
「それに、白羽が見に来たってんで、浮かれてもいたな」
俺はしゃがんだまま、できるだけ小さくなった。
窓の向こうで、ばん、と音がした。百回目だった。
権田先輩は畳の上に大の字になって、しばらく天井を見上げていた。それから起き上がり、誰もいない柔道場に向かって、一礼した。
◇
帰り道、天神坂を下りながら、白羽さんのLINEを最後まで読んだ。
時候の挨拶のあとに、本日は自分の不手際で調査を台なしにしてしまい誠に申し訳ないということ、髪については今後検討すること、ニット帽は祖母から借りたものであること、などが、便箋三枚分くらいの長さで、正しい敬語で書いてあった。最後は「敬具」で終わっていた。
教室では「……ごめんなさい」しか言わない人が、LINEでは時候の挨拶から始める。
どういう仕組みなのかは、まだ分からなかった。
俺は短く返した。
【墨田】見つけた。権田先輩の、良いところ。
既読は、すぐについた。
三分後に届いた返事は、また便箋二枚分ほどあった。要約すると「よかった」だった。
坂の途中で、俺は立ち止まった。
困ったことが一つ増えていた。権田先輩は、白羽さんが自分の練習を見に来たと思っている。浮かれている男を、期待を残さずに振らなければならない。
それでも、書くことは決まった。
あの人は、誰よりも上手に投げられる人だ。




