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第1話 図書室のシラノに、果たし状が挟まっていた

 俺はいま、体育館の舞台の床下にいる。

 演劇部が昔使っていたという奈落の底で、ほこりと一緒に腹ばいになっている。天井は低く、頭を上げれば床板にぶつかる。その床板一枚の上で、学年一の美少女が、俺の書いた手紙を朗読している。


 宛名は、俺だ。


「お手紙、ありがとうございました」


 白羽(しらは)ことはの声は、マイクを通すと、体育館の鉄骨の天井までまっすぐに届く。満員の六百人が、息をひそめて聞いている。

 舞台の上には、もう一人、正座した男がいる。彼は白羽さんに告白して、いま返事を待っている。その返事は、白羽さんが舞台の上で、その場で書くことになっている。

 実際に書いているのは、床下の俺だ。書き上げた紙を床板の隙間から差し出し、彼女はそれを、自分で書いたように読み上げる。一回戦は、それでうまくいった。

 二回戦の直前、暗がりで俺のノートが落ちた。散らばった紙の中から一枚をつかんで、隙間に押しこんだ。

 つかんだのは、返事ではなかった。


「墨田くんの良いところは」


 体育館がざわついた。床板の向こうで、知らない声たちが俺のことを三語で説明している。二年。B組。前髪。


「人の『ごめんなさい』を、最後まで聞いてくれるところです」


 白羽さんは止まらない。他人の書いた言葉なら、彼女はどこまでもきれいに読める。そして一度読み始めると、最後まで止まれない。俺はそれを知っていた。知っていて、床下で、ただ聞いていた。

 間も、抑揚も、読点のところで息をつぐ長さまで正確だった。俺は頭の中で赤ペンを握り、直すところを探した。なかった。いい文章だった。俺が書いたのだから、当然だ。


「でも、わたしの気持ちは、墨田くんと同じではありません」


 会場が、しんとした。

 こうして俺は、自分で書いた断り文句によって、全校生徒の前で、好きな女の子に振られた。


 最後に一言だけ、白羽さんは原稿にない言葉を、自分の声で言った。

「……ごめんなさい」

 それがどういう意味の「ごめんなさい」なのか、俺には分からなかった。彼女の「ごめんなさい」なら、九種類まで聞き分けられるのに。


 どうしてこうなったのか。

 話は五か月前、図書室の『シラノ・ド・ベルジュラック』に、果たし状が挟まっていた日までさかのぼる。


  ◇


 この学校には、図書室の『シラノ・ド・ベルジュラック』に頼みごとを挟んでおくと、手紙を書いてくれる誰かがいる、という噂がある。

 その誰かは、俺だ。


 墨田文也(すみだふみや)。県立天神坂高校の二年B組。部員一名の文芸部で、部長と平部員を兼ねている。前髪が長く、字が汚い。前者は教室で目立たずにいるのに役に立ち、後者は何の役にも立たない。

 だから依頼人には下書きだけを渡し、清書は本人にしてもらう。手紙は差出人の字で届くべきだし、俺の字で届いたら、相手は内容より先に解読を始めてしまう。


 シラノの決まりは三つある。名乗らない。代金を取らない。恋文は書かない。

 謝罪の手紙なら書く。祖父母への手紙も、絶交の撤回も、部活の顧問へのお礼状も書く。高一の春に始めて、この一年で三十七通。依頼人の誰も、俺の顔を知らない。

 噂の本は、図書室の奥、外国文学の棚の二段目にある。ロスタンの戯曲の古い文庫本で、背表紙が日に焼けている。依頼は、なぜかいつも第三幕のページに挟まっている。口下手な美男子のかわりに、手紙の書き手が夜のバルコニーの下に隠れ、愛の言葉をささやく場面だ。いつからそういう決まりになったのかは、誰も知らない。

 俺は毎日、閉館の前にその本を開く。放課後はたいてい、その棚の脇にある、壁に向いた一人用の机にいる。


 その確認が、先週の水曜から、ひと苦労になった。

 図書室が、混んでいるのだ。


 原因は、同じクラスの白羽ことはだった。

 学年一の美少女、と書くと大げさに聞こえるが、二年生に聞けば十人中十人が彼女の名前を挙げる。腰まである黒髪に、切りそろえた前髪。背中に定規でも入っているのかと思うほど姿勢がいい。表情は、ほとんど動かない。月に何度も告白されて、そのたびに断っている。ついたあだ名が「氷の姫」だった。

 断り方も、氷だった。

 先月、一年生の終わりに、サッカー部の男子が友人たちの前で彼女に告白した。白羽さんは「……ごめんなさい」と一言だけ言って、走って帰った。三秒だった、とあとで誰かが言った。次の日から、その男子は「瞬殺」と呼ばれ、春休みのうちに部をやめた。

 俺はその話を、教室の後ろで黒板消しをはたきながら聞いた。笑っているやつが何人もいた。俺は笑わなかった。何も言わなかった。


 その白羽さんが、先週の水曜から毎日、閉館まで図書室にいる。

 理由は誰も知らない。知らないので、男子が集まる。本を読むふりをする男子。勉強するふりをする男子。図書委員になる方法を、司書の先生に真剣に質問する男子。閲覧席は放課後のたびに満席になり、金曜にはついに立ち見が出た。図書室で立ち見が出たのは開校以来はじめてだと、学校司書の柳先生は言った。

 そして「図書室では静かに」と言った。今日だけで、俺が数えて十四回目だった。

 白羽さんは窓際の席で本を開いたまま、ほとんどページをめくらなかった。ときどき顔を上げて、奥の書架のほうを見る。そのたびに閲覧席の男子が全員、同じ方向へ首を回した。何かの儀式のようだった。

 俺は棚に手を伸ばせなかった。シラノの本を開くところを、四十人に見られるわけにはいかない。この三日は、閉館まぎわ、みんなが帰り支度で騒がしくなった隙に、急いで確かめていた。


 午後四時五十五分。十五回目の「静かに」は、閉館五分前の合図を兼ねていた。男子たちがようやく腰を上げ、気づくと、窓際の白羽さんの姿も消えていた。

 俺は外国文学の棚へ行き、『シラノ・ド・ベルジュラック』を引き抜いた。

 第三幕のページに、封筒が挟まっていた。


 白い和紙の封筒だった。表に、筆で、大きく三文字。

 依頼状。

 墨の線がまっすぐで、止めも払いも教科書の手本のようだった。俺は封筒を持ったまま、しばらく動けなかった。どう見ても果たし状だった。開けたら日時と場所と「一人で来い」が書いてありそうだった。

 開けた。中の便箋も和紙で、同じ筆で、四行だけ書いてあった。


  〔相手が傷つかない断り方を、書いていただけませんか〕

  〔返事は手紙で、と言ってしまいました〕

  〔期限は今週の金曜日です〕

  〔白羽ことは〕


 断り方、と俺は口の中で繰り返した。告白の手紙なら、これまでに何度か頼まれて、全部断ってきた。断るための手紙を頼まれたのは、はじめてだった。

 もう一度、一行目を読んだ。

 四行とも、字は少しも揺れていなかった。一画をのぞいて。

 「傷」の字の、最後の払いだけが、細かく震えていた。


 背中のほうで、本棚が小さくきしんだ。

 振り返ると、外国文学の棚と郷土資料の棚のあいだから、白羽ことはが出てくるところだった。

 白羽さんは俺の前で立ち止まり、深く頭を下げた。長い黒髪が肩から前へ落ちた。

「……ごめんなさい」

 顔を上げても、表情は変わらなかった。教室で見るのと同じ、何も読み取れない顔だった。ただ、俺の手の封筒と、俺の顔とを、二回ずつ見た。

 待ち伏せして、ごめんなさい。たぶん、そういう意味だった。

「……あの」

 白羽さんは何か言いかけて、口を閉じた。もう一度開いて、また閉じた。

 かわりに、右手の人差し指が動いた。胸の前の空中に、すばやく、きっちりと、一文字ずつ。


  〈お・ね・が・い〉


 筆順まで正しかった。


「……これ、白羽さんが?」

 うなずく。

「なんで、俺だって分かったの」

 白羽さんは閲覧席のほうへ目をやって、とぎれとぎれに言った。

「……三日、見てました。閉館の前に、あの本を開く人」

 先週の水曜、木曜、金曜。図書室が混み始めた日と、ぴったり重なる。

 つまり四十人の男子が首を回して見ていた先には、毎日、俺がいたことになる。誰も気づかなかった。存在感がないというのは、こういうとき便利だ。


 白羽さんは、時間をかけて事情を話した。

 一語ずつ、机に置くような話し方だった。途中で何度も止まり、止まるたびに指が空中で何かを書きかけて、やめた。俺は急かさなかった。急かしたら、この人はたぶん「ごめんなさい」と言って帰ってしまう。

 先週の火曜日、三年の権田先輩に告白されたこと。権田先輩は柔道部の主将で、体重は百二キロある(これは俺の補足だ。校内に知らない人はいない)。

 断らなければ、と思ったこと。でも、吉岡くんのときのようには、したくなかったこと。

 吉岡というのが、あのサッカー部の男子の名前だった。

「……それで、言ってしまいました。返事は、手紙で、って。……来週の、金曜に、って」

「書けそう?」

 白羽さんは首を横に振った。

「……一行も、書けないんです」

 俺は封筒に目を落とした。この字を書く人が、一行も書けない。

 信じがたかったが、分かる気もした。字は手が覚えている。言葉は、手では覚えられない。


 引き受けない理由は、あった。

 シラノは恋文を書かない。始めたときから、そう決めている。理由はここでは言わない。

 では、断り文句は恋文だろうか。

 俺は頭の中で辞書を引いた。恋文とは、恋心を伝える手紙である。断り文句とは、その恋心を受け取れないと伝える手紙である。向きが逆だ。よって恋文ではない。

 屁理屈だった。自分でも分かっていた。

 本当に俺を動かしたのは、屁理屈ではなかった。「傷」の字の震えと、三月の教室で笑わなかったけれど何も言わなかった自分と、それから少しだけ、まだ書いたことのない種類の手紙への興味だった。


「分かった。書くよ」

 白羽さんの肩が、わずかに下がった。顔は相変わらず動かなかったが、肩は正直だった。

「ただ、二つ決めておきたい」

 俺は指を一本立てた。

「一つ。代筆のことは、誰にも言わない。白羽さんも、俺も」

 うなずく。

「二つ。断り文句に、嘘は書かない」

 白羽さんが、少しだけ首をかしげた。

「傷つけないために嘘をつくと、たぶん、あとでもっと傷つける。だから本当のことだけで、傷つけない文を書く。できるかどうかは、やってみないと分からないけど」

 白羽さんは長いあいだ俺を見ていた。それから、深くうなずいた。


「それと、清書は白羽さんがして。差出人の字じゃないと、手紙にならないから」

 俺はノートを開き、見本に一行書いてみせた。〔権田先輩へ〕。

 白羽さんは、それを見た。見て、もう一度見た。目が、たった五文字の上を三回往復した。

「……ごめんなさい」

 さっきのとは、間が違った。声も半音ほど低かった。

 読めません、という意味だと、俺は理解した。


「閉館です」

 柳先生の声がした。今日はじめて聞く、「静かに」以外の言葉だった。

 白羽さんは一礼して、先に図書室を出ていった。背筋は最後まで、定規が入っているようにまっすぐだった。

 俺は封筒を鞄にしまい、今日決まったことを頭の中で並べた。

 期限は金曜日。あと四日。

 相手は、百二キロの柔道部主将。

 俺はその男の心を、傷つけずに投げなければならない。

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