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第33話 悔しいけど、好きな文章

 週刊玉砕の一面に、俺の最悪の顔が載った。


 九月二十四日、火曜日の朝。


 月曜が振替休日だったので、週刊玉砕は一日遅れで配られた。


 見出しは、二つあった。


  〔会員番号〇番、誕生! 告白の前に玉砕した男〕

  〔決勝戦の判定は、次回予告のあとで!〕


 写真は、日曜日に柔道場で百瀬が撮った一枚だった。


 口が半分開いて、目が半分閉じていた。


 下駄箱の前で、俺はいつものように、紙の下半分を手のひらで隠した。


 読者投稿の欄は、下半分にある。


 追伸は読まない、と七月に約束した。


 隠したいのは、今日は、上半分のほうだった。


 隣の下駄箱から、手が一枚、伸びてきた。


 白羽さんの右手だった。


 俺の紙の上半分に、そっと重なった。


 俺の最悪の顔が、白羽さんの手のひらの下に入った。


 下半分は俺の手のひらで、上半分は白羽さんの手のひらで隠れた。


 週刊玉砕は、一文字も読めなくなった。


 三秒くらいで、白羽さんの手は離れた。


 小さく一礼して、階段のほうへ歩いていった。


 背筋は、今日も定規入りだった。


 七月にも、この下駄箱の前で、同じことがあった。


 あのときは、二人とも下半分だった。


  ◇


 放課後、俺は図書室のカウンターに座っていた。


 柳先生は、文化祭の反省会で職員室に行っていた。


 六月に一週間、風邪の図書委員の代わりに座ったことがあるので、留守番を頼まれた。


 閉館の三十分前、カウンターに、文庫本が一冊置かれた。


 背の日に焼けた、ロスタンの戯曲だった。


 顔を上げると、赤い髪留めがあった。


「返すわ」


 紅林だった。


 貸出カードを見た。


 六月二十四日、貸出。


 返却期限、七月八日。


 その日付のスタンプを押したのは、俺だった。


 二か月半、遅れていた。


 外国文学の棚の二段目には、そのあいだずっと、文庫本一冊ぶんの隙間が空いていた。


「延滞の理由、聞かないの?」


 聞けなかった。


「郵便受けを、閉じておいたの」


 紅林は、本の背を、指で一度叩いた。


「この本が私の鞄にあるあいだは、誰もシラノに頼みを挟めない。頼みが来なければ、シラノが書けるのは、白羽さんの断り文句だけになる。見張るところが、一つで済むわ」


 本を戻してくれないと依頼が来ない。


 そう思っていたが、それが狙いだったのか。


 図書室で一緒にロスタンの話をしていた俺は、何も気づいていなかった。


 それから紅林は、カウンターに片手を置いた。


「あなたの断り文句、全部読んだわ」


「……全部」


 口から出たのは、それだけだった。


「読めるものは、全部よ」


 紅林は、指を折った。


「五月の号外で、百瀬さんへの一通目。七月の週刊玉砕の投稿欄で、田辺くんの。お昼の放送で、音無くんの。桂木くんのは、六月に本人に見せてもらったわ。四番勝負の四通は、学食で、百瀬さんの拡声器で」


 指が、五本とも折れた。


「残りは、振られ男子の会の人たちに、一人ずつ頼んで見せてもらったわ。食券三枚ずつで」


 恋文屋が、断り文句に食券を払っていた。


「それから、九月二十一日の、舞台」


 紅林は、革の手帳を開いて、カウンターに置いた。


 六月に、俺の机の上で宣戦布告を書いた手帳だった。


 逆さまでも、読めた。


  〔六月十八日 予約の客。来なかった〕

  〔六月二十四日 カウンターの二年。ロスタンが通じる。眼鏡なし〕

  〔七月十九日 柱の男。墨田先輩。署名のところで、耳をふさぐ〕

  〔八月十七日 カメラマン〕

  〔九月二十一日 格子の向こうの上履き。墨田くん、で動いた〕


 五行の右に、万年筆で、縦に長い括弧が一本引いてあった。


 括弧の先に、一行。


  〔全部、同じ人〕


 俺は、五人いたらしい。


 五人とも、俺だった。


「いちばん分かりやすかったのは、柱よ」


 紅林は、七月十九日の行を、指でとんと叩いた。


「署名のあとには、追伸がある。追伸だけは、白羽さんの字で、白羽さんの言葉。それを聞かないように耳をふさぐ人は、本文を書いた人しかいないわ」


 百瀬は、大きい音が苦手なのだと思いこんだ。


 振られ男子の会は、振られた傷が痛むのだと思いこんだ。


 紅林だけが、まちがえなかった。


「最後は、上履き。格子の向こうで、名前を読まれた瞬間に、動いたもの」


 万年筆のキャップの先が、唇に当たった。


「……舞台の一枚も、ね」


 一枚、と紅林は言った。


 一回戦の一枚なのか、二回戦の一枚なのかは、言わなかった。


 どちらも、俺が書いた。


「あなたね?」


「……あ、うん」


 文化祭の二日目に、この返事が肯定になることを、学校じゅうが覚えた。


 紅林も、覚えていた。


「肯定は、それで十分よ」


 紅林は、手帳を閉じた。


 それから、少しだけ黙った。


「……悔しいけど」


 いつもの速さなら、とっくに次の言葉が来ている。


 俺は、待った。


「好きな文章よ」


 言ってから、紅林は、自分の言葉の行き先を探すような顔をした。


「あなたの文章は、灯台ね」


 一回目だった。


「……いえ、灯台は大げさね。せいぜい、懐中電灯」


 二回目だった。


「……懐中電灯って何。床下でも照らすつもり?」


 三回目は、床下に着地した。


 俺の背中が、椅子の背もたれから、少しだけ離れた。


「……とにかく」


 紅林は、続きを言いかけて、やめた。


 四回目の比喩は、出てこなかった。


「比喩なしで言うと、好きな文章。それだけよ」


 耳が、少しだけ赤かった。


 六月に、百瀬に万年筆を好きと言われた日と、同じ色だった。


「条件があるわ」


 紅林は、指を一本立てた。


 声の速さが、いつもに戻っていた。


「一つ。あなたが誰なのか、私は誰にも言わない」


 条件の一つ目が、俺の得になっていた。


「二つ。勝負は、続ける。決勝戦は、決着がついていないもの。二回戦の返事は、今週の金曜でしょう」


「三つ。毎週、あなたの下書きを、全部見せて」


 俺は、紅林を見た。


「公平にしましょう。私の下書きも、見せるわ」


 紅林は、胸ポケットから赤いボールペンを一本抜いて、カウンターに置いた。


 いつもの赤い万年筆ではなかった。


「赤は、これで入れて」


 桂木の十行には、一か所も赤を入れられなかった。


 今度こそ、直すところを見つけたい。


 そう思った瞬間、もう断りにくくなっていた。


 それに、悔しいとまで言ってくれた。


 俺も、紅林の下書きを読みたい。


 完成した十行しか知らないまま、負けたくなかった。


「……分かった」


 紅林の口の端が、少しだけ上がった。


 九月二日の教室で、白羽さんに九十度で勝負を受けられたときと、同じ顔だった。


 紅林は、背を向けた。


 図書室の扉のところで、一度だけ振り返った。


「来週から、あなたの下書き、全部見せて。二重線を引いたところも、ね」


 扉が閉まった。


 柳先生は、まだ職員室だった。


 カウンターに、赤いボールペンが一本、残っていた。


 手に取ると、キャップの頭に、小さく〔K〕と刻んであった。


 紅林の、K。


 小さなKを、指でなぞった。


 このペンで直すのか。


 持ち主の文章を。


  ◇


 九月二十七日の金曜日、白羽さんが、桂木に返事を渡した。


 文化祭の舞台で、練習した一文が約束した日付だった。


 下書きは、俺が書いた。


 恋文屋との約束は来週からなので、これはまだ、誰にも見せていない。


 清書は、白羽さんが家でしてきた。


 文芸部室で、封をする前に、一度だけ見せてくれた。


 最後の行は、約束どおり見なかった。


 止めも、はねも、払いも、手本どおりだった。


 怒った刀も、跳ねる「は」も、細る線も、どこにもなかった。


 白羽さんの字の機嫌は、九月の終わりから、少しだけ読みにくくなった。

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