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第32話 会員番号〇番

 存在感がないと、肩は叩かれない。


 九月二十二日の朝、俺は生まれてはじめて、肩を叩かれ放題になった。


 文化祭の二日目は、日曜日だった。


 昇降口から文芸部室までは、ふつうに歩けば三分で着く。


 隠れるつもりだった。


 着くまでに、二十分かかった。


 下駄箱の前で、知らない三年生に肩を叩かれた。


 「ドンマイ」。


 階段の踊り場で、一年生の女子が二人、俺の顔を見て、それから前髪を見て、顔を見合わせた。


 「前髪だ」「B組の」。


 片方が、遠慮がちに肩を叩いた。


 「……元気、出してください」。


 二年の廊下では、知らない二年生に、三人続けて叩かれた。


 強く生きろ。


 次があるって。


 お前は悪くない。


 二年。


 B組。


 前髪。


 昨日の三語で、俺の肩に人が集まるようになった。


 前髪を切ったら、半分くらい帰ってくれないだろうか。


 ささやき声は、俺の行く先々で、同じ形をしていた。


「白羽さんに、手紙出したんだって」


「で、公開で振られた」


「いや、まだ出してないらしいよ。百瀬が、予告って言ってた」


「出す前に振られたってこと?」


「最強じゃん」


 何が最強なのかは、分からなかった。


 否定は、できなかった。


 手紙は出していない、と言えば、じゃあ、どうして白羽さんがお前宛ての断り文句を持ってたんだ、と聞かれる。


 その答えは、代筆のことは誰にも言わない、という四月の決まりの、ちょうど真ん中にある。


 だから、聞かれたら、こう答えた。


「白羽さんに、告白したの?」


「……あ、うん」


 頭の中で十二通り返事を考えても、口から出るのは、たいていこれだ。


 「あ、うん」は、四回目には、肯定ということになっていた。


 文芸部室に着いて、扉を閉めた。


 昼前には、扉の外に行列ができていた。


 三年生だった。


 先頭の一人が、入ってきて、俺の肩に手をのせ、目を閉じた。


 叩かなかった。


 撫でた。


「……第一志望」


 四月から、この学校には噂がある。


 白羽さんに振られると、人生が好転する。


 昨日、全校生徒の前で、いちばん派手に振られたのは、俺だった。


 坂の上の天満宮には、撫でると頭がよくなるという牛の像がある。


 受験生は、今日から、俺の肩でも代用することにしたらしい。


 列の後ろのほうに、輪ゴムで束ねた単語帳を三冊持った三年生がいた。


 早瀬先輩だった。


 五月に、第一志望のことを書いた手紙を受け取った人だ。


 書いたのが俺だとは、知らない。


「……墨田くん、だよね。肩、いいかな」


 俺は、肩を差し出した。


 肩以外に、差し出せるものがなかった。


 昼すぎに、久世が来た。


 行列を見るなり、名刺くらいの紙の束を出した。


「通行の妨げです。整理券を発行します」


 行列を見ると、この人は整理券を出す。


 俺の肩の整理券は、一時間で五十番をこえた。


 午後、扉が開いた。


 ノックはなかった。


 拡声器の先が、本人より先に入ってきた。


「墨田先輩! 昨日の写真が、一枚もありません!」


 百瀬は、俺の首からデジカメを外して、画面を見せた。


 最後の一枚は、九月十八日の、生徒会室の前の行列だった。


「どこで撮ってたんですか!」


「……あ、うん」


 答えになっていなかった。


 今日は、一日じゅう、そうだった。


「罰として、今日は撮られる側です! 振られ男子の会から、呼び出しです!」


 百瀬は、紙を一枚読み上げた。


 〔番号を空けて、待っています 柔道場〕。


 駒を置くような字だった。


 七月、柔道場で、権田先輩に言われたことがある。


 いつ振られたかは、言わなくていいっス。


 言えるようになったら、来い。


 番号は、空けといてやるっス。


 言えるようになったのではなかった。


 六百人に、言われてしまった。


 柔道場の入口に、看板が出ていた。


  〔振られ相談所〕

  〔振られた方、どなたでも。会員がお話を聞きます。お代は要りません〕


 畳の上に、座布団が輪になって並んでいた。


 輪の真ん中に、一枚だけ、空いた座布団があった。


「来たっス」


 権田先輩が、立ち上がった。


 目が、もう赤かった。


「伝説の、公開お断りの男っス」


 会員たちが、深くうなずいた。


「七月に、いつ振られたか言えなかったのは、まだ告白してなかったからっス。告白する前に振られる男は、はじめて見たっス」


 会員たちが、もう一度うなずいた。


「一番は、告白して振られた男の番号っス。告白する前に振られた男は、一番より前っス」


 桂木が、白いカードを一枚、両手で差し出した。


  〔振られ男子の会 会員番号〇番 墨田文也〕


 〇は、一より前の数だった。


 番号の理屈は、どこまでも正しかった。


 前提だけが、全部まちがっていた。


「写真です!」


 百瀬が、デジカメを構えた。


 七月の柔道場で、田辺に言われたことを、今日は覚えていた。


「墨田先輩、撮っていいですか!」


 聞くのと、シャッターが同時だった。


 画面には、口を半分開けて、目を半分閉じた男が写っていた。


 前髪が、顔の三分の一を隠していた。


 残りの三分の二も、隠したほうがよかった。


「最高に、最悪です!」


 田辺が、黙ってデジカメを受け取った。


「……写真部の部屋で、刷ってきます」


 十分後、俺の最悪の顔は、名刺の半分くらいの大きさになって、カードの隅に貼られた。


 〇番は、顔写真つきで正式になった。


 それから、会員たちは、何も言わずに輪の座布団に座った。


 俺は、真ん中の一枚に座らされた。


 権田先輩が、俺の肩に手を置いた。


 叩かなかった。


 撫でもしなかった。


 置いただけだった。


「振られたことを、恥じないっス。第一条っス」


 七月にも、この人たちは、俺が振られて傷ついていると思いこんだ。


 あのときは、外れていた。


 今日は、半分くらい当たっていた。


「……今度のは、釣りじゃないんだな」


 入口の柱にもたれていた吉岡が、小さく言った。


 五月の河川敷で、糸のない竿の話をした男だった。


 俺は、何も言わなかった。


 吉岡も、それ以上は聞かなかった。


 柔道場の空気が、入口から順に止まった。


 白羽さんが、立っていた。


 両手で、白い封筒を持っていた。


 会員たちが、いっせいに正座に変わった。


 白羽さんは、権田先輩の前まで歩いて、封筒を差し出した。


 九十度。


「……清書、です」


 昨日、舞台のボードに書いた一行の、続きだった。


 権田先輩は、両手で受け取って、その場で読んだ。


 地鳴りが、少しだけ始まって、途中で止まった。


「……押忍。額に、入れるっス」


 会則の、第三条だった。


 白羽さんが、顔を上げた。


 目が、輪の真ん中の俺に止まった。


 それから、俺の膝の上のカードに止まった。


 〔会員番号〇番〕と、最悪の顔に。


 白羽さんの肩が、小さく揺れた。


 八月に、書院の芳名帳で、俺の字がミミズの事故と言われたときと、同じ揺れ方だった。


 笑うのを、こらえている揺れ方だ。


 それから、右手が、カードのほうへ、少しだけ伸びかけた。


「白羽先輩、その手!」


 百瀬が叫んだ。


 百瀬は、人の顔は見ない。


 手元を見る。


「その写真、欲しいんですか!」


 白羽さんの手が、空中で止まった。


「……ごめんなさい」


 声の高さが、一語の中で二回変わった。


 辞典の⑧、動揺の「ごめんなさい」だった。


「……刷ってきます」


 田辺が、もう一度、デジカメを持って出ていった。


 田辺、ありがとう。そう言いたかったが、この写真を増やすことに礼を言っていいのか、迷った。


 十分後、白羽さんは、名刺の半分くらいの俺の最悪の顔を、両手で受け取った。


 九十度だった。


 写真の中では、俺の口が半開きだった。


 受け取る白羽さんだけが、きちんとしていた。


「振った相手の写真まで、ちゃんと受け取るっス」


 権田先輩が、感心したように言った。


「白羽さんは、礼儀正しいっス」


 会員たちが、深くうなずいた。


 この会は、今日も、全部ちゃんとまちがえていた。


 八月の夏祭りで、俺が撮った白羽さんの写真は、二枚ともつむじだった。


 向こうには、俺の最悪の顔がある。


 こっちには、つむじしかない。


 勝負なら、俺の負けだった。


  ◇


 文化祭は、夕方の放送で終わった。


 片付けのあと、文芸部室の扉が、二回ノックされた。


 白羽さんは、長机の向かいに座ると、鞄から四つ折りのルーズリーフを一枚出して、俺の前に置いた。


 昨日の、一回戦の返事だった。


 懐中電灯をくわえて書いた、俺の字のほうだ。


「……お返し、します」


 清書が済んだら、下書きは書いた人に返す。


 四月から、そうしてきた。


 俺のところには、下書きだけが残る。


 受け取って、ノートに挟んだ。


 開いた鞄の中に、もう一枚、四つ折りが見えた。


「……あの紙、返して」


 口から出たのは、それだけだった。


 白羽さんは、鞄から、その一枚を出した。


 出して、返さなかった。


 両手で、胸に押さえた。


 昨日、六百人の前で、題と宛名だけを飛ばして読んだ紙だった。


「……ごめんなさい」


 間は、①謝罪より短く、⑦驚きより長かった。


 声の高さは、③感謝と同じだった。


 でも、③のようには、すぐに終わらなかった。


 語尾が、ほんの少しだけ残った。


 言い終わっても、目を伏せなかった。


 伏せないまま、俺を見ていた。


 どの番号にも、少しずつ似ていた。


 どの番号でもなかった。


 八月の花火の夜にも、昨日の舞台の上でも、似たものを聞いた。


 どちらも、聞き取れなかったことにした。


 今日の文芸部室は、静かすぎた。


 聞き取れなかったことには、できなかった。


 白羽さんは、紙を胸に押さえたまま一礼して、出ていった。


 背筋は、最後まで定規入りだった。


 紙は、返ってこなかった。


 あの紙を読めば、俺がまだ書いていない手紙が一通あることが、分かる。


 宛先も、分かる。


 それを、白羽さんは、六百人の前で、最後まで読んだ。


 俺は、黒いノートのいちばん後ろを開いた。


 ⑨うれしいの下に、一行足した。


  〔分類不能 一つ目〕


 余白に、訂正は入らなかった。


 入れる人は、もう帰っていた。


 九月二十三日は、振替休日だった。


 一日じゅう、その一行の余白を見ていた。


 余白は、一日見ていても、白いままだった。


 火曜の放課後、図書室に、恋文屋が来た。

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