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第31話 公開お断り

 全校生徒の前で振られるのは、ふつう、告白した人だ。


 俺は、告白していなかった。


 床下にいただけだ。


 懐中電灯は、消したままだった。


 通気口の格子の向こうで、最前列のまん中の上履きの踵が、まだ浮いていた。


 暗がりのどこかに、四つ折りのルーズリーフが散らばっている。


 手を伸ばせば届く。


 届いても、読めない。


 頭の上を、軽い足音が渡ってきた。


 足音は、白羽さんのボードの横で止まった。


 正座したらしい。


 床板は、ほとんどたわまなかった。


 百二キロのあとの正座は、床が気づかないくらい軽かった。


「恋文屋さん、二回戦も、お願いします!」


 百瀬の拡声器が言った。


 返事は、舞台の上からした。


「……恋文屋さん」


 桂木の声だった。


 駒を置くような、一語ずつの声だった。


「……今日は、要りません。自分で、書いてきました」


 体育館が、ざわついた。


 格子の向こうで、浮いていた踵が、すとんと下りた。


「……そう」


 最前列から、紅林の声がした。


 マイクがなくても、よく通る声だった。


「それが、いちばんよ」


 六月、図書室のカウンターで、俺が「……自分で、書くことにした」と言ったときと、同じ言葉だった。


 桂木が、紙を広げる音がした。


「白羽ことはさんへ」


 名前が、一行目に来た。


「お願いします」


 対局の始まりの挨拶だった。


「好きです」


「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」


 出た。


 名前と、好きです。


 桂木の手紙には、両方そろっていた。


 一回戦で恋文屋が恋文の中に封じた一文を、桂木の手紙は、封じていなかった。


「ありがとうございました」


 対局の終わりの挨拶が、白羽さんの一文のあとに来た。


 六百人が、ひっくり返った。


 お願いします。


 好きです。


 来週の、金曜に。


 ありがとうございました。


 告白と返事が、一局の将棋みたいに、きれいに指し終わっていた。


「来週は、ないわ」


 笑い声の下から、紅林の声がした。


「一週間あれば、誰だって、誰かに書いてもらえるもの」


 九月二日の昼休みに、二年B組の教室で聞いた言葉だった。


「恋文屋は、今回、一行も書いていない。持ち時間は、ゼロ分。公平にしましょう」


 紅林は、少しだけ間をおいた。


「……一分。それで、どうかしら」


「採用です!」


 百瀬は、考える前に言った。


 かちっ、と、ストップウォッチが鳴った。


 一分。


 真っ暗な床下で、書ける字数は、たぶんゼロだった。


 書かなくていい紙なら、あった。


 二回戦の骨組みは、恋文屋の恋文に答える一行を足せば、そのまま返事になるようにしてある。


 書き出しは〔もう一局、ありがとうございました〕。


 桂木は、恋文を持ってこなかった。


 足す一行は、もう要らない。


 あの骨組みは、そのまま返事だ。


 問題は、どれがあの骨組みか、だった。


 手で、床を探った。


 ほこりの中に、一回戦の骨組みが、広げたままの形で寝ていた。


 それをよけると、指先に、四つ折りが二つ当たった。


 一つは、二回戦の骨組みだ。


 もう一つは、表紙の裏のポケットにいたものだ。


 ポケットには、いつも、いちばん新しい稿だけを入れてある。


 九月二十日の夜からは、第十稿だった。


 同じルーズリーフで、同じ四つ折りだった。


 指でさわっても、紙は名乗らない。


「残り、三十秒です」


 隙間の光にかざせば、一行目くらいは読める。


 かざすには、床板の下まで体を寄せて、紙を開いて、読んで、また畳まなければならない。


 二枚ぶん。


 格子の向こうで、踵がまた浮いた。


 上で、筆ペンが落ちた。


 とん。


 右の一枚をつかんだ。


 骨組みは、ノートの右側に挟んであった。


 落ちたなら、右に散ったはずだった。


 はずだった、というのは、確かめていないということだ。


 四つ折りのまま、押し上げた。


 指が二本、つまんで引いた。


「一分です」


 とん、とん、とん。


 紙を開く音がした。


 それから、一秒、何も聞こえなかった。


 一回戦のときには、なかった一秒だった。


「お手紙、ありがとうございました」


 マイクを通った声が、体育館の鉄骨の天井まで、まっすぐに届いた。


 二回戦の骨組みは、〔もう一局〕で始まる。


 〔お手紙〕で始まる紙は、あのノートに一枚しかない。


 宛名は、俺だ。


 ルーズリーフのいちばん上の余白には、〔墨田文也への断り文句・第十稿〕と書いてある。


 次の行が、〔墨田文也くんへ〕だ。


 どちらも、読まれなかった。


 白羽さんは、三行目から読み始めていた。


 一秒で飛ばしたのか、一秒かけて飛ばしたのかは、床下からは分からない。


 止める方法は、一つだけあった。


 床板を、下から叩くことだ。


 六百人の前で、舞台の床が、下から鳴る。


 それは、〔真下〕と六百人に書いて見せるのと同じだった。


 俺は、叩かなかった。


 一度読み始めた他人の言葉を、白羽さんは、最後まで止められない。


 俺はそれを知っていた。


 知っていて、床下で、ただ聞いていた。


 読まれたのは、九月二十日の夜に、俺が白羽さんの声で書いた手紙だった。


   お手紙、ありがとうございました。


   墨田くんの良いところは、人の「ごめんなさい」を、最後まで聞いてくれるところです。

   わたしの「ごめんなさい」には、いろいろな意味があるそうです。墨田くんは、それを、途中で決めつけずに、最後まで聞いて、一つずつ、聞き分けてくれました。

   わたしが、長い話をした日も、墨田くんは、一度も、口を挟みませんでした。

   最後まで聞いてもらえると、わたしの言葉は、間に合います。


   だから、はっきり書きます。

   わたしは、墨田くんと、お付き合いすることはできません。

   それは、墨田くんのせいではありません。でも、わたしの気持ちは、墨田くんと同じではありません。


   いつか、墨田くんの言葉を、最後まで聞いてくれる人に、会えると思います。

   そのときは、墨田くんの言葉で、話してください。


   白羽ことは


 読み終えるまで、二分かからなかった。


 俺には、やけに長い二分だった。


 〔墨田くんの良いところは〕のあと、白羽さんが読点で息をついだ。


 その短い間に、体育館がざわついた。


 床板の向こうで、知らない声たちが、俺のことを三語で説明していた。


 二年。


 B組。


 前髪。


 開演の前に、百瀬が拡声器で、カメラマンの墨田先輩、と六百人に教えていた。


 存在感がない、とも言っていた。


 そこは、もう少し思い出してくれ。


 俺を探すのを、諦めるくらいに。


 格子のほうへ伸ばしていた足が、勝手に動いた。


 上履きが、床のほこりをこすった。


 格子の向こうで、浮いていた踵が、もう少しだけ浮いた。


 それから、格子のすぐ向こうで、万年筆が一行だけ走った。


 何と書いたのかは、床下からは読めない。


 白羽さんは、止まらなかった。


 間も、抑揚も、読点のところで息をつぐ長さまで、正確だった。


 十一日前には〔読めません〕と返してきた字だ。


 俺は頭の中で赤ペンを握り、直すところを探した。


 なかった。


 十回書いた文章だった。


 直すところは、九月二十日の夜に、自分で全部なくしてあった。


 〔でも、わたしの気持ちは、墨田くんと同じではありません〕で、会場が、しんとした。


 残りの二行と署名は、その静けさの中で読まれた。


 こうして俺は、自分で書いた断り文句によって、全校生徒の前で、好きな女の子に振られた。


 いい文章だった。


 振られる側で聞くと、なおさらよく分かった。


 最後に一言だけ、白羽さんは、原稿にない言葉を、自分の声で言った。


「……ごめんなさい」


 マイクは、その一言も、鉄骨の天井まで運んでいった。


 どういう意味の「ごめんなさい」なのか、俺には分からなかった。


 彼女の「ごめんなさい」なら、九種類まで聞き分けられるのに。


 隙間の上の上履きの影は、読み終えたあとも動かなかった。


 紙は、下りてこなかった。


 上からは、何も鳴らなかった。


 三回も、五回も。


「……ありがとうございました」


 舞台の上で、桂木の声がした。


 対局の終わりの挨拶だった。


 それから、少し間をおいて、もう一言。


「……投了の作法を、学ばせてもらいました」


 桂木は、負けた将棋しかノートに残さない。


 今日の一局も、たぶん、残る。


 体育館は、まだ黙っていた。


 六百人が、どこで拍手をすればいいのか分からずにいた。


「以上!」


 百瀬の拡声器が、天井を鳴らした。


「白羽先輩の、次回予告でした!」


 六百人が、一拍、止まった。


「墨田先輩は、まだ告白してません! なので、今のは、お返事の予告です! 墨田先輩、存在感がないので、たぶん、どこかで聞いてます!」


 当たっていた。


 今日の百瀬は、二回とも当たっていた。


 体育館が、割れた。


「それから! 桂木先輩へのお返事は、さっきの一文のとおり、来週の金曜です!」


 練習した一文は、決勝戦の最後に、ちゃんと勝っていた。


 拍手が、床板を揺らした。


 六百人ぶんの拍手の真下にいる俺には、ほこりだけが降ってきた。


 存在感がないはずの男の名前を、文化祭の二日目の朝には、学校じゅうが知っていた。

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