第30話 バルコニーの下で
バルコニーの下の男は、たぶん、六百人に探されたことはない。
俺は、緞帳が上がる五分前に探された。拡声器で。
体育館の扉が開く三十分前に、俺は、舞台の正面の、客席から見て右の端の点検口から、奈落に這って入った。四つん這いで三メートル。四角いせりの跡の下で、腹ばいになった。今日の俺の席だ。六百の椅子のどれよりも、低い。
黒いノートは、せりの枠の横木に立てかけた。床に置くと、ほこりで白くなる。首には、新聞部のデジカメが下がったままだった。七月に百瀬に掛けられてから、一度も返していない。腹ばいになると、レンズが床のほこりに鼻先をつけた。
明かりは、二か所からしか入ってこなかった。頭の上の床板の隙間から、細い一筋。舞台の前面の通気口の格子から、横に何本も。格子の向こうに見えるのは、最前列の椅子の脚と、上履きばかりだった。音のほうは、六百人ぶん、全部入ってきた。学食の、ちょうど三倍だった。
「お待たせしました! 文化祭特別企画、公開告白、公開お断り! 司会は、新聞部の百瀬うららです!」
閉じた緞帳の前で、拡声器が鳴った。体育館にはちゃんとマイクがあるのに、百瀬は拡声器を持ってきたらしい。
「まず、カメラマンの墨田先輩! ……墨田先輩!」
返事は、しなかった。できなかった。
「見当たりません! 墨田先輩は存在感がないので、たぶん、どこかで撮ってます! 皆さん、撮られてます!」
格子の向こうで、六百の椅子が、いっせいにきしんだ。全員が、背筋を伸ばしたらしかった。
どこかには、いた。六百人の目の前の、床の下に。
撮っているとすれば、首から下がったレンズの先の、ほこりだけだった。
緞帳の内側で、上履きの影が一つ、隙間の上で止まった。
隙間から、紙が一枚、下りてきた。四つ折りの和紙だった。懐中電灯を点けた。
〔どこかに、いますか〕
白羽さんの筆ペンの字だった。「か」の最後の点が、少しだけ跳ねていた。本番の五分前に、跳ねる字を書く人だった。
この体育館で、俺の居場所を知っているのは、床板一枚の上の、この人だけだ。知っている人が、わざわざ聞いてきた。百瀬の拡声器を、ちゃんと聞いていたらしい。
俺は、その下に二文字だけ書いた。
〔真下〕
四つに折って、押し上げた。指が二本、つまんで引いた。中指の先に、墨のしみがあった。
少しして、上で床が鳴った。
とん、とん、とん。
分かった、の三回だった。二文字なら、早見表を見るまでもないらしい。
緞帳が上がる音は、床下では、遠い雷だった。
隙間の光が、いっぺんに白くなった。舞台の照明だ。
「一回戦! 柔道部、三年、権田剛先輩! 振られ男子の会、会員番号一番です!」
拍手の中を、百二キロが歩いてきた。一歩ごとに、床板が背中のほうへ近づいては離れた。足音は、白羽さんのボードの横で止まった。権田先輩は、そこに正座したらしい。床板のたわみが、俺の頭のすぐ横で落ち着いた。百二キロの正座は、床下から見ると、天井が下りてくることだった。
「恋文屋さん、お願いします!」
舞台の端の机で、椅子が引かれた。
「いつもなら、相手の名前は聞かないの」
紅林の声が、マイクを通って体育館じゅうに広がった。
「今日は、聞くまでもないわね」
六百人が笑った。紅林は、笑いが引くのを待たなかった。
「白羽さんの前で、最後に、何を言った?」
「押忍、っス」
四月十九日、柔道場の裏口の戸を開ける前に、一度だけ振り返って、権田先輩が言った一語だった。俺は、体育倉庫の陰で聞いていた。
「白羽さんに、最後に、何を言われた?」
「言われては、ないっス。手紙に、書かれたっス。『先輩の次の一本を、応援しています』」
四月の手紙の、最後の一行だった。五か月たっても、一字も違っていなかった。首の後ろが、床下でも痒くなった。
「そのとき、あなたは何をしていた?」
「前回り受け身っス」
体育館が、どっと沸いた。四月に学年じゅうを回った話を、六百人の半分くらいは知っていたらしい。
「……七分、ちょうだい」
マイクが、万年筆の音を拾っていた。
六百人が、ペン先が紙をこする音を、黙って聞いていた。音は、一度も止まらなかった。消す音も、しなかった。六月の空き教室で、廊下の椅子から聞いたのと、同じ音だった。
「読むわね」
声が、変わった。
低く、ゆっくり、語尾が少しだけ太い。権田先輩の声だった。
白羽ことはさんへ
四月に、砂利の上で、前に回りました。
投げられたら、受け身を取る。それしか、知らないっス。
次の一本は、取りました。地区大会で。応援されたので。
だから、もう一回だけ、組んでください。
好きだ。
そこで、紅林は止まった。
「最後の一語は、あなたの声で。……これだけは、私には化けられないわ」
権田先輩が、息を吸った。床板が、もう一段たわんだ。
「押忍!」
体育館の鉄骨が鳴った。六百人が、いっせいに沸いた。床下の俺の背中に、ほこりが降ってきた。
四月十七日の文芸部室で、俺は頭の中の赤ペンで、押忍に線を引いた。二日後に、柔道場の裏で、あれは要った、と直した。
恋文屋は、三つの質問と七分で、押忍を最後の一語に置いた。そのうえ、本人の声で言わせた。
悔しかった。床下で悔しがっても、ほこりが舞うだけだった。
それに、恋文には、好きです、と書いていなかった。四月の権田先輩の言い方のまま、好きだ、だった。名前と「好きです」がそろわないので、練習した一文は出ない。一週間の猶予を言う一文は、恋文の中で、最初から封じてあった。わざとかどうかは、分からない。わざとだと思っておくほうが、安全だった。
今日の返事は、七分後だ。
恋文は、紅林の手から権田先輩へ、権田先輩の手から白羽さんへ渡った。格子の向こうの最前列に、上履きが一足、舞台の階段を下りてきて、まん中の席で止まった。踵が、きっちりそろった。書いた人は、書き終えたら客席に下りる。百瀬の決めた段取りだった。最前列のまん中は、舞台を見張るには、いちばんいい席だった。
「では、白羽先輩のお返事です! 制限時間は、恋文屋さんと同じ、七分! 公平です!」
かちっ、と鳴った。生徒会の役員の、ストップウォッチだった。五月から藤棚の下で、告白を一人三十秒ずつ計ってきた親指だ。
頭の上で、筆ペンが、ボードの紙の上を走りはじめた。白羽さんは、書くふりを、本気でしていた。何を書いているのかは、知らない。
俺は、横木のノートから一回戦の骨組みを抜いて、床に広げた。新しいルーズリーフを、その横に置いた。懐中電灯は、口にくわえた。両手が要る。くわえた明かりで照らすと、自分の字は、いつもよりさらに読めなかった。
骨組みの文は、九月十九日と二十日に、白羽さんに一文ずつうなずいてもらってある。足すのは、今日の恋文に答える行だけだ。その行だけは、確かめてもらえない。
一文書くたびに、頭の中で、白羽さんの声で読んだ。頭の中の白羽さんは、一度も首を横に振らなかった。本物のほうが、ずっと厳しい。
「残り、三分です」
三か所足して、一か所消した。
「残り、一分です」
最後に、署名を書いた。急いでいたのに、署名のところだけ、手が勝手にゆっくりになった。早見表の、いちばん下の一行のとおりだった。
「残り、三十秒です」
上で、筆ペンが落ちた。
とん。
一回。紙をください、の合図だった。落とし物で鳴らして、拾うふりで受け取る。リハーサルで決めた段取りだった。白羽さんは、落とすのだけは、最後まで上手くならなかった。いつも、まっすぐ落としすぎる。
ルーズリーフを四つに折って、押し上げた。筆ペンを拾う指が、一緒に紙をつまんだ。
「七分です」
とん、とん、とん。
白羽さんが、マイクの前に立つ気配がした。
声は、二つの方向から来た。床板一枚の向こうからと、体育館のスピーカーからと。五月に、放送室の前の廊下で聞いたときも、こうだった。
権田剛先輩へ
もう一度、気持ちを伝えてくださって、ありがとうございました。
最後の、押忍、まで、聞きました。四月と、同じ声でした。
先輩は、四月から、一度も、振られたことを、隠しませんでした。
地元の新聞で、振られて、強くなりました、と言いました。
号外では、泣きました、と答えました。
夏には、振られた人の隣に座りに行く会を作った、と聞きました。
そして今日、六百人の前で、もう一度、組みに来てくれました。
先輩が隠さなかったので、この学校では、振られた人が、下を向かなくて、よくなったのだと思います。
だから、今日も、はっきり書きます。
わたしは、先輩と、お付き合いすることはできません。
それは、先輩のせいではありません。でも、わたしの気持ちは、先輩と同じではありません。
四月の手紙に、受け身のあとには、必ず立ち上がる人だと思います、と書きました。
先輩は、何度でも、立ち上がりました。
次は、先輩の隣に、誰かが座りに来る番だと思います。
白羽ことは
読み終えるまで、白羽さんは一度もつかえなかった。懐中電灯をくわえて書いた、いつもよりさらに崩れた字だった。
白羽さんが、頭を下げた気配がした。見えなくても、九十度だと分かった。手紙のあとは、いつも九十度だ。
体育館が、しんとした。
格子の向こうの上履きが、一足も動かなかった。六百人ぶんの静けさが、通気口から床下に流れこんできた。
そのとき、鼻がむずむずした。
押忍で降ってきたほこりだった。
六百人が黙っている体育館で、舞台の床下から、くしゃみを一つする。それは、名乗るのと同じだった。
俺は、鼻をつまんだ。目に涙がにじんだ。ほこりのせいだ。たぶん、八割くらいは。
どこかで、誰かが洟をすすった。すする音が、列から列へ、うしろのほうへ移っていった。
それから、真上で、地鳴りが始まった。
百二キロの体の底から、おう、とも、ああ、ともつかない音が湧き上がってきた。四月に、柔道場の裏の砂利の上で聞いた泣き声だった。床下で聞くと、本物の地鳴りだった。床板が震えて、ほこりがもう一度降った。
その地鳴りに紛れて、くしゃみを一つした。百二キロの泣き声は、くしゃみの一つくらい、軽く飲みこんだ。
拍手が来た。
「権田先輩、両手を出して、お返事の紙を待ってます!」
百瀬の拡声器が、床下にまで実況してくれた。
まずい、と思った。あの紙は、俺の字だ。
頭の上で、筆ペンがボードを走った。今日はじめての、ふりではない音だった。
「えーと! ボードに書いてあります! 『清書して、お渡しします』! だそうです!」
段取りには、なかった一行だった。白羽さんが、その場で考えた。
体育館が、どっと笑った。格子の向こうで、誰かが「さすが」「書道の人だ」と言った。書道の人が清書を待たせることを、疑う人はいなかった。
「押忍! 待つっス!」
拍手が、もう一度大きくなった。その中で、真上の床が鳴った。
とん、とん、とん、とん、とん。
五回だった。九月十七日のリハーサルのあとと、同じ数だった。
「押忍! ありがとうございましたッ!」
権田先輩が、立ち上がって叫んだ。四月の柔道場の裏と、一字一句同じだった。
「四月の分と、今日の分っス!」
四月の分は、四月に取ったはずだった。
足音が、舞台の上で二歩下がった。
ばん。
前回り受け身だった。床下では、天井が落ちてきたのと区別がつかなかった。奈落じゅうのほこりが舞い上がって、通気口の格子から客席へ吹き出した。
格子の向こうで、最前列が、いっせいに咳きこんだ。
まん中の上履きの踵が、そろったまま浮いた。椅子から身を乗り出して、何かをのぞきこむときの足だった。
俺は、懐中電灯を消した。
ばん。
二回目だった。九月十八日に、もう一回、受け身を取らせてほしいっス、と言った人は、本当にもう一回取った。
横木から、ノートが落ちた。
暗がりの中で、紙が床に散らばる音がした。一枚ではなかった。挟んであった二回戦の骨組みも、表紙の裏のポケットの中身も、全部、同じルーズリーフで、同じ四つ折りだった。
「一回戦、大成功です! 続いて、二回戦! 将棋部、二年、桂木歩先輩です!」
懐中電灯は、点けられなかった。格子の向こうの踵が、まだ、浮いたままだった。




