第29話 奈落のリハーサル
俺の字の辞典が、できた。
書いたのは、白羽さんだった。
九月十一日、水曜日の放課後。文芸部室の扉が、二回ノックされた。
白羽さんは、長机の向かいに座ると、人差し指で空中に書いた。
〈し・た・が・き〉
それから、もう一度。
〈ぜ・ん・ぶ〉
四月から書いてきた、断り文句の下書きのことだった。俺は、一枚も捨てていない。ルーズリーフで、靴箱くらいの厚さがある。書いた手紙は、渡した時点で受け取った人のものになる。下書きだけが、俺のところに残る。
「……読めないよ」
「……知って、います」
白羽さんは、靴箱の厚さの束を紫の風呂敷に包んで、持って帰った。何に使うのかは、言わなかった。言わないまま、背筋だけが、少し決意の形をしていた。
九月十三日、金曜日の放課後。白羽さんは、四つ折りの和紙を長机に広げた。
いちばん上に、筆ペンの楷書で一行。
〔墨田くんの字 早見表〕
その下に、俺の字が一字ずつ写してあって、隣に、白羽さんの字で説明が書いてあった。
〔あ つぶれた「お」に見えます。上の横棒が短いほうが「あ」です〕
〔た 「に」と、ほぼ同じです。前後の字で見分けてください〕
〔の ほどけています〕
〔す 結び目が二つあります。一つです〕
〔白 「日」から、髪の毛が一本生えています〕
五月に、辞典の余白に〔⑤は空腹ではありません。眠いです〕と書きこんだ人の文だった。短くて、正確で、容赦がなかった。俺が四月から白羽さんの「ごめんなさい」を分類してきたように、白羽さんは三日で、俺の字を分類していた。
いちばん下に、小さく一行あった。
〔下書きと、清書した手紙を、一通ずつ突き合わせました〕
下書きは読めなくても、中身は知っている。俺が一文ずつ読み上げて、白羽さんが嘘がないか確かめて、白羽さんの手で清書した文章だ。一度清書した文は、全部、頭に入っているらしい。読めない字と、知っている文章を一字ずつ並べれば、読めない字の読み方が分かる。
ロゼッタストーンを読み解いた学者は、何年もかかったと聞く。白羽さんは、二日でやった。
早見表の、いちばん最後の行だけ、少し字が小さかった。
〔白羽ことは 署名のところだけ、ていねいです〕
知らなかった。
下書きの最後には、毎回、白羽さんの名前を書く。手紙の差出人だからだ。その名前だけ、四月から毎回、ていねいに書いていたらしい。自分の字のことなのに、本人が知らなかった。
理由は、清書する人に失礼がないように、ということにしておいた。
俺は、ルーズリーフに書いた。
〔これ、読める?〕
三日前、奈落の床下から押し上げたのと、同じ字だった。
白羽さんは、それを見た。一回だけ、目を細めた。
「……これ、読める」
声に出して、読んだ。
四月から、俺の下書きを読めた人間は、俺しかいなかった。それが、今日、二人になった。
白羽さんは筆ペンを取って、その下に書いた。
〔読めます〕
三日前の答えは、〔読めません〕だった。
◇
九月十七日、火曜日の放課後。どの部も帰ったあとの体育館で、リハーサルをした。
二人きりだった。奈落の作戦を知っている人間は、世界に二人しかいない。
白羽さんは、舞台の真ん中に画板を立てた。本番では、そこに置いたボードに、返事を書くふりをする。俺は点検口から這って入り、四角い切れ目の下に腹ばいになった。
問題は、合図だった。
床下から、舞台の上は見えない。見えるのは、床板の隙間から漏れる光と、ときどきそれを横切る、上履きの影だけだ。白羽さんがどんなに速く空書きをしても、床下には一画も届かない。
「足で、床を鳴らしてほしい」
俺は、床板に向かって言った。
「一回なら、紙をください。二回なら、待って」
とん。
上から、一回鳴った。分かりました、の一回なのか、紙をください、の一回なのか、分からなかった。決めたばかりの合図は、決めたことへの返事に使うと、すぐに壊れるらしい。
「……分かった、は、三回で」
とん、とん、とん。
合図が、三つになった。
一回目。床下で返事を書いて、隙間から押し上げた。
紙は、上がらなかった。ルーズリーフの角が床板に引っかかって、隙間の途中で折れて止まった。
二回目。四つに折ってから押した。紙が、上がった。上から指が二本、つまんで引いた。
とん、とん、とん。
合図が、はじめて正しく使われた。
上で、白羽さんが読みはじめた。
練習用に書いた、短い返事だった。床板一枚の向こうで、俺の書いた文が、白羽さんの声になった。読点のところで息をつぎ、句点で一拍。三日前まで読めなかった字から起こした文を、白羽さんは、一度もつかえずに読んだ。
床下は、ほこりの匂いがした。ほこりの匂いの中で聞く白羽さんの声は、五月に放送室の扉越しに聞いた声よりも、近かった。
読み終わると、上から、床が鳴った。
とん、とん、とん、とん、とん。
五回だった。
五回の合図は、決めていなかった。
決めていない合図は、読めない。俺は床下で、五回の意味を、いくつか考えた。考えたうちのどれにするか、決められなかった。決めてしまうと、困るものもあった。
腹ばいのまま、頭を上げた。床板に、またぶつけた。
ごん。上で、白羽さんの足音が、一歩ぶん止まった。九月十日と、同じ止まり方だった。
◇
九月十八日、水曜日の昼休み。生徒会室の前の廊下に、行列ができていた。
「墨田先輩、カメラです!」
百瀬に言われて、俺はまた、新聞部のデジカメを首から下げていた。一度掛けられたカメラは、なかなか外してもらえない。
生徒会室の中で、久世が、百瀬の企画書を読んでいた。隣の椅子に、白羽さんが座っていた。当事者だからだ。
「生徒会規約第十二条により、生徒会は、生徒の学校生活に必要な措置をとることができます」
久世は、企画書を机に置いた。五月に、二年B組の前の廊下で整理券を発行したときと、同じ口調だった。
「許可します。ただし、条件が二つあります。一つ、当事者全員の同意。二つ、誹謗中傷の禁止」
白羽さんが、和紙を一枚出して、筆ペンで書いた。
〔同意します 二年B組 白羽ことは〕
久世は、それを受け取って、少しだけ長く見ていた。耳が、少しだけ赤かった。五月に、見本の告白に白羽さんの一文が返ってきたときと、同じ色だった。
それから久世は、自分で許可証を書いた。〔許可〕と書いてあるのが、俺には読めた。百瀬には読めなかった。白羽さんにも、読めなかった。五日前にできた早見表は、俺の字専用で、久世の字には効かないらしい。
「それで、廊下のこの列は」
久世が、扉の外を見た。
生徒会室の前から階段の踊り場まで、男子が並んでいた。先頭は、丸刈りの百二キロだった。
「公開告白の志願者です!」
百瀬が言った。
「舞台で白羽先輩に告白したい人を募集したら、こうなりました! 振られ男子の会は、全員います!」
久世は、ため息を一つついて、机の引き出しから、名刺くらいの大きさの紙の束を出した。
「通行の妨げです。整理券を発行します」
五月と、同じだった。この人は、行列を見ると整理券を出す。
一番は、権田先輩だった。朝、校門が開く前から並んでいたらしい。二番は、桂木だった。番号は着いた順で、七月に柔道場でできた振られ男子の会の会員番号と、同じ順番になった。
「舞台に上がるのは、一回戦と二回戦の、二名です」
久世が言った。
権田先輩は、整理券を両手で受け取って、九十度で頭を下げた。
「もう一回、受け身を取らせてほしいっス」
桂木は、整理券を受け取って、小さく一礼した。
「……もう一局、お願いします」
二人とも、もう一度振られに来ていた。一度振られて前を向いた人間は、もう一度振られることを、怖がらないらしい。
三番から後ろは、整理券だけもらって、満足そうに帰っていった。舞台に上がれなくても、番号があれば満足らしい。
◇
九月十九日と二十日は、放課後のたびに、二人で体育館に残った。
通し稽古のあいまに、舞台の端に並んで座って、本番の返事の骨組みを作った。一回戦の権田先輩の分と、二回戦の桂木の分。恋文屋がその場で書く恋文の中身は、本番まで分からない。だから、何が来ても使える骨組みだけを、先に作っておく。
白羽さんは、早見表を見ずに、俺の字を読むようになっていた。二十日には、俺が書き終える前に、次の字を読んでいた。
「……墨田、くん」
呼ぶたびの半拍は、まだあった。
二十日の夕方、最後の通し稽古が終わった。
点検口から這い出すと、白羽さんが、舞台の下にしゃがんで待っていた。練習で使ったルーズリーフを一枚、両手で持っていた。
「……この、字は」
一語ずつ、置いた。
「……読むと、墨田くんの、声が、します」
六月に、恋文屋に負けたくなくて比喩を重ねた俺の下書きを聞いて、「……声が、しません」と言った人だった。
俺は、何も言えなかった。言えないまま、頭のほこりを払って、帰り道を歩いた。
その夜、自分宛ての断り文句の、第十稿を書いた。
書き出しは、いつもと同じだった。お手紙、ありがとうございました。
白羽さんの声で書いた。床下で聞いた、俺の字を読む声で。
書き終えて、頭から読み直した。期待は、いつものように死んだ。死んだはずだった。
ルーズリーフを四つに畳んで、黒いノートのいちばん後ろの、表紙の裏のポケットに入れた。本番の返事の骨組みも、同じルーズリーフに書いて、同じノートに挟んであった。俺のルーズリーフは、四月から、ずっと同じ種類だ。
同じ紙が、同じ四つ折りで、同じノートに二種類入っていた。そのときは、気にもしなかった。
九月二十一日、土曜日。文化祭の一日目。
体育館の扉が開いて、六百の椅子が、十分で埋まった。壁ぎわに、立ち見が並んだ。
俺は、その床の下にいた。




