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第28話 決勝戦の罠

 恋文屋の罠は、公平という顔をしてやってきた。

 宛先は、今度も俺だった。


 九月二日、月曜日の昼休み。二年B組の後ろの扉から、拡声器の先が、本人より先に入ってきた。六月に、四番勝負の許可を取りに来たときと同じ入り方だった。

「失礼します! 一年A組、新聞部、百瀬うららです!」

 百瀬は、俺の机の横を通りすぎるとき、俺の弁当に目を落として言った。

「墨田先輩、こんにちは!」

 弁当に向かって、挨拶された。名前を覚えても、百瀬が見るのは、相変わらず手元だけらしい。


 百瀬は、窓側の前から二番目の席の前で止まった。

「白羽先輩! 文化祭の決勝戦、出てください!」

 教室の四十人が、箸を止めた。

「九月二十一日、体育館の舞台です! 告白する人が舞台に上がって、恋文屋さんが、その場で恋文を書きます! 白羽先輩のお返事は、二日目に、舞台で読み上げます!」

 白羽さんは、百瀬を見上げた。箸を置いた。

「……ごめんなさい」

 間が長く、言い終えて、目を伏せた。辞典の①、謝罪の「ごめんなさい」だった。断るときにも、白羽さんは謝る。

 体育館の舞台は、六百人の前だ。四月に図書室で、一行も書けないと言った人には、広すぎる。


「逃げるの?」

 後ろの扉から、声がした。

 赤い髪留め。紅林だった。六月に、俺の机の上で宣戦布告を書いた人だ。今日は、手帳を置かずに、教室の真ん中まで歩いてきて、腕を組んだ。

「それとも、その場では書けないのかしら」

 教室が、しんとした。

「白羽さん。あなたの返事は、いつも一週間かかるわね。……返事は、手紙で。来週の、金曜に」

 紅林は、練習した一文を、一字一句そのまま言った。「手紙で」のあとの半拍まで、正確だった。七月までの四番勝負で、学食で毎週聞いていた一文だ。耳のいい人に、毎週聞かせてはいけないものだった。

「一週間あれば、誰だって、誰かに書いてもらえるわ」

 俺の箸が、止まった。教室じゅうの箸が止まっていたので、目立たずにすんだ。

「公平にしましょう。私は、舞台の上で、その場で恋文を書く。だから、あなたも」

 紅林は、胸ポケットの万年筆を抜いて、キャップを外した。六月の宣戦布告と、同じ手つきだった。

「返事は、舞台の上で、その場で書くこと」

「採用です!」

 百瀬が、拡声器で叫んだ。

「特ダネです! その場で書いて、その場で読む! 決勝戦にふさわしいです!」


 公平、という言葉が、罠の形をしていた。断れば、その場では書けないからだと思われる。受ければ、舞台の上で書かなければならない。どちらに転んでも、困るのは、教室のいちばん後ろで箸を止めている人間だった。

 白羽さんが、立ち上がった。

 椅子の脚が、床を一度鳴らした。

 白羽さんは紅林に向き直り、背筋を伸ばして、深く頭を下げた。九十度だった。

 誰も、何も言わなかった。白羽さんも、何も言わなかった。

 四月、図書室のシラノの本から出てきた依頼状は、果たし状に見えた。今日の九十度も、同じ形をしていた。果たし状を、受け取るときの礼だった。

「……受けるのね」

 紅林が言った。口の端が、少しだけ上がっていた。言い返されると楽しそうになる人は、黙って受けられても、楽しそうになるらしい。

「成立です!」

 百瀬は敬礼して、撤収した。帰りも、俺の弁当に「失礼しました!」と言っていった。


  ◇


 放課後の文芸部室で、俺は先に言った。

「無理だ」

 白羽さんは、長机の向かいに座っていた。

「舞台の上で、その場で書く。六百人の前で。手は白羽さんの手で、言葉は俺の言葉だ。でも、俺は舞台に上がれない」

 上がれば、その時点で終わる。二人のルールの一つ目、代筆のことは誰にも言わない。舞台の上に書く人間が二人いたら、それは、言ったのと同じことだ。

 白羽さんの言葉で書く、という手もある。言いかけて、やめた。七月、期末試験の現代文の前の日、白羽さんは、自分の考えを三行書くのに十分かかった。俺は壁を向いて、しみを二回数えて待った。舞台の上の返事は、四百字ある。しかも一行目から、六百人に読まれる。

「断ろう。今からでも」

 断れば、紅林の推理が当たっていたことになる。それも分かっていた。分かっていて、言った。六百人の前で、白羽さんを書けない人にするよりは、ましだった。


 白羽さんは、首を横に振った。

 それから、右手の人差し指を、胸の前に上げた。

 いつもの空書きより、ずっと大きかった。ずっと遅かった。一画ずつ、空気に彫りこむように書いた。


  〈や・る〉


 止めは、空中でぴたりと止まった。払いは、刀みたいに長かった。向かい合って書かれる空書きは、左右が逆になる。逆になっても、読めた。読めるように書いたのではなかった。読めないわけにいかない強さだった。

 書き終えた指は、下りなかった。最後の止めのところで、空中に置かれたままだった。

 三月に逃げるために走った人が、八月の終わりには、渡すために走った。九月は、やるらしい。

「……墨田、くん」

 名前と「くん」のあいだに、半拍あった。

「……方法を、お願い、します」

 五月の雨の日に、吉岡への返事を頼んだときと同じ、九十度の「お願いします」ではなかった。今日は、背筋を伸ばして、まっすぐ俺を見たまま言った。

 断る理由を、俺はもう一つも思いつけなかった。思いついていたはずの理由は、〈やる〉の払いで、全部切られていた。

「……分かった。方法を、探す」

 白羽さんの指が、やっと下りた。


  ◇


 方法は、図書室にあった。

 九月三日から、放課後は書庫にいた。柳先生に頼んで、学校の古い記念誌を出してもらった。創立何十周年かごとに作られる、分厚い本だ。

 三冊目の、昔の文化祭の写真のページで、手が止まった。

 体育館の舞台の真ん中で、床から人が、腰まで生えていた。昔の演劇部の写真だった。下の説明に〔奈落からの登場〕とあった。

「……奈落」

 口から出ていた。柳先生が、ページをのぞきこんだ。

「ああ、あったわね。舞台の床の下に、人が入れる場所。もう何年も、誰も使っていないはずだけど」

 図書室では、柳先生の声は、ページをめくる音くらいの大きさになる。その声が、少しだけ懐かしそうだった。どうして懐かしいのかは、聞かなかった。


 九月六日の金曜日、学食で、百瀬が九十回目を受け取った。終業式の日の、紙ナプキンの告白への返事だった。次の告白も、百瀬は自分の字で書いてきた。今度はナプキンではなく、便箋だった。夏祭りの二人にも、その日のうちに返事が渡った。


 九月十日、火曜日の放課後。バレー部の練習が終わった体育館には、誰もいなかった。

 舞台の正面の下、客席から見て右の端に、小さな扉があった。点検口だった。かがんで開けると、暗い奥へ、低い空間が続いていた。舞台の下だ。舞台の前面には細長い通気口の格子があって、体育館の明かりが、そこから筋になって差しこんでいた。

 白羽さんは、舞台の上に残った。俺は懐中電灯を持って、這って入った。

 奈落は、思ったより狭く、思ったよりほこりっぽかった。

 四つん這いで三メートル進むと、頭の上に、四角い切れ目があった。昔、人がせり上がった穴だ。今は板で塞がれて、釘が打ってあった。

 ただ、そのまわりの床板と床板のあいだに、隙間があった。指は入らない。紙一枚なら、通る。


 俺は、その隙間を見上げて、しばらく動けなかった。

 ここから紙を差し出せば、上に立つ人が受け取る。下で書いて、上で読む。書いた人間の顔は、誰にも見えない。

 第三幕だった。口下手な美男子のかわりに、手紙の書き手がバルコニーの下に隠れて、上の人に言葉を届ける場面。一年前から、シラノの本を開くたびに、頼みごとはいつも、そのページに挟まっていた。

 百年以上前にロスタンが書いたバルコニーの下が、天神坂高校の体育館の床下で、ほこりをかぶって俺を待っていた。

 俺は、ロスタンに感謝した。百年ぶんを、まとめて感謝した。

 感謝しすぎて、頭を上げた。

 床板に、頭をぶつけた。

 ごん、と鳴った。舞台の上で、白羽さんの足音が、一歩ぶん止まった。バルコニーの下の男は、たぶん、こんな音は立てなかった。


 ほこりを払ってから、ノートを一枚破って、書いた。四つに折って、隙間から、上へ押し出した。

 紙が、上に吸いこまれた。正確には、上から指が二本、紙の端をつまんで引いた。

 隙間の向こうに一瞬だけ見えた指先に、薄く、墨のしみがあった。右手の中指の、いつものしみだった。顔は見えなかった。指先だけで、誰だか分かった。


 しばらくして、紙が一枚、隙間から下りてきた。

 懐中電灯で照らした。俺の紙の裏に、白羽さんの筆ペンの字があった。


  〔読めません〕


 俺が書いたのは、〔これ、読める?〕だった。

 四月に図書室で、〔権田先輩へ〕を見せたときと、同じ答えだった。あのときは「……ごめんなさい」で、今日は字で返ってきた。

 奈落は見つかった。バルコニーの下も見つかった。作戦のいちばん大きな穴も、見つかった。床板の隙間より、ずっと大きな穴だった。

 文化祭まで、十一日だった。

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