第26話 白羽家は全員しゃべる
白羽家の玄関で、俺の名前は、最初の五分で九回呼ばれた。
白羽さんだけが、一回も呼ばなかった。
八月二十六日、月曜日。白羽書院は、学校から自転車で十五分の、古い住宅街の角にあった。木の看板に、筆の字で〔白羽書院〕。一階が書道教室で、その上で家族が暮らしている。月曜は、教室の休みの日らしい。
玄関のチャイムを押した。
押した指が離れる前に、扉が開いた。
「さあ! 白羽家に、お客様がやってまいりました!」
よく通る男の人の声だった。ラジオの声だった。白羽さんのお父さんは地元FMのパーソナリティで、家でも実況をする。五月の雨の文芸部室で、本人から聞いていた。聞いてはいたが、玄関で実況されるとは思っていなかった。
「お名前は!」
「……墨田、です」
「墨田くん! 墨田くんです、リスナーのみなさん!」
リスナーは、玄関にはいなかった。
お父さんの肩の向こうから、女の人の顔が出た。
「結論から言います。三つあります」
指が一本、立った。お母さんだ。保険の営業成績が、県で一番の人。
「一つ、いらっしゃい、墨田くん。二つ、靴はそこで脱いでね。三つ」
「おーっと! 姉ちゃんの友達、靴を、そろえたー!」
三つ目の前に、廊下の奥から小学生の声が割りこんだ。弟の颯だった。俺が脱いだ靴をそろえるのを、柱の陰から実況していた。
「そろえたー! かかとまで、ぴったりだー!」
「墨田くん、見事な靴のそろえ方です、リスナーのみなさん!」
「結論から言います。三つあります。一つ、墨田くんは礼儀正しい」
三人が、同時にしゃべっていた。五月に白羽さんの話を聞きながら、俺は白羽家の食卓を、四つの番組を一台のテレビで同時に流しているようなもの、と頭の中で組み立てた。比喩のつもりだった。比喩ではなかった。
白羽さんは、三人のうしろにいた。
白いブラウスに、紺のスカート。家の中でも、背筋は定規入りだった。
白羽さんの口が、開いた。
「……あの」
「ことは! 墨田くんがお見えだぞ!」
閉じた。
もう一度、開いた。
「……すみ」
「結論から言います。墨田くんは、ことはの」
「おーっと、姉ちゃん、口を開けたー! 閉じたー!」
閉じた。
言いたいことを頭の中で組み立てているあいだに、話は次に行ってしまう。五月に、白羽さんが三十二分かけて話してくれたことだった。それが、目の前で、三秒おきに起きていた。
俺も、口を開けた。
「……あ」
「墨田くん! 墨田くんは、ことはの、何かな!」
答えを組み立てているあいだに、お母さんが三つ答えた。一つ、同級生。二つ、文芸部。三つ。
「彼氏だー!」
颯が、先に言った。
「リスナーのみなさん、聞いてください」
お父さんの声が、一段、低くなった。番組の声だった。
「今週の金曜日は、これでいきます。うちの娘がですね、ついに、男の子を、連れてまいりまして!」
金曜の番組で、毎週、娘の話をする人だった。今週の娘の話が、いま、玄関で決まった。
白羽さんの右手の人差し指が、すごい速さで動いた。
〈ち・が・う〉
「出たー! 姉ちゃんの、呪文だー!」
颯が叫んだ。家族の誰にも、読めていなかった。五月に教室で、四十人に向かって同じ三文字が書かれたときも、教室の誰かが「呪文?」と言った。読めたのは、あのときも今日も、俺だけだった。
読めたところで、口を挟む隙間は、どこにもなかった。
「うるさい」
奥の襖の向こうから、短い声がした。
三人が、ぴたりと黙った。
「全員、背中」
お父さんと、お母さんと、颯と、白羽さんの背中が、同時に、すっと伸びた。
四人とも、定規入りだった。白羽さんの姿勢の出どころは、五月に聞いた。家族全員ぶんの出どころだとは、聞いていなかった。
襖が開いて、小柄な、白髪のおばあさんが出てきた。
俺を、頭から足まで、一度だけ見た。
「書院は、こっちだよ」
二語より、少しだけ長かった。
◇
書院は、広い畳の部屋だった。長い机が三列、硯と文鎮が等間隔に並んでいた。墨の匂いがした。壁には、生徒の書いた半紙が何枚も貼ってあった。
白羽さんのおばあさんは、入口の脇の小さな机の前に座った。机の上に、和紙を綴じた帳面が一冊。
「名前を」
芳名帳だった。書院に来た客は、名前を書くことになっているらしい。
筆ペンを渡されて、俺は書いた。〔墨田文也〕。七月、期末試験の午後の文芸部室で、白羽さんに朱で四つ直された名前だった。直されたとおりに書いたつもりだった。
おばあさんは、それを見た。長いあいだ、見た。
「ミミズが、事故を起こしたような字だね」
うしろで、白羽さんの肩が、小さく揺れた。笑ったのではないと思う。笑うのを、こらえたのだと思う。
おばあさんは芳名帳を閉じ、白羽さんのほうを見ずに言った。
「ことは。一枚、書きな」
白羽さんは、いちばん前の机に座った。半紙を広げ、文鎮で押さえ、筆を取った。筆ペンではなく、本物の筆だった。
「名前を」
白羽さんは、書いた。〔白羽ことは〕。
俺は、止めとはねを見た。癖だ。
最後の「は」が、跳ねていた。いつもより、はっきり。払いの先が、紙の上で一度弾んでから止まっていた。
「あんた」
おばあさんが、俺に言った。
「この字、どう見る」
書家に、孫の字の意見を聞かれていた。ミミズに事故を起こさせる人間がだ。
嘘は、つけなかった。
「……うれしい、字です」
白羽さんの筆が、止まった。
おばあさんは、俺を見た。それから半紙を見た。それから、また俺を見た。
何も言わなかった。
十秒くらい、何も言わなかった。玄関で三つの番組が同時に鳴っていた家とは思えない静けさだった。
白羽さんが、半紙の上の自分の名前を、両手でそっと隠した。
隠したのは、最後の「は」だった。
何がうれしいのかは、字には書いていない。字が教えてくれるのは、機嫌までだ。分かるのはそこまでなのに、隠した手のひらのほうが、字よりもずっと、うれしそうに見えた。
「……一時間したら、縁側においで」
おばあさんは、それだけ言って、書院を出ていった。
三通の下書きは、そのあと、書院のいちばん奥の机で、声を落として読んだ。二階からは、お父さんの声がときどき降ってきた。金曜の番組の練習らしかった。
読めたのは、二通だった。射的の屋台の前の二年生と、りんご飴の列の一年生は、夏祭りの参道で見たことだけで、なんとか書けた。返事の日付を自分から言って、白羽さんを困らせなかった一年生には、そのことを書いた。白羽さんは、一文ずつうなずいた。
三通目は、宛名しかなかった。夏祭りの石段の上で、九月六日、ですね、と言って少しだけ笑った三年生だ。三年の教室は、二年の俺たちには遠い。夏休みのあいだに、調べようがなかった。
白羽さんは、宛名だけの紙を、しばらく見ていた。
◇
一時間後、縁側に出た。
書院の裏に、小さな庭があった。物干し竿と、柿の木が一本。蝉が一匹だけ、鳴いていた。
おばあさんは縁側に座って、麦茶を二つ置いていた。片方を、俺のほうへ押した。
「あんたの字じゃ、清書の手伝いはできないね」
「……はい」
「じゃあ、何を手伝ってるんだい」
「……読むほうを」
嘘ではなかった。下書きを声に出して読むのは、俺の仕事だ。
おばあさんは、俺の顔を少しのあいだ見て、それから庭のほうを向いた。
「そうかい。読むほう、ね」
それ以上は、聞かれなかった。聞かれなかったことのほうが、聞かれるより怖かった。
「あの子の字は、怒ると、払いが刀みたいになる」
おばあさんが言った。
「うれしいと、『は』が跳ねる。悲しいと、線が細くなる」
俺が四月から一人で読んできたことを、おばあさんは三行で言った。
「十年、あの子の字を見てきたけどね。それが読めるのは、うちじゃ、あたし一人だった」
麦茶の氷が、からんと鳴った。
「今日、二人になった」
俺は、何も言えなかった。麦茶を一口飲んだ。味は、しなかった。
「あの子はね、小さいころ、しゃべろうとしては泣いてた」
おばあさんは、庭を見たまま続けた。
「うちは、みんな、しゃべるだろう。あの子が一言目を組み立ててるうちに、話が三つ先に行っちまう。それで、泣く。泣くと、みんなが黙って見る。それで、また泣く」
五月の雨の文芸部室で、白羽さんから聞いた話だった。同じ話を、反対側から聞いていた。
「六つのとき、筆を持たせた」
おばあさんは、そこで少しだけ間をおいた。
「最初に、何を書いたと思う」
俺は、答えなかった。答えを組み立てているあいだに、おばあさんが言った。
「ありがとう、だよ」
蝉が、鳴きやんだ。
「口じゃ、一回も言えたことがなかった。それを、半紙いっぱいに書いた。誰に、とは書いてなかった。たぶん、うちの全員にさ」
五月の終わり、坂の下の分かれ道で、白羽さんの「ありが」は三文字で止まった。残りの二文字は、まだ聞けていない。
六歳の白羽さんは、半紙の上で、五文字とも書けていたらしい。
「字は、待ってくれるからね」
おばあさんは、それだけ言って、麦茶を飲んだ。
◇
夕方、二通の清書が乾いたころ、書院を出た。三通目は、宛名だけのまま、白羽さんの机に残っていた。
玄関では、また三つの番組が始まった。
「墨田くん、お帰りです! リスナーのみなさん、墨田くんのお帰りです!」
「結論から言います。三つあります。一つ、また来てね。二つ」
「姉ちゃんの友達、靴をはいたー! かかとを、踏まなかったー!」
俺は、三つの番組に向かって、一回だけ頭を下げた。それで足りたかどうかは、分からない。
白羽さんが、門まで送ってくれた。
門の前で、白羽さんが止まった。俺も止まった。
白羽さんの口が、開いた。
今度は、誰も割りこまなかった。家族は、玄関の内側にいた。蝉も、もう鳴いていなかった。
「……墨田くん」
それだけだった。
白羽さんは一礼して、門の中へ戻っていった。背筋は、最後まで定規入りだった。
玄関で、二回押し流された言葉の続きだった。一回目は「……あの」で、二回目は「……すみ」で止まっていた。
白羽家の三人が最初の五分で九回呼んだ名前を、白羽さんは、四月十五日から四か月と十一日かけて、一回だけ呼んだ。
俺は、門の前から動けなかった。
動けたのは、二階の窓が開いたからだった。
「墨田くーん! 結論から言います!」
お母さんだった。
「三つあります! 一つ、さっきお茶を持っていったとき、ことはの机の宛名が見えました! 三年の水野くん、うちのお客さんの息子さんなの! 二つ、水野くんは、八月三十一日に、お父さんの転勤でメキシコに行きます! 三つ」
「さあ、白羽家に夕方がやってまいりました!」
家の中から、お父さんの声が割りこんだ。窓が閉まった。
三つ目は、たぶん、手紙なら急いで、だった。
夏祭りの石段の上で、九月六日、ですね、と言って、少しだけ笑った三年生だ。
九月六日には、あの人は、もう日本にいない。笑った理由が、やっと分かった。
八月三十一日まで、五日しかなかった。




